Print Friendly, PDF & Email

■会場より

質問者1 一番最初の方で、強度のある身体性に拮抗しうる声を考えて、1971年に鍊肉工房を創設されたというお話をされていました。今日の一番最後の方でも、分節化される前の身体の深層から出てくる声の重要さについてお話になっていたと思います。アルトーのように神から言語を再び奪還しようという声の取り持ち方と違うと思ったりもしますが、声と身体のあり方については、鍊肉工房を創設して以来、変化されていますか、それともされていませんか。

岡本 一番根元にある問題意識は、変化していないと思います。優れた演者の能を観ていますと、大地の底から声がわき上がってくるというか、刻々大地に切断が入って、お、お、お、おと声が立ち上ってきて、それが演者に降ってくるように思いますね。

質問者1 発声されたものが、また演者の身体の中に入ってくるということですね。

岡本 ええ、そうです。そして地謡や囃子方の声、音も含み込んで、降ってきて入ってくる。60年代末に観た観世寿夫さんの能では、シテが橋掛りに出てきた第一声がそうした声で、驚きました。凄かったですね。
 それでですね、舞踏の強度を持った身体性と拮抗する発語、声の問題ですけれど、手掛かりになればと、僕が深い影響を受けた詩人の那珂太郎さんが語られた、この本にも収められている講演の一部を引いてみます。那珂さんは、72年に『物忌姦(モノイミカン)』という公演で、はじめて僕の舞台をご覧になったんですね。それについてこう語っておられます。

六本木の自由劇場という小さな小屋で『物忌姦』という作品を観たんですが、非常にショッキングというか、新しいものと出会い驚きました。その前に僕も暗黒舞踏を一、二回観たことはあるんですけれども、それと錬肉工房のはっきりした違いは、普通舞踏というのは声を出さない。もちろん、台詞・言葉はない、肉体だけを動かす身体表現によって、ある一つの世界を舞台に表すわけなんですけれども、錬肉工房の特徴は声があること、これにまず僕は驚きました。しかし、もちろん普通の演劇とは違う。錬肉工房の仕事は、舞踏とも演劇とも題目は付けられていないと思うんですけれど、独特の舞台を見て、そこで声そのものが何か発生状態で捉えられていて、その声がひとつの言葉になり、あるいは言葉が脈絡を持ってある意味を作ったり、逆に意味から形成された言葉を解体して、無意味なただの声に還元されたり、そういう操作が非常に面白かったんですね。そしてある意味では、それは僕がその頃やっていた詩の仕事と共通したものが感じられて、とても新鮮なショックを受けました。

72年の『物忌姦』は、錬肉工房の第2回目の公演ですが、その頃から既に僕にとって、言葉と身体の関係性の問題は、根底の重要な課題でしたね。身体の深部での言葉や声の発生状態や、意味と無意味の関係など、いろいろと試み探っていました。その大きな手掛かりになっていたのが、一つにはさっきの能の優れた演者の、大地の底から切断が入ってわき上がってくるような、そうした息や声のあり方でしたね。

質問2 テキストについておうかがいしたいのですが、上演のために選ばれるテキストに何か基準はあるのですか。

岡本 まずテキストありき、身体論ありきということではないですね。言語哲学者の井筒俊彦さんが言語意識の深層領域ということをいっておられて、手掛かりになりました。そこでは身体=意識=言葉の状態、あり方で、概念性の留金を抜かれ、既成の意味というようなものは一つもなく、刻々新しい世界が開けてくるんだと書かれていました。そうした意味の生命の流動する場というものを根底に考えていて、まずそこに下降することを大事にして探ってきましたね。
 テキストの選択についていえば、僕の大きな課題として、詩的演劇言語を作っていきたいということがあります。例えばヴァレリーは、詩と散文の違いについて、散文を歩行に、詩を舞踏にたとえていましたが、まさに身体=意識=言葉といった深層領域のレヴェルで、詩的演劇言語の可能性を探ってきたと思います。それでそうした作業にかなうようなテキストとして、能の謡曲であったり、那珂太郎さんの現代詩なんかはこれまでも何回も大事に使ってきましたね。またさらには、新たな詩的演劇言語を作って行きたいと、これまでも現代詩人の高柳誠さん、阿部日奈子さん、歌人の水原紫苑さんとかに舞台上演のためのテキストを依頼してきました。高柳誠さんとは4作、作りましたね。

