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SPAC『グスコーブドリの伝記』 原作=宮沢賢治 脚本=山崎ナオコーラ 演出=宮城聰 2015年1〜2月 静岡芸術劇場 【右から】グスコーブドリ(美加理)、てぐす工場主(吉植荘一郎)、同僚(山本実幸)  撮影=日置真光
SPAC『グスコーブドリの伝記』 原作=宮沢賢治 脚本=山崎ナオコーラ 演出=宮城聰 2015年1〜2月 静岡芸術劇場
【右から】グスコーブドリ(美加理)、てぐす工場主(吉植荘一郎)、同僚(山本実幸)  撮影=日置真光
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
   ──宮沢賢治『春と修羅』「序」より

 宮沢賢治の最後の長編童話『グスコーブドリの伝記』は、冷害による飢饉で父母を失い、妹と離れたグスコーブドリが、イーハトーブ火山局の技師となり、冷害を防ぐために火山を噴火させに行く物語だ。今回の上演は、「自己犠牲」の物語として読まれることの多いこの作品を、そのような道徳的な解釈から解き放つと同時に、SPAC(静岡県舞台芸術センター)のここ数年の活動の集大成ともなった。そのことを五つの主題から検証したい。

 

1 絵本と人形

 賢治童話の舞台化がとりわけ難しいのは、戯曲というものがイメージ化されるために書かれた文字であるとすれば、童話はイメージを文字化したものと言えるからだ。一度文字化された心象風景(イメージ)に形を持たせること。つまり作品のもつ音楽性や色彩性、不可思議な世界観を、舞台という具象に変化させることは、宮沢賢治のように読者の多い作品ほどより困難となるだろう。この難問に応えるため、演出の宮城聰は、「人形劇」による「絵本」という新たな方程式を作り出した。
 装置は繋がった十二個の白い四角い木のフレーム(舞台美術=深沢襟)。舞台中央に菱形に組まれたフレームは、音楽とともに俳優たちによって開かれ、そのフレームの一つが舞台正面で止まる。すると次の瞬間には、四角いフレームの中でブドリと妹ネリが蘭の花を煮て遊んでいる。おそらくごく短い暗転の間に俳優たちはフレームの中に入ったのだろう。このブドリとネリによる一頁ができあがった瞬間から、観客は「絵本」の世界を旅することになる。フレームにはそれぞれ木、花、馬など、木で作ったオブジェが掛けられ、頁ごとに異なった背景を見せる。たとえば、ブドリが働く沼ばたけの場面では、十二個のフレームが楕円形に展開し、そのうちの一つである正面のフレームが絵本の頁の輪郭を表し、そして広がった部分は、沼ばたけ全体を表現する。このフレームは、頁としての外枠だけではなく、場面を描く装置としての役割も果たすのだ。また、装置やオブジェの直線的なラインと共鳴するかのごとく、ブドリが最初に働くてぐす(養蚕)工場で紡いだ糸も、火山局で肥料を撒くために降らせる雨も、空間に直線を引いたように上から降りてくる——この舞台は幾何学で組み立てられた世界なのである。
 人形は、等身大よりも一回り小さく、顔も胴体も固定され、両手に操作棒がつくシンプルな構造で、衣装は淡い色合いのパッチワーク。しかも顔部分には、操作する俳優自身のモノクロの写真が使われているという、ユニークな造形をしている。俳優たちは、顔の部分に網の垂れた白い帽子にハイカラーの白いコートで、昆虫学者か保険所の職員、あるいは山高帽にロングコートを着た、有名な写真の賢治を彷彿とさせる姿で人形を操る。つまり人形劇ではあるが、一般の人形劇における黒衣(くろこ)としての人形遣いという主従関係ではなく、ここでは人形と俳優は同列に存在しているかに見える。俳優の顔写真の付いた人形は、人形を通して俳優を透かしながらも、そのモノクロの顔からは、俳優がモノトーンの本の世界に入り込んでしまったかのような印象をも与える。そのうえ、本来、影であるべき人形遣いと光であるべき人形との関係が、「白衣(しろこ)」とでも呼びたくなる全身白ずくめの姿により反転している。この人形劇においては、操作する人間を隠すのではなく、人形と俳優を重ねるのだ。一体化するのでも、分化するのでもない人形と俳優の関係は、実際に操作棒で結ばれていることが示す通りの、延長線の関係ではないだろうか? 棒という線を通じて人形と人間、互いが互いのまねをする——この人形の存在は、〈私〉の単独性に対する問いかけかも知れない。ただ、グスコーブドリだけは人形ではなく、俳優(美加理)によって演じられる。それでも、ブドリ自身の動作も様式化されており、人形の中にいても違和感がない。だが、ブドリだけが人形でないのは、ブドリがこの物語を旅する主人公であり、同時にこの絵本の頁をめくる本人だからだろう。
 絵本と人形、この組み合わせを結びつける上での不可欠な要素が暗転である。この舞台では、大きな場面転換だけでなく、通常の舞台ならそのまま続いていく一連の流れの途中にも暗転を入れることで、暗転による断絶ではなく、むしろ、コマ送りのような場面の連続性を生み出した。それは、頁から頁へと移動する間(ま)であり、『銀河鉄道の夜』で、丘の上にいたジョバンニが気がついたら列車の車内にいるという、現実と夢、移動と静止との境が地続きになる場である。この暗転の効果によって、空間と時間は交錯し、観客は日常とは変質した奇妙な感覚を味わう。
 こうして宮城は、子ども向けの教訓話やおとぎ話に変換させることなく、賢治童話を舞台化する。それは、文字に対抗して過剰なファンタジー世界を作り上げるという“足し算”ではなく、形も色も動きも抑えることによる、舞台化という三次元の世界から絵本という二次元の世界への“引き算”だ。その結果、二次元でも三次元でもない、そのあいだの淡い世界を現出させ、賢治童話のイメージ化を可能としたのである。
 しかし、こうした朧げな世界の中で、一つだけ存在のはっきりとしているものがある。それはブドリの青い手帳だ。この手帳の意味を考えるために、まずは「科学」について考察したい。

