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■現代能『無』(1998年)

1998年 現代能『無』 撮影=宮内勝

岡本 それでですね、「現代能楽集」の連作、今日は1990年の現代能『水の声』、1998年の現代能『無』、『ハムレットマシーン』、そして最新作の2017年の『西埠頭/鵺』を取り上げましょう。『水の声』は先程取り上げましたので、残りの3本についてお話します。
 現代能『無』は、舞踏家の大野一雄さん、能楽師の観世榮夫さんの共演で話題になりましたが、「老いの芸」ということを課題にして上演しました。テキストは能の老女物の『姨捨』、ベケットの『ロッカバイ』、那珂太郎さんの現代詩「秋」から引用し、構成しましたが、当時大野さんは91歳、観世さんが71歳で、東西の極北のような「無」の、「老い」の生死の姿をその身に担ってもらい、「老い」と「救済」をテーマに演じていただきました。

西堂 上演されたのはシアターコクーンですね。

岡本 ええ、そうです。実際の舞台は、観世さんの強度のある身体性を持った声、言葉、多様な語りが、大野さんの身体に依り憑くような形で三つの場面を構成・演出しました。第三場では、まず観世さんが能『姨捨』の間狂言の部分を、コメディア・デッラルテのタルターリアの仮面をかけ、狂言でも現代演劇でもない独自の絶妙の語りを聞かせます。そしてその後、能の地謡の声、囃子の音に引かれるように、白塗りの裸体に長絹を羽織った大野さんが登場し、『姨捨』の序ノ舞を舞います。能の囃子で舞うことは、大野さんにとっても新しい挑戦、格闘で、もちろんそれは能の様式とは全く異なった、自在で独自の即興舞踏でした。
 今でも良く覚えているのは、大野さんの「自然さ」でしたね。先程、「自然(じねん)」の話をしましたが、当時大野さんは老齢で、直前の公演で腰を痛めておられて、舞台で時々はからずもふと、よろけ転びそうになるんですね。踊りの神様のような人が、舞台で踊りながら転ぶということは、ある意味で一つ間違えば舞踏家としての生命を失ってしまうような事態ですけれど、実はそうではなかったんですね。大野さんが何度かよろけ、転びそうになった時、不思議にかえってこちらも、観客も、心身が根底から解き放たれたような感覚を味わったんですよね。それはいってみれば、コップか何かモノが倒れるように「自然」に、人がよろけ、転ぶような、自在な心身のあり方でした。普通はそうした事態になれば、「あっ、しまった」とか、何とか対応しようとかはからうと思うんですが、そんなことは全くなかったですね。これは印象深い体験でした。その時の大野さんには、「老い」の現実に徹し、逃げも隠れもなくそのまま背負い、さらけ出し、格闘し、限りを尽くして精一杯生きる姿がありましたね。
 能も「老いの芸」を探求してきましたが、大野さんのそうしたとらわれのない芸境は、能とはまた違った形で、作意を超えた無心の、「自然さ」の一つの展開の姿だったのかなと思いますし、そこから同時に生命の過剰さのようなものが浮かび上ってきました。現代能『無』の舞台では、観世榮夫さんをはじめとして、第一線の囃子方、地謡、現代音楽家と大野さんが出会い、切り結ぶことで、改めて「老いの芸」や「自然さ」について深部からの捉え返しが目指されたと思います。