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『ハムレットマシーン』(1998年)

1998年 『ハムレットマシーン』 撮影=宮内勝

西堂 この年は、現代能『紫上』、現代能『無』、『ハムレットマシーン』と三連続で公演されているんですね。

岡本 そうなんです。現代能『無』のイタリア公演もあったので、1998年はかなり忙しかったですが、多面的な角度から「現代能楽集」の展開が出来たと思っています。
 世田谷パブリックシアターで上演された『ハムレットマシーン』は、旧東独の劇作家ハイナー・ミュラーの作品で、様々なモノローグの断片が集積がされたテキストです。能の櫻間金記さん、ドイツ語朗誦の川手鷹彦さん、現代演劇の岡本章、長谷川功の共同作業で、能の大鼓、フルート、ヴァイオリンの演奏者も加え、島次郎さんの美術プランによる鉄板が敷き詰められた能舞台の上で演じられました。
 『ハムレットマシーン』は、『ハムレット』の世界が二重化され、東欧の現実が浮かび上り、またナチスやマルクス主義の専制の支配下に生きたミュラーの記憶が錯綜し、現在の日本の状況からは一見「遠く」、「重い」テキストで、それをどのようにアクチュアリティを持って上演出来るのかということが大きな課題でした。そこでテキストを深く読み込んでみたんですが、するとそこには空無化、冷えの果ての「熱」のようなものがあって、それは20世紀の戦争、暴動、革命の過程での、さらにはギリシャ悲劇以来の死者の声、視線であることが明らかになってきたんですね。
 言うまでもなく夢幻能には死者、亡霊が登場し、過去の記憶を語り、思い出が思い起こされ、鎮魂のカタルシスの舞が舞われます。もちろん『ハムレットマシーン』は、直接夢幻能的な構造は持っていませんが、テキストには重層的な記憶の層があって、そこから絶えず非業の死者たちが呼び出され、その声が「熱」となってこちらに伝わってきて、揺さぶられるものがあったんですね。
 「現代能楽集」の重要な問題意識の一つに夢幻能のテキスト、またそれを支える演技、身体性の捉え返しの作業があったわけですが、そこでこの時は「現代能楽集」の新たな挑戦の試みとして、『ハムレットマシーン』のテキスト、言葉を大きな手掛かりにして、そうした課題を根底から問い直してみたいと、能、現代演劇、ドイツ語朗誦の共同作業として取り組んでみました。
 実際の舞台の第三場では、若い女面をかけ、黒のシャツ、ズボン姿のオフィーリア役のシテ方の櫻間金記さんが闇に浮かび、長い緊張感のある「間」の後、様式化された能の語りや謡のシステムのもう一つ根底の声を語り出します。そしてその後の「スケルツォ」の場面で、花嫁衣裳の白のヴェールを着け、二人の男(コロス)たちとゆっくり舞い終えたオフィーリアの女面が、突如剥ぎ取られるんですね。僕はその時コロスとして出演し、背後から近寄って面を取る役だったんですが、面が取られた瞬間、そこにはオフィーリアであり、ハムレットであり、また生身の初老の一人の男の姿であり、そしてさらには、累々たる非業の死者たちの呪詛の声、姿、ある無垢なものが蘇り、浮かび上ってきたのを覚えていますね。もちろんこれは何か乱暴狼藉を働いたわけではない。能は能面を付け覆うことで、日常を超えた深層部分が逆説的に顕になってくるという回路を持っていますが、ここでは能面を剥ぎ取ることを通して、その回路、枠組み自体にもう一度揺さぶりをかけ、さらに根底の身体の、存在の場に戻ってみたいと試みたんですね。『ハムレットマシーン』の舞台では、このように死者の声、視線を大事にしながら、夢幻能の演技の持つ自在で深い存在感、関係性、それを支える身体技法も射程に入れて、それを現代に活かし、展開することが目指されたといえると思います。