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劇団山の手事情社『テンペスト』原作=W.シェイクスピア 構成・演出=安田雅弘 2015年1月 東京芸術劇場シアターイースト 【写真】中央に、プロスペロー(山本芳郎)とエアリエル(浦弘毅) 撮影=平松俊之
劇団山の手事情社『テンペスト』原作=W.シェイクスピア 構成・演出=安田雅弘 2015年1月 東京芸術劇場シアターイースト
【写真】中央に、プロスペロー(山本芳郎)とエアリエル(浦弘毅) 撮影=平松俊之

 劇団山の手事情社が、構成・演出の安田雅弘の言葉によれば「一瞥して、退屈な作品」であって、「たいしたことが起きているようには見えない」シェイクスピアの『テンペスト』を上演した(2015年1月15日観劇)。この拙文は、この舞台を、植民地主義支配下の難破船と奴隷貿易という、政治的歴史的文脈を踏まえて読み解く試みである。

 まず劇場に入った観客を、暗い舞台から客席に向けて降り注ぐ青い明かりのシャワーと、静かに流れるバロック音楽が迎える(美術・照明=関口裕二、選曲・音響=斎見浩平)。美しい、と言うには何か不穏で不気味な光筋と音流──これはまるで水族館、いやまさに海中の情景、もっと限定すれば、シェイクスピアの『テンペスト』のなかで言及される「バーミューダ」、すなわちカリブ海における難破と海賊の名所での風景なのではないか。

 上演が始まると、まずは嵐の場面。多くの『テンペスト』上演で、ここはかなり退屈するところだ。いくら台詞で、「嵐だ」とか「船が真っ二つ」など言われても、映画ではないからスペクタクルには限界がある。しかし、今回のこの場面は見事と言うほかない。幕開きの壮麗な音楽が、近代科学技術の自壊を思わせる機械音に取って代わられ、黒衣に身を包んだ、妖精とも船員ともおぼしき者たちの一団が、パントマイムによって嵐に揉まれる船の情景を表現すると、そこにさらに他の妖精たちが介入して、船員たちの衣服を引き裂いていく。この上演では一貫して妖精たちが、言わば「無言のコロス」として、プロスペローの回想の中の人物を演じたり、彼の発言を評釈したり、はたまた彼を「殺す」役を務めたりする。

 ここに明瞭に示唆されているのは、近代の暴力がまずもって、表象の暴力であるということだ。そのことは、すでにピーター・グリーナウェイの映画『プロスペローの本』が明らかにしたように、プロスペローの言語帝国主義とその崩壊として、シェイクスピアの原作に刻印されている。ここでの演出も、それを表明するかのごとく、この嵐の場面での台詞はすべて、舞台背景に映し出される字幕によって明示される。山の手事情社の役者たちの鍛えられた身体と、不協和音、そして単語の羅列である記号の字幕との協働が、すでに冒頭の場面から、表象暴力という劇の主題を提示するのだ。

 この主題をさらに見事に表明するのが、「本」の横溢である。舞台上に所狭しと積まれた本は、効果的な小道具としても使われる。すなわち、「剣」や「丸太」という漢字、あるいは〈剣〉や〈丸太〉を表す絵が描かれた頁がときに開かれて、それが舞台上の「現実の力」となって機能するのである。この「本」と表象暴力との関係は、グリーナウェイの映画でも描かれているが、グリーナウェイ映画のプロスペローが表象権力を一手に握った万能の魔術師であるのに対し、この上演でのプロスペローは表象への欲望はあっても支配を完遂できない凡人にすぎず、彼と本との関係は密着していない。

 記号による身体への暴力という観点から、ここで注目したいのは、《丸太》という表象である。劇中、プロスペロー(山本芳郎)は、一目でミランダ(倉品淳子)を恋したファーディナンド(川村岳)の欲望を抑制し、彼の「真意」を質すために、丸太を運ぶ労働を彼に強制する。《丸太》は開かれた本の頁上の「丸太」という文字か、あるいは〈丸太〉の絵によって表され、それをファーディナンドは重そうに必死に、またミランダは軽々と楽しそうに担ぐ。表象なのだから「軽重」や「価値」なども、恣意と歴史性と政治力学の産物にすぎないのだ。ファーディナンドとミランダが担ぐ丸太は、まさに記号であることによって、欲望と労働の暴力性とを連想させながら増幅してゆく隠喩となるのだ。山の手事情社による『テンペスト』の芸術性とは、記号の恣意性を暴くことによって、他者支配の欲望と病の様相を探るという政治的歴史的批評性を梃としているのである。

劇団山の手事情社『テンペスト』 【写真】「丸太」を持つファーディナンド(川村岳)とミランダ(倉品淳子) 撮影=平松俊之
劇団山の手事情社『テンペスト』
【写真】「丸太」を持つファーディナンド(川村岳)とミランダ(倉品淳子) 撮影=平松俊之

