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■現代能『水の声』

1990年 現代能『水の声』 撮影=吉越研

岡本 今言ったことは、「現代能楽集」の連作の共同作業の取り組み方、方向性とも密接に結びついているんです。具体的にはその重要な工夫、仕掛けとして、毎回異なった共通の課題、テーマを掲げ、それを多面的な角度から実践的に問い直すことを行いました。現代能『水の声』では、現代演劇、能、音響彫刻、コンピュータ音楽の共同作業になりましたけれど、そこでの共通の課題として、〈即興性〉、〈偶然性〉、プロセスの問題に的を絞ったんですね。
 能の演者には素足になって、定型的な型、様式を一旦離れてもらい、連日、即興の稽古を行うという難しい課題に挑戦してもらいましたが、即興といいましてももちろん恣意的なものではないんです。具体的にはそこで世阿弥の能楽論の「せぬ隙」の高度で充実した自在な「間」、内心の深い集中のあり方や「一調二機三声(いっちょうにきさんせい)」の発声のプロセスの問題を、普段の能舞台以上に徹底化し、拡大化して、自覚的に生きてみるということを方法的に試みてもらったたわけです。そのための共通の課題が、〈即興性〉、〈偶然性〉、プロセスの問題でした。だから単に封じて追い込むだけではなかったんです。普段なかなか見えてこない、能の演技、身体技法の核の部分に自覚的に戻ってみることで、その演技の本質構造がよりくっきりと浮かび上るとともに、新たな展開が目指されたといえます。
 それは能の演者だけでなく、他の現代芸術のジャンルの表現者にとっても同様に試みられ、例えば世阿弥の『花鏡』の「一調二機三声」の発声の問題は、現代音楽のジョン・ケージの〈偶然性〉のプロセスの課題、作業などとも通底してくるものがあるはずです。この「一調二機三声」の問題というのは、面白くていろいろと手掛かりになるんですよね。観世寿夫さんが著作の中でこのことを説明されていて、「声は出したときが終わるとき。声は出すまでが問題なのである。出してしまったらもう決着は着いてしまったのだ」と興味深いことを述べています。皆、声を出すことに関心があるが、実は出したときにはすでに終わっていて、その前の段階、プロセスがない限り本当に観客に届く声は出てこないんですね。
 その三段階ですけれど、まず「一調」なんですが、能は歌舞劇ですから、その音楽の調子を正確に摑まえる必要があります。それだけでなく、その日の天気、客席や他の演者の状態、もちろんテキストの内容などを深く受け止め、聞く。そうした深い耳の澄ませ方、集中の回路が「一調」です。そしてその次の「二機」というのは、気力や気分などのエネルギーです。心身の機能、器官がフル回転し、体の中心に集中して、気が充実した機会に「三声」、声が出る。その前のプロセスがきちんとないといけないといってるんですね。皆、結果ばかりに囚われてしまう。心身を空にして受け止め、体の中心部で気、エネルギーが凝縮して、ある瞬間ぱっと声が出てくる。これが大事で、『水の声』では能の演者には、このプロセスを普段の能舞台以上に徹底化して取り組んでもらいました。重要な内心の深い集中、自在な「間」、本来的な意味での〈即興性〉が同時にそこから生み出されてくる。もちろんこれは現代演劇をはじめ、いろいろな芸術ジャンルの根底の課題とも結びついてきます。

西堂 僕も「一調二機三声」をずいぶん昔岡本さんに教えてもらって、授業の前に実践しています。

岡本 やってる!?(笑)

西堂 一応。まず体や声の調子を整えて、次に教室の全体を見回し、焦って喋らないようにちょっと引いて、背中から自分を押し出すようにして声を出す。

岡本 そうです、その通りですよ。

西堂 ものすごく低いレベルで使ってます(笑)。

岡本 いや、いや、いろんな分野で役に立つ。

西堂 世阿弥の理論は、けっこう人生に応用できますね。

岡本 世阿弥の能楽論は、舞台の実践的な方法論であるとともに、人間存在の本質に根差し、見詰められているのでいろいろと応用が効くんですよね。先程、能の本質、究極の姿は自由なんだといいましたけれど、それは恣意的な勝手気儘な自由ではなくて、強い規範性、法則性を背負った中での根源的な自由が目指され、探られている。そして、そのことが観念的ではなく、様々な関係性の現場で具体的、多面的に探求されてきたわけで、だからこそ、その格闘の中で見出された知恵・方法論は貴重で参考になると思いますね。

西堂 身体に任せるという時の身体っていうのは、長い歴史があるわけです。個人、個体の歴史はたかだか五〇、七〇 年だけれども、人類の歴史は何千年、何億年という記憶があります。

岡本 そうですね。

西堂 自然体、あるいは「自然(じねん)」というか、そういうことの方が遙かに巨大なわけで、そことの対話ですね。個体の、たかだか七、八〇年の人生が、その歴史と対話している。