 

2 科学と芸術

 木こりの父グスコーナドリ(阿部一徳)と、麦育ての母サリ(木内琴子)、妹ネリ(本多麻紀)と別れ一人ぼっちになったブドリは、最初はてぐす工場で、次に赤ヒゲ(大道無門優也)の沼ばたけで肥料設計などをして働いた後、赤ヒゲにジャケットとお金をもらい町へ出る。そこでクーボー博士(渡辺敬彦)の歴史の授業を受け、火山局で働くこととなる。森から町へ、農業から科学へと、ブドリは旅をしていく。脚本の山崎ナオコーラは、原作を単に台詞に起こすのではなく、賢治の人生や作品の畑を丹念に耕し、そこにある言葉を丁寧に拾う。登場人物たちが語るどの台詞も、まるで賢治が書いた言葉のようで、随所から賢治らしいオノマトペも聞こえてくる。宮城作品では、俳優による打楽器の生演奏を特徴とするが、今回は舞台奥に並んだ演奏エリアから、打楽器ならではの音の粒とともに演奏者によってオノマトペが発声される(音楽=棚川寛子)。たとえば、火山の場面では「がーん、どろどろどろどろ、のんのんのんのん」という声が音楽と重なって鳴り響く。一方で、ブドリが泣く場面では、ブドリ自身が「ぽろぽろぽろ」と声に出して言うのである。ここでは音と言葉、言葉と声の区別は消える。オノマトペは音楽となり、音楽もまた言葉となる——これこそ賢治の詩が文字を超えて演劇となる瞬間だ。
 さらに山崎は、賢治自身の姿をブドリに重ねる。そのための大きな仕掛けが「サイエンスフィクションの世界」というキーワードである。原作にないこの言葉は、てぐす工場主(吉植荘一郎)と、火山局のペンネンナーム技師(阿部一徳)、そしてブドリ自身によっても使われる。てぐす工場主はブドリに、「ここはサイエンスフィクションの世界だからな。ここにあるのは、普通は普通でも、サイエンスフィクションの世界の普通だよ。」と話し、ペンネン技師は「ここはサイエンスフィクションの世界ですからね。できたらいいなと思うことで、できてしまうことがあります」と語る。そしてそれらを聞いてきたブドリ自身が「考え始めたってことは、できるも同然なんだ。このサイエンスフィクションの世界においては」と再会を果たした妹ネリに告げるのだ。これは登場人物自身が、童話の世界の住人であることを語る、劇中劇的な構造を異化する意識の表れでもあろう。しかしより大事なことは、「サイエンスフィクション」は、この物語がフィクションであるということよりも、むしろ世界そのものに対峙する態度のあり方を示す単語であるということだ。つまり、ここでの「サイエンスフィクション」とは、空想科学小説などではなく、「想像/創造科学」とも呼ぶべきものである。いわゆるSF小説が科学的な仮想のもとに書かれるとしたら、これは賢治が夢見た科学によって思い描かれる理想のことなのだから。さらにここでの科学とは、自然を征服するためのものではなく、ブドリのように肥料設計をし、日照りや冷害、火山の噴火などの自然災害とどう向き合うかを考えるための手段であり、端的に言えば、農民の暮らしをよくするための技芸(アート)のことである。ここにおいて科学と芸術は一致する。冷害の予報を前になす術もないブドリがつぶやく、「しかし、僕は諦めないぞ。何かしら方法があるはずなんだ。だって、ここはサイエンスフィクションの世界なんだから。」——つまり、「サイエンスフィクションの世界」とは、人々が幸せになる可能性を考えることのできる世界という意味なのである。
 ブドリが初めて火山局を訪れたとき、ペンネン技師は、火山の雰囲気を知るには感性が大切と教えながら、火山の雰囲気を測定する装置を見せる。装置に驚いたブドリは、「雰囲気まで、数字や図に起こせるなんて。それなら、芸術も科学も、同じものなんですね」とペンネン技師に尋ねる。これこそが賢治の目指していた科学/芸術の理想だ。科学は想像する未来を作るためにあり、それは芸術という想像と変わることがない。想像という思いこそが科学を科学たらしめる。この科学と芸術を重ねた劇構造が示すのは、物語の枠組みに留まらない、科学や芸術そのものに対する問いと覚悟だ。そしてそれは、自らの青い手帳とともに働き続けたブドリの「仕事」への問いかけとなるのである。

