忠三郎狂言会 写真提供=前島吉裕
忠三郎狂言会 写真提供=前島吉裕

 現在の狂言界は、野村萬(84歳)、野村万作(83歳)、山本東次郎(77歳)の3人の人間国宝が現役で活躍する一方、テレビCMでもおなじみの野村萬斎(48歳)をはじめとしたベテラン・中堅の活動も活発である。そんな中、若手狂言師の頑張りも目立っている。ともに50歳になる和泉流の野村万蔵と大藏流の茂山千三郎が世話役となり、30代前後の若手狂言師を流儀や家を超えて招集した合計8組による競演「立会狂言会」が東京と京都で催されるなど、注目される動きも始まっている。ここで取り上げるのは、「立合狂言会」にも参加している茂山良暢(しげやまよしのぶ)32歳。故四世茂山忠三郎の長男だが、父と50歳以上の年齢差があるため、30を待たずに父と死別し、苦労を重ねている若手狂言師である。

 四世茂山忠三郎は、自らの発表の場として福岡、大阪、東京、京都を巡って4回上演する「忠三郎狂言会」を開催してきた。良暢も父の跡を継いで「忠三郎狂言会」を主催、毎年10月から11月にかけて4都市で公演を行っている。自身がシテ(主役)となる狂言2番にゲストの狂言を挟んだ狂言3番立ての構成で、同じ大蔵流の茂山千五郎家、大藏宗家、善竹家など都市ごとに相手役を変えている。同じ作品を短期間に4回上演すること、しかも相手役が変わるため、その都度工夫が求められることから、作品に対する解釈の深化と成長が認められる公演である。平成25年には芸術祭新人賞を受賞した。

 平成26年の「忠三郎狂言会」では、良暢は「末広かり(すえひろがり)」と「木六駄(きろくだ)」のシテを演じた。例年どおり4都市での上演だが、筆者は11月14日夜、平安神宮にほど近い京都観世会館での上演を観た。この日の相手役は茂山千五郎家の面々。

 「末広かり」は、果報者(資産家の主人)が進物用の末広がり(先の広がった扇)を買ってこいと太郎冠者(使用人)に命じる。ただし好みがあって、地紙がよく、骨が磨かれ、要がしっかりして、戯れ絵の描かれたものがいいと注文をつける。太郎冠者は都に着いたのはいいが、実は末広がりが何なのか、どこに売っているのか知らない。都のすっぱ(詐欺師)に騙されて、傘を売りつけられる。地紙、骨、要と部分的には条件に合っている。戯れ絵は絵ではなく傘の柄で戯れるのだと言いくるめられて傘を高額で購入。土産に主人の機嫌を直す囃子物も教わる。帰宅して主人に得意げに話す太郎冠者に呆れた主人は、怒って太郎冠者を追い出すが、すっぱに教わった囃子物の面白さに最後は許すという目出度い結末。良暢はシテの果報者。しっかりとした位取り(存在感)は、若手の役者には難しい。楽しいだけの狂言なら、はじけて騒げばそれなりに見えるが、こうした役はセリフまわしも含めて、もっと芸をみがかなければ、と思わせる。太郎冠者は茂山茂(39歳)、すっぱは茂山千三郎(50歳)。年齢や経験から来る芸の深みや味わいが各々の魅力になっている。後半、騙された太郎冠者の説明に呆れ、怒る果報者は台詞の調子がいい。条件の一つ一つを扇で説明するところでの噛んで含めるような言い回しや、追い出すところでの癇の強さを包み込む柔らかさなど、端々に先代忠三郎の芸が垣間見える。囃子物になってからは、果報者の稚気が覗き、楽しい舞台となる(写真)。ただし、リアルな表現になりすぎて、狂言らしい様式美と果報者としての存在感を崩さぬように注意することが今後の課題か。

 「木六駄」は、主人に命じられて伯父のもとへ薪と炭をそれぞれ六駄(牛一頭の荷物を一駄という)合計十二頭の牛を追って、太郎冠者が雪の峠を越える。吹雪に凍えながら峠の茶屋で一休みするが、茶屋はあてにしていた酒を切らしている。寒さに震える太郎冠者に、茶屋は太郎冠者が持っている酒を飲めと勧める。主人から伯父への御遣い物に手を付けるのを躊躇う太郎冠者を茶屋は説得し、二人は酒盛りを始め、上機嫌で舞を舞う。酔った太郎冠者は茶屋に薪六駄をやり、炭六駄だけを伯父に届けるのだが……という話。はじめの見せ場は、太郎冠者が一人で雪の峠を十二頭の牛を追って行く場面。能舞台の左に長く伸びた橋掛リと舞台の空間をフルに使って、長い牛の行列をイメージさせるもの。書き割りもセットも持たない能舞台ゆえの、一人芝居による一種の幻惑である。谷に落ちそうになった牛を引き戻す場面など、個々の表現力は光るものがあるが、舞台全体に吹雪の峠の光景を描くのはもう一つ精進が必要。茶屋は茂山七五三(しめ)67歳。舞台に出て峠の茶屋の店を開け、「真っ黒になって降る」の一言で激しく降る雪の光景を無装置の舞台に出現させ、二つ目の見せ場である酒宴に良暢を導く。躊躇う太郎冠者を説得して酒樽に手をつけさせるところは納得の芸。酒宴で太郎冠者が舞う鶉舞(うずらまい)は写実味もあり、良暢は50分に及ぶ大曲を演じきった。

 2番の狂言を通じて感じた良暢の芸への印象は、達者さと若さであろう。稽古段階での父との年齢差は、若者の芸というよりも円熟した芸の習得に繋がったのではないかと思わせる。そのためか良暢の舞台は時として上手さを越えた達者さを見せるが、一方で若さゆえの存在感の不十分さとの間にずれを感じさせてしまう。未熟なところも多いが、まだ若い。自己研鑚はもちろんだが、相手役から盗み取る能力もあるので、力のある共演者を得て一層の進化を期待したい。