「永遠に生きる死」という<幽霊的実在>――山の手事情社創立35周年記念公演『methods』『過妄女』劇評/本橋哲也
安田雅弘が主宰する劇団山の手事情社が、「創立35周年記念公演」として『methods』(2019年6月21日-24日)と『過妄女』(6月26日-30日)という新作2本を上演した(下北沢ザ・スズナリ)。一昨年には「劇団存続の危機」を劇団員たちの努力と彼ら彼女らの演劇を愛する人たちの応援によって乗り超えた山の手事情社が、自らの身体訓練法を開示した《山の手メソッド》のエッセンスを舞台化した前者と、初めてチェーホフの戯曲に挑戦した後者とは、一見必然性のない組み合わせのように見えるが、実はそこには「演劇とは身体の不思議を発掘することである」という山の手事情社の哲学と実践が見事に響きあって舞台化されていたのだ。この小稿はそのことを確認し、なぜこの劇団が現代世界において演劇の最前線に居るのかを実証する試みである。
▼「自由」とは何か
まず『methods』から検討していこう。この作品は、《山の手メソッド》と呼ばれる稽古場での練習を単なる「楽屋裏」の紹介ではなく、真剣勝負の舞台として提示したものだ。まず初期の山の手事情社に所属し、現在は「日本スタンダップコメディ協会」の会長として世界的に活躍する清水宏による「あの頃の山の手事情社」と題された演劇的回顧談で始まる。この破天荒なエネルギーをもった役者による導入部が、演劇とは「身体の発掘」であるという、今回の2作品を貫く主題の主調を形作るのだ。<身体トレーニング>について、安田自身が<演劇的教養>の意義について書いた著書から引用してみよう。
私たちの身体は、実は無数の感動の堆積だと言える。自分の感動のみならず、周囲の期待や祝福や祈りも含んだ記憶の宝庫だ。このトレーニングの目的は、自分の身体の歴史を掘り返し、埋もれた感覚を再確認して、それらに関わる心の動きを思い起こすことにある。発掘を通じた身体の歴史との対話だと言ってよい。(安田雅弘『魅せる自分のつくりかた――<演劇的教養>のすすめ』講談社選書メチエ、2018年、109-110頁)
この舞台での清水の演技は、「漫談」という(ともすれば緊張感を欠いた)伝統的なお笑い芸能ジャンルをはるかに超えた、文字通りの「stand-up comedy」、すなわち緊張感を持続した人を丸ごと喰わんばかりの異様な熱気に溢れている。それがここで安田の言う「発掘を通じた身体の歴史との対話」という哲学的言明を、自らの汗とエネルギーと(意味の文脈を過激に逸脱しつづける)言葉の奔流によって、身体的に証明しようとするのだから、これは「あの頃の山の手事情社」の「記憶」を一人の実際にその歴史を体験した一人の役者が、まさに現前で「発掘」する実践となる。評者の見るところ、今回、外面的相貌が全く異なるように見える2作品が並列された意味は、まさにこのような<身体>が観客の目前で発現する「記憶の発掘」、すなわち人間だけに可能な過去と現在と未来に対する時間意識を一方で喚起しながら、同時にそれを舞台上の「身体的実在」によって無化してしまう試みにある。つまり『methods』という作品は、《山の手メソッド》の単なる紹介でもパロディでもなく、次節で検討するようにチェーホフの作品にも安田が見出すところの「幽霊的実在」への序章をなしているのである。
さて清水によるこのような導入を経て、この作品は《ルパム》《フリーエチュード》《ものまね》《ショート・ストーリーズ》といった劇団が稽古場で日夜実行しているトレーニングを次々と見せていく。そのなかでここでは、《ものまね》と《フリーエチュード》に注目してみよう。