SPAC『グスコーブドリの伝記』 【右から】グスコーブドリ(美加理)、てぐす工場主(吉植荘一郎)、同僚(山本実幸)  撮影=日置真光
SPAC『グスコーブドリの伝記』
【右から】グスコーブドリ(美加理)、てぐす工場主(吉植荘一郎)、同僚(山本実幸)  撮影=日置真光

 

3 農民と仕事

 賢治自身の願いを伝えるように、ブドリは「農民になりたい」「本当の仕事がしたい」と繰り返す。だが、ここで興味深いのは、ブドリは、実際に沼ばたけで働いている最中にも「農民になりたい」と口にすることだ。沼ばたけで働きながらも自分を「農民」とは考えない、ブドリの目指す農民とはいったい何者なのだろうか?
 両親や妹と離れてから、常にブドリとともにあったのは青い手帳である。ブドリはまず、家の本で文字を覚えた。その後、てぐす工場で青い手帳をもらうと、そこでは養蚕の本を、沼ばたけでは農業とクーボー博士の本を読み、町へ出た後は、クーボー博士の授業でも、火山局でも、ブドリはひたすら学んだことや考えたことを手帳に書きとめる。養蚕、農業、歴史の授業、火山局の仕事……あらゆることを手帳に書きとめるブドリだが、町へ行く汽車の中で、「でも、今は、手帳にぎっしりと文字を書いたり、うっとりする言葉を頭に浮かべたりするだけでは、幸せになれない。沼ばたけで働いて、農民になりたいって思ってしまったから」と言う。農民になりたいと思いながらも、ブドリは文字や言葉を捨てはしない。この後もブドリは青い手帳を肌身離さず持ちながら、書き続け、農民を辛さから救う方法を考える。つまり「農民になる」ためにブドリは書き、考え、動く。書くという行為が肥料となりブドリの思考を育み、生育した思考は行為という実となる。それこそが、ブドリのいう「本当の仕事」ではないか。
 火山へと向かうブドリを止めようとするペンネン技師に「未来は明るいです。僕よりもっとなんでもできる人が、僕よりももっと立派に、もっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行きます」と話すブドリにとって、これからも同じことが起こるであろうその時、自分はその最初の一人ではあるが、大切なのは、最初の一人がいる限り、次に続く者がいるということなのだ。ブドリは本当の仕事をするために火山に向かう。しかし、この本当の仕事とは、自己犠牲などではない。ネリに「世界が全体、幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と説明するブドリには、火山に行くのも誰かのための犠牲などではなく、自己の幸せのためなのだから。
 火山に到着したブドリは、ひたすらその細い体で十二面すべてが開いた重いフレームを畳んでいく。薄暗い照明の、音のない静寂の中に木のきしむ音だけが響く。それはとてつもなく孤独な営みだ。しかし、その姿を見守る人々がいる。舞台の端に立つブドリを手伝いにきた町の人と、舞台の奥に佇む演奏者たち。畳んでいる途中で、ブドリがわずかにうなずき町の人を返すと、ブドリに力を貸すためだろうか、演奏者たちは再び音楽を奏ではじめる。その時、形を持たない音という無数の言葉が宙を舞う。
 絵本の頁を後ろから閉じていくように折り畳むと、フレームは始まりと同じ菱形になり、ブドリはその中心に入る。青い手帳を持ち、その手を山に向けて伸ばすと、火山が噴火し、きらきら光る赤いテープがブドリの上に落ち、噴火の発光とともにブドリの姿は見えなくなる。しかし、ブドリは噴火で焼かれて死んだのだろうか? 手を伸ばしまっすぐになったブドリは、フレームの直線と重なる——その時すでにブドリは、木枠の、風景の、自然の一つとなっている。ブドリもまた賢治のいう「現象」となったのである。