 他者へのまなざしに潜む欲望の病──これについては、今回の上演で特に傑出した人物造形を達成していた、ミランダ、キャリバン、そしてプロスペローの様相に言及しなくてはならない。そのときの鍵は、それぞれ欲望、記憶、そして悪夢であり、その3つを統合する意匠が、反復である。

 今回の舞台のミランダは、あろうことか「中年女性」であって、プロスペローの娘というより、妻か娼婦の態だ。なによりプロスペローとキャリバンだけに囲まれた閉鎖的な島における「12年」(ミラノを追放されたときに幼児であったミランダが12年後に中年となっているということはあり得ないので、この「12年」というのは「長年」とか「永遠」とかの代名詞とも考えられる)が、従来の解釈における「可憐」で「貞淑」なミランダ像から解放された、自らの「欲望」も持ち、しかもそれを能動的に表出する画期的な造形を生んだのだ。

 次にキャリバン(岩淵吉能)であるが、ここでも植民地主義への深い洞察が光る。西洋植民地主義文学のイコンであるキャリバンは、この上演の中で、島の住民というよりも、海の存在として描かれている。より正確に言えば、それは、自由を担保する海という地理的空間ではなく、束縛と隷従、そして反抗をはらんだ政治的領域、その象徴としての奴隷船の船倉における形象である。そのことを示唆するために、安田は、舞台上で他の人物と交渉するキャリバンの「トリプル」というか、もう二つのキャリバンの幻影とも思しき人物を配する。一つは、上演中ほとんどの間、奴隷船の船倉とおぼしき場所のベッドに縛り付けられて拷問され、苦痛に体をくねらせる男──彼が呻き声をあげる度に、船が傾き、シャンデリアが喘ぐ。奴隷の身体に加えられる植民地主義暴力が、魔法の宮殿を照らす明かりの点滅と、西洋個人主義の内破を示すベッドの軋みによって、増長されるのだ。彼は物語のなかのキャリバンが「あいつはおれだ。あれがおれの正体だったんだ」と言うように、奴隷としての過去の思い出でもあり、現在の認知なのである。もう一つは、プロスペローの「悪夢」の場面で、奴隷労働の対極にある無意味な行為にして、不穏な反抗を示唆しながら、同時に奴隷船のなかで奴隷を働かせる現場監督のイメージを喚起する男──彼がベッドの手前で、黒い金属を金床に叩きつける音は、鍛冶屋の労働と囚人の脱獄を共に喚起し、被植民者による反乱への狼煙だ。同時にそれは、植民者の表象暴力を模倣と合意によって反復しながら、支配・被支配の二項対立構造を強化してしまう普遍的な植民の病理へと迫る警鐘となる。この言わば「キャリバン第三項」が連打する不気味な響きは、劇中で頻繁に使われる「表象暴力」としての効果音とは異なり、奴隷と奴隷主との境界を超えて、身体の深所から発せられる「現実の潜勢力」としての生身の叫びである。スレイブにしてスレイブドライバーでもある自己を観察するキャリバン──怪物にして奴隷でもあり、しかし同時に反抗者でもある彼は、その3つを横断する存在として、近代資本主義の基礎にある従順にして反抗的な労働者概念を逆照射するのである。ちなみに、シェイクスピアの原作において強調されていた“叛史の創造者”にして“最初のプロレタリア詩人”としてのキャリバン像は、この上演では重視されていない。悪夢が増長するこの島では、雑音と宝物に溢れたキャリバンの「正夢」に余地はないからだ。

劇団山の手事情社『テンペスト』 【写真】キャリバン(岩淵吉能)の背後でベッドに縛り付けられた男が呻く 撮影=平松俊之
劇団山の手事情社『テンペスト』
【写真】キャリバン(岩淵吉能)の背後でベッドに縛り付けられた男が呻く 撮影=平松俊之

