『劇評『木馬の鼻』劇団唐ゼミ』── 佐藤心美|講座劇評
劇団唐ゼミ☆に書き下ろされた、唐十郎の新作『木馬の鼻』を観た。千秋楽で予約なしでいったため、当日券の列に並んだ。花やしき裏の浅草の夕景を背景に、あの小さなテントにこれだけの人が入るのだろうかと危ぶみながら、待つこと半刻。開場のアナウンスがあり、並んだ人々が次々と青いテントの中に吸い込まれていくさまを見ていると、ひと時代前の、あやしげな見世物小屋に入っていくような気分がじわじわとこみ上げてくる。
そして開幕。最近、大きな舞台でスカスカした舞台装置ばかり見ているせいか、狭い空間にみっしりと箪笥が並べられ、昭和のにおいのする、決して高級ではないが色鮮やかな道具が立て込まれているのをみるのは、なかなか心地よかった。
芝居が始まると、ひとりの女・竹子が箪笥のなかに毛布を敷き、なにやらかいがいしく飾り込んでいる。その箪笥の中は小さいながらも隙間なく飾り棚や絵の額などが飾られ素敵な空間になっている。
そこにとなりのラーメン屋の青年・市が現れる。彼が持ってきた岡持をあけると、その中も風鈴が吊るされ、こってりと飾り込まれた空間。まるでドールハウスの中にさらにドールハウスがあるみたいに小さな世界が展開されるのを見ていると、ちょうどいろんな家具や道具がふんだんに買いそろえられたリカちゃんハウスを眺めるような、本物ではないけれどミニチュアでもって物欲が満たされるような気分が味わえる。小さな空間をモノで満たしたい、という欲求はおしなべて女性のものかと思っていたが、よく考えると演劇というものもハコの中にさらに世界を作り込むものだな、と思う。
さて、竹子の弟の谷也が仕事で疲れて帰宅。この箪笥部屋に嬉しそうに閉じこもる。
この箪笥の前で、竹子は自分に惚れている市に向かって、自分を押し倒せと迫り、市は『勇気を出して』迫ろうとするが、箪笥から谷也が飛び出してきて阻止される。女性の側から明確に意思表示されないとアプローチできない男性像は現代的だが、なかなか微笑ましく見ることができたのは、役者の人柄だろうか。
この竹子、市、谷也が微笑ましいやりとりをしているところに、谷也の上司が彼の仕事ぶりにケチを付けに乗り込んでくる。彼が掃除をしている遊園地の屋上の木馬の鼻に、拭き残しがあったのである。その木馬をわざわざ持ってやってくるとは、なかなかこってりした嫌がらせだ。上司が木馬を置いて去ると、今度は区画整理のためだといって巻き尺をもった測量士の二人組がおしかけてくる。
竹子は『ワタシ認可しません』といって抗う。安易かつ強引な再開発というのは唐ワールドでは繰り返し出てくるモチーフだ。しかし、今回は『でも、この千葉に近い下町は、今、ゆっくり、泥砂が上がってきている』というセリフによって、3.11後の恐怖にも結びつけられているのは明確だ。
再開発と3.11の脅威に追い詰められる三人はどこへ行けばいいのか。
そこで、目指すべき理想の場所としての、マチュピチュ峡谷の名が谷也によって叫ばれ、マチュピチュと名をもらった木馬に乗って谷也が出撃するところで、一幕は終わる。
マチュピチュは1500年代にスペイン軍に征服されても、残ったインカの遺跡の名である。認可→印鑑→インカと、言葉によってイメージが次々と紡ぎ出されていくのは、唐十郎ならでは。
道具を立て替える金槌の音を聞きながらの休憩をはさんで、二幕へ。
舞台はピサロという名の喫茶店に変わっている。そこでは『群馬』という名前の女がフラメンコの稽古をしている(この絶妙なネーミングも唐十郎らしい)。
群馬は乗り込んできた竹子に「あたしの男を盗ってったやつ」と言いがかりをつける。彼女が強がって「男は足りてんだよ」と啖呵を切ると、客席から笑い——失笑とかではなく一種の励ましを含んだ、あたたかい笑い——が起こって、作者の唐さんが彼女の実生活を知っていてあて書きしているのかな、とも思わせ、面白い。
この群馬を演じる禿恵(とく めぐみ)は竹子役の椎野裕美子と並んでなかなかの存在感を放っているが、話が進むにつれて、なぜこれほど執拗に竹子たちを敵視するのだろうと疑問に思え、動機が見えなくなってきた。
しかし、そう思ってみると、谷也の上司たちも執拗に谷也をいじめる動機がよくわからない。最初は、年齢の近い役者たちが演じているから上下関係が見えにくいのか、なぜか彼らが「ぎこちなく」いじめているように感じられ、そのことがひっかかった。
そうこうしているうちに、上司たちの妻が登場して、いつまでもこんなことをしているとクビにされると、訴えにくる。上司たちもとたんに谷也と同じく不安定な立場になり、市が職安を開くというと、とたんに群がるのがなかなか現代社会を皮肉っていて可笑しい。
最後に谷也の箪笥が持ち込まれて、主婦たちや上司たちによって、これが元凶とばかりに寄ってたかって壊されてしまう。この谷也たちの「夢の象徴」であるところの箪笥が破壊されるシーンは芝居とわかっていても、見ていてやや辛いものがあった。破壊している彼らに、爽快感はない。観ている観客の側にももちろんない。
なぜだろう、と考えてみるに、破壊してもこの出口の見えない現実に終わりはこないし、解決策にはならない、という今の日本が抱えている閉塞感が抜き難くあるからであろう。それはどこかぎこちなく箪笥を破壊する彼らのふるまいにも現れている。
この閉塞感になんらかのカタルシスがもたらされるのか?
箪笥を破壊された谷也は悲しみに打ちひしがれはせず、木馬に乗って谷をめざす。谷への入り口であった箪笥は破壊されたが、その箪笥をさらに内包していた青テントが開く。
この劇の冒頭で青テントに吸い込まれ、その中に立て込まれた箪笥屋、さらにその中の箪笥の部屋、岡持の中、とマクロからミクロへと誘われた私たちは、最後には逆転して開いていく世界を見、テントの外に吐き出されるという体験。果たしてこれは緻密な計算によって創られたものなのか、それとも思いつくままに書いてこうなったのか。唐十郎の頭の中がのぞいてみたい。
総じて、この色彩豊かな唐十郎ワールドに、若い劇団員たちは果敢に挑んでいると見えた。千秋楽であったせいか、セリフの言い出しひとつひとつに思い入れの間があり、それがややテンポを悪くしているとも感じた。脇役にはちょっと存在理由にあいまいさを感じた。
ともかく私がこの芝居で強く印象に残ったのは、『ひたむきに生きようとはするけれど、ぎこちない』という事だったが、これは果たして演出によって意図されて生まれたものなのか、それともこの生きづらい現代に生きるゆえんなのか。
本当は、カタルシスまではいかないにしても、最後に青テントが開いて夜の浅草の空が見えたところで、もっと強い憧れが感じられたら良かったのだろうと思う。が、しかしその憧れの芽はあったので、劇団唐組☆の今後に期待したい。