 

4 まねびとあそび

 この作品はまねと遊びに満ちている。子どものときのカッコウの鳴きまね。本のまねで覚えた文字。ブドリは、別の名をもつ花を「百合にとても似ている」とじっと見つめ、クーボー博士が授業で使う模型は、この舞台装置のミニュチュアだ。オノマトペ(擬声語・擬態語)はまねそのもの。言葉が涙のまねをし、涙のまねをした言葉は、音のまねをする。人形は俳優のまねをし、俳優もまた人形のまねをする。なぜこんなにもまねをするのか? それは「楽しいから」、なのではないだろうか。
 最後に、ネリとペンネン技師がお茶を飲みながらブドリについて語り合う、原作にはない場面が加えられた。そこでネリはブドリに似た少年と隣にいる女の子を見つけて「人間ひとりひとりをわけて考えるなんて、ばからしいことだったんだな。」と独り言のようにつぶやく。そしてブドリが残した青い手帳を、ブドリの使っていた椅子の上に開いて置くと、そこには大きく「の伝記」と書かれている。こうして、絵本という舞台は、青い手帳そのものと重なるのだ。固有名詞の付かない「の伝記」は、この伝記が「グスコーブドリ」だけの伝記ではないことを物語る。これはあらゆる人に開かれた伝記なのだ。ブドリに続く次の人の頁が開かれ、また新たな物語が始まる。今度はブドリによく似た少年の伝記かもしれない。その少年が、人形ではない役でその頁を旅し、そしてその旅の中では、ブドリが人形となって登場することもないとは言えないだろう。
 物語の最初に戻ろう。ブドリがネリと蘭の花を煮て遊ぶ場面。父親がネリに、兄に遊んでもらってよかったと声をかけると、ブドリは妹のためではなく「僕が楽しくなるから」蘭の花を煮ていると答える。それから、飢饉で食糧がなくなると、食い扶持を減らすため父親は「森へ行って、遊んでくるぞ」と言って家を出る。実は、ここに物語のすべてがあったのだ。まねることは学ぶことであり、遊びとは楽しいからやるものだ。父親が「遊ぶ」のも、ブドリが火山に行くのも、家族や人々のための犠牲なのではない。自分が「楽しくなるから」、父親もブドリもそれを行うのだ。
 こうしてブドリの物語は終わる、ようにも思えるが、ブドリと似た誰かの、またブドリかもしれない誰かの物語は続いていく。青い手帳の頁が開かれた中には、また青い手帳を持った誰かが現れるだろう。この舞台は、すでに時間と空間を超越し、二次元でも三次元でもない、四次元の世界となるのだ。ただ目の前の「今」ではなく、終わらない今とその未来、それこそが演劇だけに可能な「四次元的現実」なのである。

