『ナビゲーションズ』構成・演出=相模友士郎 2014年11月、福井北ノ庄クラシックス
『ナビゲーションズ』構成・演出=相模友士郎 2014年11月、福井北ノ庄クラシックス

 一つの作品で開けた視野を、次の作品が分節し、三つ目で新たな段階へ。そんな、ホップ・ステップ・ジャンプ・・・・・・とまで都合よくは運ばなくとも、照応しあって自分にとっての意味をもたらしてくれた鑑賞体験をこそ共有したい。それが、個別に品評を迫ってくるグローバル市場、あるいは窮屈になった日本のコンテンポラリー・ダンスのフィールドで遊び続ける当座の術のように思われるからだ。
 今回取り上げるのは、昨年の秋口に見た三作品となる。私たちはふだん、どのようなモノに取り囲まれて生活しているのか、モノによって私達の動きや振る舞いはどのように影響を受けているのか。そんな問いを、「私の」あるいは「私達の」身体に関連づけながら考える材料が、そこには含まれていたように思う。いずれも前景化した部分を手短に切り取って、概要を振り返ることから始めたい。

ルイス・ガレー『メンタルアクティビティ』2014年10月9,10,11日 京都芸術センター

森川弘和『動物紳士』2014年11月15日〜24日 シアター・グリーン BOX in BOX THEATER

相模友士郎『ナビゲーションズ』2014年11月23, 24日 福井北の庄クラシックス

 『メンタルアクティビティ』は、コンクリートブロックや木材など、結構な重さの物体が、アクティング・エリアに一つずつ投げ込まれるところから始まる。まるで解体工場で出る廃材のような物質が、奥から客席方向へ飛び、埃を舞いあげながらドシンガシンと落下する様は、ダンス作品のオープニング・アクトとしては今なお挑発的に感じられる。こうして少々不穏な雰囲気を漂わせながら観客の目の前に、ダンサーたちの探求の場が広げ散らかされてから小一時間。眼前で展開された行為は、作品が置かれた枠組みによると実験でもあり、儀式でもあるわけだが、ともかくそれが「何?」であるのか分節しきれなくとも、ダンサーの身体に課せられている”法”の読み解けなさと、彼らの途切れない集中とにより、見る側からも同等の注視を引き出す動きのクォリティは生み出した。その点で、未知の知覚を求めていまだ続行されているが、今日では困難になったモダニズム芸術の実験としては上々だ。もっとも、コンテンポラリー・ダンスにおいて今日可能なヴィルトゥオーゾ性とはかくあらん、といわんばかりの『マネリエス』を目撃した後では、強度において実験の端緒といったところではある。
 興味深さの一因は、物体への日常的な関わりを禁じ手とし、例えばモノの重さや質感や形状に自らの身体を沿わせてゆき、ひいては物体に対して操作的な主体としては振る舞わない、といった法のようなものが、複合的にムーヴメントに組み込まれていたことによる。あまり説得力のある例が思い出せないが、埃まみれの木の株の一端を口でくわえにいったり、ブロックを結わえた鎖を振り回す中で振り回されていったり。「そうさわりにゆくか」「そう動かされるか」という違和感が、見ていて身体に粟粒のように広がっていった場面がある。この触覚に脅かされた時点で、知覚の探求の実験は、作り手から受け手への臨界を超えていると言えよう。だが、本作を見た時点ではまだこれらの試みは、環境に身体をチューニングさせる実験の系譜に回収され、その社会性や、それ以前に自分の生活にいかなるリーチを持つのか考えるには至らなかった。問題化されていた物体もモダニズムメガネを通すと、新たな質を得るための趣向の変わったオブジェくらいにしか見えなかったのだ。それを彼ら、いや私達の日常の振る舞いを未来において規定するであろう廃材として捉え直せたのは、次の二作を見てからのことである。