西堂 詩劇ではなくて詩的演劇言語ですね。

岡本 ええ。そういった試みが今はなくなっていますね。近現代演劇史の中で、これまでも詩劇の課題の必要性は語られてきましたけれど、どうも充分な成果が挙がったと思えません。さっきも少し言いましたが、アングラの時代、例えば唐十郎さんの作品のある部分は、シュールレアリスムの影響も受けて、普通の対話劇だけれど、優れた詩的言語だと思うんですね。韻文によらない詩的演劇言語、詩劇の可能性の追究は、現代演劇の現場にとって一つの重要な課題だと思います。まあ最近はナチュラリズムへの回帰がありますけれど、僕なんかにはあまり興味が持てないですね。

西堂 ある意味ギリシャ悲劇やシェイクスピアに通じる系譜の中の劇詩ですね。そういう大きな意味での詩的な劇は正当的な位置にある。

岡本 僕もそういう系譜がとても大事だと思うし、東西の演劇史の中でもやはり非リアリズムの演劇が主流で、それは正当な位置にあると思いますね。言うまでもなく、能や歌舞伎の一部は、韻文による優れた詩劇の達成です。しかし明治以降の近代化の中で、近代リアリズム演劇を移入し定着させることは重要な課題でしたけれど、そこで一度切断が入ったんですね。ここにも「伝統と現代の断絶と接合」の課題があるわけでして、韻文によらない、現代語での詩的演劇言語の探求は、豊かな可能性を秘めていると僕は思っています。

小田幸子 国際演劇評論家協会日本センター会員の小田幸子です。私は岡本さんの作品はほとんどみていますが、今日一番感じたのは言葉のことでした。アングラの先輩たちは歌舞伎を現代に活かすことに熱心だったという話がありましたが、岡本さんはどこが違うかというと、能の言語を捉えたところにあると思う。那珂太郎の詩が、詩であると同時に音楽でもあるように、能は詩であると同時に謡われる。また、能には和歌が多く引用されていますが、和歌では、ひとつの単語が非常に深い意味をもっていますね。

岡本 多義的な、ね。

小田 ひとつの言葉が多義的な意味を持つ和歌のありかたを、能は「演劇」という形で編集したともいえます。

岡本 能は中世において、非常に優れた詩的演劇言語を作った。

小田 和歌は詩であるし歌であるし、劇でもある。そのような能の言葉のあり方に、岡本さんはひかれたような気がします。その頃、情念と言う言葉が流行していて、わたしも大好きでした。早稲田小劇場の白石加代子さんの情念は奔流のように外にあふれ出ていった。能にも内側に情念はたっぷりあるのに、表出を極力押さえて押さえていて、まるで情念なんか存在していないように表面上は見える。けれども、そのクールな表面を突然打ち破って人間の内側にあるものが現れる瞬間が訪れる。いってみれば「クールな情念」が歌舞伎と違うし、それは能の言葉が持つ働きが大きいと思うのですが、その辺にひかれたのではありませんか?

岡本 ええ、そうした逆説的なあり方にひかれたんだと思います。またそれは同時に身体の問題であったと思いますね。単に和歌や物語の再現ではなくて、それを活かして新たに詩的演劇言語とともに、身体言語の様式も創り出した。小田さんが、この本の中で僕の構成・演出した現代能『春と修羅』という公演のテキストの問題を詳しく分析されていますが、今の話も興味深いですね。

小田 岡本さんの舞台の声というのは、私は最終的には「意味」だと思うんです。どれだけ深く多層的な意味を感じとれるか、ということが面白いです。

岡本 そのために、まず日常意識、既成の概念の枠組みに揺さぶりがかかって、存在の、身体の根底の場に下降してみる。そしてそうした深層の意味生成の、発生の現場から、刻々新たに言葉の深い意味が立ち上ってくるわけで、それを可能にするための、身体や息の工夫がやはり大事なんですよね。一杯一杯早く回っている独楽は、止まって見えますが、そうしたフル回転で心身が動いているような澄んだ状態から、はじめて深い意味を担った声が届いてくる。言葉を大切にするには、やはりそうしたプロセスが必要なんだと思いますね。

西堂 言語と音楽という重要な問題がでてきて、それが意味の深さにつながる。それは芸術の大きな課題だと思う。小田さんの見事な岡本解剖だと思いました。

嶋田 今日は貴重なお話をありがとうございました。