SPAC『グスコーブドリの伝記』 【手前から】グスコーブドリ(美加理)とペンネンナーム技師(阿部一徳)  撮影=日置真光
SPAC『グスコーブドリの伝記』
【手前から】グスコーブドリ(美加理)とペンネンナーム技師(阿部一徳)  撮影=日置真光

 

5 旅と演劇

 演劇もまた世界を知るための「科学」に他ならない。ここ数年、『グリム童話』『ペール・ギュント』『黄金の馬車』などで、旅する物語を描いてきた宮城だが、それらは、いわゆる自分探しの旅などではなく、人が役者となって演劇という旅をする、いわば世界探しの旅である。あるいは、宮城自身の言葉を借りれば、演劇とは“「わからないこと」に耐える力”を観客に手渡してくれるものだ。『グリム童話』では折り紙で、『ペール・ギュント』では双六で、『黄金の馬車』では馬車で、移動する空間が表されてきたが、『グスコーブドリの伝記』では、全体の動きを抑制し装置そのものの形を大きく変えることで、これまで以上に、空間そのものを変質させる移動の力学が生み出された。ブドリの旅は、時間性をも超越し、頁をめくるように前にも後にも行くことができる、四次元の旅である——旅の目的は到着点ではなく、旅そのものにあり、そしてその旅には終わりがないということを示唆するのだ。
 宮城がク・ナウカ時代から行ってきたムーバーとスピーカーという、動き手と語り手を切り離し、二人一役で演じる方法は、『グリム童話』において、台詞の勢いのままに身体を動かさないという、一人の俳優の中での動きと台詞の切り離しとでもいうべき試みに至った。そして今回、人形を操ることで、俳優と役柄の間には距離が生じ、俳優の身体と台詞との関係はより意識的に切り離される。俳優は必然的にその距離を旅しなくてはならないが、そうなれば役柄と自己とを同一とする心理主義的な演技をすることは不可能となるだろう。こうした表現方法により、『グスコーブドリの伝記』では、安易な感情表現を入れることで生じる二項対立的な表象が回避され、道徳規範として消費される賢治童話という枠組みを超えることに成功したのだ。
 これが実現できたのは、長年ともに舞台を作ってきた俳優の存在が大きい。たとえば、通常、少年役を女性が演じると、演技の隙間に日常の動作が露われ、ある種の不自然さは否めない。しかし美加理が演じたグスコーブドリは、俳優の素の要素を排除した完璧にコントロールされた演技と、一音一音をはっきり分節化する台詞術により、年齢やジェンダーの区分けを無効とする。これは、長年ムーバーとして鍛えられてきた美加理だからこそ可能な技術だろう。また、ペンネン博士の舌が滑るような台詞回しは、阿部一徳のスピーカーとしての経験の賜物だろう。しかし重要なのは、ムーバーとスピーカーという方法が、動きと語りのスペシャリストを作るためのものではないということだ。この二人一役の仕組みは、自己というものに耽溺しやすい俳優の自己を解体する作業だからである。ここ数年、再演の演目を除いて、SPACではわかりやすいムーバーとスピーカーの構造は使われていないが、『グリム童話』における試みが示す通り、俳優と台詞、身体と表現の関係の模索はより複雑になっている。俳優の演技だけではなく、音楽も美術も、長年にわたり集団として続けてきたその「仕事」がここに結実している。個々の技術の鍛錬があってこそ、全体として、一つの作品の成果となる。ブドリの言う個人の幸福と世界全体の幸福の関係、それはそのまま演劇創造における集団の理想ではないだろうか。
 この舞台はク・ナウカからSPACと続いてきた、集団の技術——科学の一つの形である。ク・ナウカとはロシア語で「科学へ」の意味だという。『グスコーブドリの伝記』は、宮城聰の演劇という科学の旅の道程であり、私たち観客もそのことを確認しながら長い旅をしてきた。そして今後もSPACと私たちは世界を旅していくことだろう。汽車に乗って森から町へ行ったブドリのように。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
   ──宮沢賢治『春と修羅』「序」より

*『春と修羅』の引用は、『宮沢賢治全集1』(筑摩書房、1986年)による。
 『グスコーブドリの伝記』の台詞の引用は、上演台本による。