 物体に規定される振付のあり方を、鑑賞への作用とともに明確に意識させてくれたのが、『動物紳士』となる。本作は作家の特性をよく汲んだプロデュース公演で、どのような空間であれ物理的な凸凹としてアスレチックに踊りこなす森川弘和から、これまで以上のパフォーマンスを引き出す環境を用意しようという意図が察せられる。杉山至が趣向をこらした衣裳と美術は、凹凸で伸縮性と拘束性を増したガーゼ布(これはIKEAのタオルケットではないか?)、スペクトルム模様の透明屏風、椅子の背が梯子になったイスハシゴ。いずれも運動や視線に何らかの制約を課しつつ、次の動きを触発するよう考えられているには違いない。振付の森川もこれに応え、冒頭ではガーゼ布を第二の皮膚のように全身にまとい、動きと視覚の双方を制限しながら、繭の中で蛹が蠢き人へと脱皮するかのようなプロセスをじっくり見せた。これまで運動軌跡を観客の記憶に残すことのみを是としてきたような森川が、空間を占める身体の質料や肌理を丁寧になぞらせ、人間と非人間的存在との間を行き来するドラマトゥルギーを準備したことは、その後の展開への期待を大いに高めた。しかしながら、透明屏風にさらわれて視線が拡散したあたりから、変容を純粋に観察する楽しみはなぜだか目減りしていった。盲点は、特注の人工物が、ダンサーと観客双方の自由度を思いのほか狭めてしまった点にあると考える。
 たとえるなら、ここで衣裳と美術は、ある意味動物園の行動展示のためにしつらえられた遊具と同じようなはたらきを持ってしまったのだ。もっと悪いことに、舞台上にはそれら以外のものが何もない。森川は必ずそれらを用いて遊ばねばならない。それとともに、ダンスの楽しみの根幹にある遊戯性、すなわち自律運動は目的化され、自発的な開始や自然な収束を妨げられる。一方で、見る側は人間離れした動きへの期待を常に高く更新し、満たされることはない。そして、動きを引き出すという用途に目的を絞り込んで制作された、現実にはあり得ないイスハシゴなどは、日常への関係の糸口を持たず、観客の想像力にも重い軛となってしまった。このように本作のオブジェは、共遊戯者の獲得には甚だ不利に作用してしまったように思われる。

『ナビゲーションズ』構成・演出=相模友士郎 2014年11月、福井北ノ庄クラシックス
『ナビゲーションズ』構成・演出=相模友士郎 2014年11月、福井北ノ庄クラシックス

 コンテンポラリー・ダンスの身体を一つでも二つでも観察してみると、つまりポスト・モダンダンスやポスト・舞踏、ポスト・バウシュの鑑賞の枠組みの延長にあるダンス作品を見てみれば、その少なからずが自動詞の「踊る」行為から逸脱していることに気づくだろう。ダンスの媒体である現代を生きる身体を、日々の労働とは異なる身体秩序を構築することでつかの間解放するダンスばかりでなく、主客に分裂し不整合をきたした日常の状態においてリサーチし、そこに作用している法や諸関係を可視化したり、関係性をパフォーマティブに変換したりして公衆に問う。そのような実験作品が、舞踊史を意識することなく育成された世代の振付家においても普通に存在するからだ。このあたりはドキュメンタリー演劇が現代の演技術を変化させたこととも、背景が重なるのかも知れない。さておき、このような意味でのコンテンポラリー・ダンスにおいて、行為や運動を触発し規定するモノの位相は、モダニズムのそれから「労働」や「環境」と同じ日常の法と捉える局面へと移行したと捉えられる。それが客席に座る者の日常にどのようなリーチを持ちうるか、そう考えさせたのが『動物紳士』の帰りに、全く異なる環境と文脈で鑑賞したことで好対照をなした『ナビゲーションズ』となる。