《ものまね》は一人の役者の独演で、よくある有名人や芸能人を真似る課題ではなく、身近によく居そうだが、しかし特異な印象を与える人を真似る訓練だ。つまり日常性の中に異常性を発見して、それを演劇化するトレーニングと言っていい。たとえば電器量販店のやり手店員とか、東京に初めてやって来た田舎のおじいさんとかが「真似」られる。山の手事情社の中核を担う俳優は、何本か《ものまね》ネタを持っており、それだけを集めた『ぴん』という上演作品もある。安田自身の言葉を借りると、「体液ごと他者に化けることが俳優の能力」であり、その能力が俳優に備わっていなければ、「幽霊」を出現させることはできないのだ。山の手事情社の俳優たちの身体にかかると、《物真似》は単なるステレオタイプの模倣ではなく、まさにそれは「身体の歴史を掘り返し、埋もれた感覚を再確認」する「真似び=学び」の実践となる。いわば、心や感情が先にあってそれが身体存在となるのではなく、身体の実在を信頼し、観客を含めた周囲の視線や期待に応えようと自らの身体を造形することで、なんらかの内面感覚が観客に仮想されるのだ。これこそが山の手事情社の俳優たちにとっての「演技力」であって、それがいわゆる西洋リアリズム演劇や(亜流の)スタニスラフスキー・システムの演技法とは、対極にあることが感得されるだろう。
《フリーエチュード》は複数で行う即興力を生かすトレーニングで、役者たちがある設定の元に、場面を瞬時に発想し瞬発的な機動力の発揮が鍵となる。今回は《こんなしぐさにぐっとくる》という提案がなされ、場面設定自体は、たとえば重そうな荷物を持ってあげるとか、ペンを貸すとかいったきわめて日常的な状況が展開されるのだが、そこからいかに逸脱して、異常な感覚を引き出すかが問われるのである。ところが今回の上演で驚くのは、俳優たちがいくつかの状況を演じた《フリーエチュード》のあとで、ふたたび清水宏が登場し、彼が破天荒な動きと台詞と状況を次々と導入して、それに対する演技を役者たちに要求することで、舞台のテンションが一気に亢進し、日常が完全に異常化されることだ。この突然の介入に名うての山の手事情社の俳優たちもたじたじとなり、ひたすら清水の指示に従い、舞台は《フリーエチュード》から「アナーキー・エチュード」に転換する。山の手事情社の用語では、「インヂアンジョー」と呼ばれて、今でも稽古の一つとして実践しているとのことだが、ここでも舞台の核を形作るのは、清水の野放図なエネルギーである。
その「マグマ」について、安田は次のように述べている。
清水はマグマだ、とは言わないまでも、温度を下げた表面の岩部分が一般人に比べてきわめて薄いということだ。その薄皮の隙間からマグマがちらっちらっと顔をのぞかせる。恐ろしいのは、清水はその状態を意図的に作っているということだ。表面の岩をあえて必要以上に固まらせないようにしている。(中略)しかし清水が舞台上で作り上げてくるものを見ていると、これこそ私が舞台上の俳優に求めている究極の姿だと痛感する。舞台というものは、劇場というものは、人々に日頃忘れているマグマ、すなわち裸のパッションを思い起こさせ、思い出させる場所なのだ。(「清水宏という男」2019年6月)
ここで述べられている「マグマ、すなわち裸のパッション」とは、小稿のキーワードである「幽霊的実在」の別名である。《フリーエチュード》の「フリー」とは、言い換えれば、過去・現在・未来と整然と分かたれているように見える人間的時間が攪乱され、身体的言語がソシュール的なシニフィアンとシニフィエとの恣意的な関係による意味の発現という記号論的な枠組みを逸脱して、意味の専制から解放される契機なのだ。それを身体による不断の翻訳と言ってもいいだろうが、この翻訳過程はたとえばベンヤミンの有名な「純粋言語」のような到達点を持たず、ひたすら拡張し雲散していく。おそらくそれを形容するのに、最もふさわしい用語は「グロテスク」であろうが、この語が示唆する上下、真偽、心体といった、あらゆるロゴス的な二項対立が、《フリーエチュード》によって解体されていく。そのとき観客が味わう解放感は「自由」と呼ぶほかないものだ。かくして、35年間にわたって実践されてきた劇団の民主主義という普段/不断の参加努力と、俳優個々の身体に潜在するアナーキーなマグマの噴出のあわいで、かろうじて成立する<演劇>という集合的自由のありようが開示される。
しかし、今回の2作品同時上演で目指されていたのは、《山の手メソッド》がこのように役者たちの「自由」を舞台上で実現するための方法であることを実証することに留まらない。そのことは次節で検討する『過妄女』において、人間にとって究極の二項対立である生と死との合一と溶解が描かれていることと、軌を一にする試みだったからである。