岡本 ええ、そうなんですね。個別の七、八〇年の人生、時間を超えた視点、身体が、能には存在します。「自然(じねん)」というのは、「自然(おのずからしかる)」ということで、natureの翻訳語として「自然」が選ばれましたが、もともと日本語の「自然」には、「おのずから」の生成の働きの意味が強く含みこまれているんですよね。能でも「草木国土悉皆成仏」で、植物や動物の精霊がシテとして登場しますが、そこには近代の機械論的な自然観とは違った宇宙観、自然観が存在しているし、夢幻能では死者、亡霊もシテとして登場してきます。例のクローデルの有名な言葉、「劇、それは何事かの到来であり、能、それは何者かの到来である」からも浮かび上ってくるように、シテは通常の登場人物を超えた何者かであって、その身体に劇世界、様々な記憶、さらには自然や宇宙までを担い、それを内蔵して到来してくる。だからそれは近代劇的な等身大の時間、空間を生きる身体ではない。舞踏の大野一雄さんは、宇宙記憶、生命記憶なんておっしゃっていましたけど、ある意味でそうした時間、空間を担った死者の視点から実人生が見つめ返され、生き直されてくる。
 そうした時、夢幻能のテキスト構造も面白いんですが、さらに重要で興味深いのは、その自在な時間、空間を生きる夢幻能のシテの演技、身体技法なんですよね。だから「現代能楽集」の連作の作業の様々な工夫、仕掛けも、一つにはそれを射程に入れ、具体的に捉え返し、現代演劇に新たに活かし展開するためのものだったといえると思います。先程おっしゃったように、僕が身体に任せるとか、委ねるとかいうのは、そうした深層の身体=意識とでもいえる根源の場、存在の基盤、ゼロ地点に戻って、丁寧に身体の声を聞き、対話していくことだったといえますね。
 もう少し「自然(じねん)」という言葉、あり方について考えてみますと、能・狂言の「老いの芸」の問題が出てきます。本当に時々ですけれど、老境に入って体力は衰えているけれど、なんとも自然で、自在で深い老名人の芸と出会うことがありますよね。それは、一見似ているようでも、近代劇の日常の再現の演技の「自然さ」とは全く違うんですね。先程、日本語の「自然」には、「おのずから」の生成の働きの意味が含まれているといいましたが、能・狂言の「老いの芸」には、そうした作意を超えた無心の状態、深い奥行きを持った「自然さ」が生きられています。観世寿夫さんがかつて、能の「居グセ」と呼ばれる黙ってじっと坐り、地謡がシテに変わって語る場面があるんですが、その長い時間をどう演じようと坐っているのかと訊ねられた時に、「自然に咲いている花みたいに、舞台に居たい」と書いておられたのを読んだことがあります。観客に自由に多様なイメージを喚起する、こうした「自然さ」のあり方は、近代劇的な対話の限界を超えていく、豊かで重要な示唆や手掛りを与えてくれるものだと思うんですね。もちろんそれは簡単なことではありませんが、これまでの僕の作業は、能の演技や身体技法、型、様式の持つ深い意味を探求しながらも、それを安易に神秘化するのではなく、自覚的に対象化し、捉え返しながら、その核の部分を多面的に探ってきたと思います。

西堂 岡本さんのそういう方法はどのように継承されていくんですか?

岡本 それは大事な課題ですね。いろんなやり方があるんでしょうけれど、僕の場合は型や様式化の方向性ではないんですね。型や様式化はある意味で効率的ですが、能に見られるように、やはり「型通り」の固定化、形骸化した画一的ななぞりの演技になってしまう危険が待ち受けている。それを超えて行ければと思って、僕は、「息」や「間」のあり方、腰や肚、息のつめ方といった演技の重要な課題を徹底して対象化し、分解、分析することで、型や様式の基盤にある呼吸法や発声法、丹田などの身体の集中、リラクゼーション法といった具体的な身体技法の形で方法化してきました。これはあまりやられていないと思います。
 実はこれまで何回か、僕の岡本身体表現メソッドと呼ばれている方法論の書籍化や映像化の話がありましたが、お断りしてきたんですね。といいますのも、身体の問題、世界は、やはり個別性なんですね。個別性といっても、もちろんそれは日常の個我といったものではなく、それを超えた根底の「私ならざる私」とでもいった世界、あり方なんですけれど、とても細やかで激しいものがある。身体や生命というものは、精妙で画一的に扱えないものなんですよ。だから直接立ち合って、現場で一人一人のその身体の変化、気付きといった個別性を大事にしながら耳を澄ませ、声を聞き、探っていくということを、50年近くやってきましたね。

西堂 身体技法という言い方をされていますが、技法であるからには共有できるものですね。

岡本 もちろん、そうです。

西堂 決してひとりの一子相伝ではなく。

岡本 ええ。だから出来るだけ開かれた形で共有し、継承化されていければと思い、誰でも使え、活かせる具体的な身体技法の形で方法化してきたんですね。劇団内部はもちろん、「現代能楽集」の連作では、能をはじめ多様なジャンルの表現者たちが、僕のメソッドを補助線、手掛かりにして、ゼロ地点でのスリリングな共同作業を行ってきました。それは専門家だけのためのものではなく、西堂さんもご存知のように、7, 80年代は「岡本演戯塾」という形で、若い演劇志望者に向けて教えましたし、また90年代は依頼がいろいろありましたので、カルチャーセンターや劇団協議会なんかでもワークショップを行いましたね。多くの受講者がありましたから、いろんな人が僕の演劇、身体表現のメソッドを活用していると思いますよ。それから2000年代になってからは、大学の実習授業で一般の学生にも教えました。呼吸法や発声法、身体の集中、リラクゼーション法は誰でも手掛かりになり、使えるので、好評でしたね。大学の方も定年で区切りがつきましたから、これからはいろんな場でさらに開かれた形でワークショップを行い、それとともに、大変ですけれど求めがありますので、メソッドの書籍化、映像化にも、出来るだけ取り組めればとも思っています。