 本作は福井の駅前からちょうどよく繁華な商店街を通って一〇分くらいの小径に面した、作品にぴったりの構造と雰囲気を持つライブスペースで上演された。構成は二部で、観客のまなざしを耕すのに半時、踊りを立ち上げるのに半時。それぞれの始まりに演出家がのこのこ出てきて床をモップで拭ってきれいにし、「ぼちぼちナビゲーションズを始めます」的な告知をする。どちらが普通名詞でどちらが作品タイトルだったのかは、後で思い返して大笑い、あるいは地団駄踏むというオチになっている。
 モノに焦点を戻すと、先にほのめかしたように、本作で用いられるのは日常の身の回り品である。ハンドクリーム、ライター、リップクリーム、財布、ボールペン・・・それらは関西屈指のダンサー、佐藤健太郎が社交ダンスの衣裳(!)を身につけ悠々と舞台を周回する傍ら、演出家の手により丁寧に床に並べ広げられる。モノがダンスを探求するフィールドを形作り、それらに触発されたムーヴメントからダンスを立ち上げてゆく手法は、先に挙げた二作ならずとも、例えばライムント・ホーゲの初期作品を特徴づける、わりと王道ではある。そういった中で本作がユニークなのは、それらが舞台道具として作家が準備したものでも、出演者の記憶のスイッチとして選ばれたものでもなく、観客から任意で集められた点にある。作品の開始時に演出家から、電源を切っていない携帯電話と手持ちの何かを貸して欲しいというリクエストがあり、そうして回収された携帯電話は上手奥に袋でつり下げられて時折カランコロン鳴り(この日はあまりならなかったが)、所持品類は床に広げられ、佐藤にダンスとして紐解かれるのを待つという趣向だ。
 ダンスの環境を観客の所持品で整えるという発想は、『先制のイメージ』から『天使論』へと相模が展開してきた振付手法の延長にあると、まずは考えられる。それは、いきなりダンスを見せるのではなく、”ダンス”が見えるようになるまで観客の視覚的聴覚的記憶力と想像力を引き出しながら、伴走する方法と言い換えてもいいだろう。ネタバレになるので、詳述は控えるが、その過程において様々な”ステップ”を設けつつ、映画”Shall we dance”のテーマ曲に載せて、佐藤は観客の視線をダンスに連れ出そうとする。その間、ダンスに変換されてゆく仕草を引き出すモノが、個々の観客の日常的な身振りと密接に結びついた所持品であることは、双方の身体秩序が干渉する瞬間さえもたらすだろう。そのように視覚にとどまらぬ身体感覚のチューニングを経て、この一〇分のためにその日一日のすべての時間と道のりがあった、と思えるほどのダンスが最後に”見える”。『ナビゲーションズ』とはその意味で、何のひねりもないそのまんまのタイトルを冠しているが、極めて具体的な戦略にもとづくフィジカルな作品なのである。

『ナビゲーションズ』構成・演出=相模友士郎 2014年11月、福井北ノ庄クラシックス
『ナビゲーションズ』構成・演出=相模友士郎 2014年11月、福井北ノ庄クラシックス

 あるいは、ダンスは解消として訪れる最後の十分のムーヴメントを切り取ったものではなく、その間に「これがダンス?」と宙づりにされながら踏んできた知覚のステップを包括する、前後の日常へと伸張してゆく時間の体験なのではないだろうか。演出家の挨拶の傍ら、B’zの『LADY NAVIGATION』をノリノリで踊り続ける佐藤のアンコール(?)があり、さらにアフター・トークに残った観客には、演出家による『Shall we dance』の完全実演版が披露され・・・・・・という風に、『ナビゲーションズ』の「始まり」に関する疑惑とともに、終演時点もうやむやにされているように思われる。このように、ダンスの成立が、いついかなる時も、いかなる人の動きや空間や時間の現象にでも、リズム構造を見いだせる「私」の知覚にあり得るとなった時、高度消費社会における私達の日常がいかに消費財に規定されていても、未来における私達の日常がそれらの廃棄物に規定されるようになっても、私達は日常を生き延びる術を手に入れられるのかも知れない。