 さて次にプロスペローである。プロスペローの限界や矛盾を示唆することが、20世紀後半からのポストコロニアルな『テンペスト』上演の常道だが、この上演ほど、魔術師にして植民者であるプロスペローの無能が際だつ舞台もあまり無い。そのことが最も如実に示されるのは、本来ならばミランダとファーディナンドとの婚約を祝い、プロスペローが己の魔術の力を誇示する「劇中劇(マスク)」の演出である。この場面も、普通の上演ではとても退屈になりがちな場面だ。プロスペローがエアリエル(浦弘毅)に命じて、「虚栄心」から上演するこの劇中劇は、原作では神話の女神やら農民やらが登場する。この劇中劇が重要なのは、プロスペローに代表される植民地主義の病理がここで表出されるとともに、自壊していく様子が描かれているからである。演出の見識が光るのは、これをプロスペローの反復する悪夢として描いたことにある。マスクは本来であれば魔法の粋を集めた劇中劇なのだが、ここでは美麗な照明が次第に混濁し、華やかな音楽が引き裂かれていくと同時に、一気に植民者の恐怖と強迫を暴き出す悪夢へと転落し、その悪夢の中でプロスペローはエアリエルによって殺害され、棺桶の中へと落としこまれる。その只中で語られるハムレットの台詞──「死ぬ、眠る、永の眠りにつき、おそらくはまた夢を見る」。悪夢がおぞましくも美しく、そして人がけっしてそこから醒めることがないのは、悪夢が存在ではなく認識だからである。その意味で悪夢は『ハムレット』における亡霊と似ている。亡霊や悪夢は、見えるから怖いのではなく、見えると思うから怖いのだ。それはハムレットの言葉を借りれば、「見かけ”seem”」ではなく「内心の何か”that within”」なのだから。この『テンペスト』におけるプロスペローの悪夢も、他者支配の欲動の崩壊の症候として自らの死を表象する点において、植民地主義の病をこれ以上ないほど明確に反復する。この劇ではすべてが──モチーフも主題もイメージも行いも感情も生死さえも──反復する。外来者がそれなしでは生きてゆけず、植民地に持ちこんだ本国の習性のように。書記言語の力に憑かれた帝国主義者プロスペローは、表象暴力の当事者として疲れたことで、醒めない悪夢を見続ける。欲望と記憶と悪夢という3つの衝動は、西洋近代の根本にある他者への感傷と憧憬と恐怖の病理学的兆候に他ならない。植民地主義という認識の病理は、つねにすでに奴隷と難破という存在に支えられ、かつ脅かされている。奴隷船のなかでキャリバンが呻吟するベッドは、有能な奴隷主プロスペローが自らの無能を夢想する棺桶の陰画であり、島という植民者のユートピアは、プロスペロー自身が見る悪夢によって、実は人類すべてにとってのディストピアであることが明らかにされるのである。

 最後にバーミューダ海域に浮かぶこの島における「三角関係」に言及して、この小稿を終えよう。この上演における舞台上の人物の関係は、つねに“3”である。プロスペロー/ミランダ/キャリバン、プロスペロー/ミランダ/ファーディナンド、キャリバン/トリンキュロー(大久保美智子)/ステファノー(谷洋介)、ナポリ女王ジョヴァンナ(山口笑美)/その弟セバスティアン(佐藤拓之)/プロスペローの弟アントーニオ(斉木和洋)……。シェイクスピアの原作では、ミラノの廷臣であるゴンザーロという人物が登場するが、この演出ではゴンザーロの台詞をアントーニオに語らせることによって、人物関係における「三」を維持する工夫がなされている。「三」ということは、二項対立を超えるということだけでなく、「不特定多数」ということでもある。ここにも植民地主義を、植民者と被植民者とのマニ教的対抗関係というよりは、増幅する病理の連鎖と捉える賢察がある。一対で終わることのない表象暴力の連環を「三」で象徴し、多くの妖精たちによって拡張させること。書記言語の呪縛は、文字を支配していると信じる者が見る悪夢の連鎖によって、植民者自身を捕らえて離さないのである。

 しかし、このトライアングルの支配域に囚われない人物が一人だけ居る──もちろんエアリエルである。この島とそれを囲む海域の中で、エアリエルだけが「個」としての自由を保っているように見える。彼こそは、変幻自在に形を変える妖精の能力と、舞台の外部(観客席)から拡声器を通して(プロスペローの声音を真似するという)腹話術によって、バーミューダ海域という難破の名所にして海賊の住処、古来から多くの植民者を消滅させてきた闘争と逃走の磁場における、唯一無二の主人なのだ。エアリエルはけっして夢を見ることがない。彼だけは、過去の幻影にも現在の苦痛とも無縁で、それゆえあらゆるイデオロギーや信仰とは関わりなく、純粋に暴力を行使することができる。それは、エアリエルが表象権力の持ち主ではなく、表象そのものだからではないのか。だからこそ彼は、この舞台上の様々な美しい形態──シャボン玉、水の噴霧、光の渦、民謡の響き、海中での人の吐息──とも、醜い現象──嘔吐、酔い、ベッドの残骸、ペンキの染み──とも、自然に融和して間然するところがない。植民地主義を行使することもそれに抗うことも、書記言語に囚われることもそれを領有することも必要とはしないエアリエル──その存在こそは、他者支配という認識の病を克服して、永遠に来ないかもしれない平等で公正な未来を待ち続ける希望のしるしなのかもしれない。

 かくして、植民地主義と奴隷貿易と難破船を三点とするバーミューダ・トライアングルにおいて、エアリエルが監督する植民者失踪のドキュメンタリーが、未完のままに私たちの手元に残される。山の手事情社の『テンペスト』、それは植民者プロスペローの過去の悪夢であり、奴隷キャリバンの現在の現実であるとともに、ポストコロニアルなアンチ労働者エアリエルの永遠に繰り延べされる未来でもある。トライアングルの呪縛は、エアリエルの飛翔とプロスペローの旅立ちによって解けたのか? 認識の病は、存在の重みによって癒されるのか? その答えは、『テンペスト』のなかを旅することで、海中での漂流へと永遠に誘われた、観客の滞留のなかにこそある。