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▼「剥製」とは何か

 前節で引用した「身体の発掘」について述べた安田の文章は、次のように続く。

身体への感動は実在感の基礎であり、尊厳もそこから生まれる。その感動を忘却することは、自己の喪失感、ひいては他者への思いやりや周囲への無配慮につながる。高度で複雑な作業をこなすように、私たちは無意識化を、それこそ無意識に進めているが、時にそれを思い出さないと、身体の捉え方が「効率最優先」の一面的なものになる。
 私には、掘り出された身体の歴史も「幽霊」の一つだと感じられる。常に気にとめておく必要はないが、折々に思い返し、自分を多面的に捉え直すのは、心の健康を保つ上でも役に立つ。(同書、110頁)

ここで注目したいのは、小稿の主たる関心である「実在」が「幽霊」として捉えられており、それが演劇という「身体の発掘」によって見出されると示唆されていることだ。なぜなら『過妄女』における最も如実なイメージも「幽霊」のそれであるからである。そのことを劇の進行に従って、順次考えていこう。

山の手事情社『過妄女』 アルカージナ=倉品淳子 撮影=平松俊之

 幕が上がると、壁に古びた風景写真が貼られた、まるですでに使われなくなった博物館の一室のような密閉空間に、役者たちが紙の覆いを被せられて展示されており、そのなかでアルカージナ(倉品淳子)が覆いを取って、次のように語る。

私はかもめの剥製。
私たちはかもめの剥製。
かつては生きているかもめのように、幸福で自由だった。
剥製はまばたきもせず、生きている人間をじっと妬んでいる。
ここは息子の劇場。
かつては生きた劇場だった。
今は劇場の剥製。
剥製たちの舞台、剥製たちの客席。
上演されるのは剥製たちのボードビル。
(『過妄女』第二稿、2019年6月26日。以下、台本からの引用は同稿より。)

アルカージナの「剥製」は、まるでコーラス役か語り手でもあるかのように、場面の転換ごとに登場人物の紹介をしたり、「剥製」や「退屈」について独白するのだが、それらの台詞は安田による原作への付加である。彼女の冒頭の台詞が明らかにするのは、演劇が「幸福で自由な」「生きている人間」の営みであるのに反して、「剥製」はそれを「妬んでいる」モノたち、ということだ。かくして私たちは、安田と山の手事情社が、なぜ今回の「創立35周年記念公演」において、『methods』と『過妄女』という対照的なプログラムを並立させたかの意図を推測することができる――つまり、一方に「自由」をモチーフとする生きた演劇があり、他方に「剥製」をモチーフとする「かつては生き」ていた「ボードビル」がある、ということなのではないか。
 安田は「剥製」というモチーフについて、プログラム・ノートで、こう書いている。

・・・実はこの作品には、「剥製」と「生きた人間」との見えざる対立が埋もれているのではないかという思いが頭をよぎった。「退屈」を住処にする「剥製」と、大げさに言えば「自分は世界を変えることができる」と夢想する「生きた人間」との対峙である。(安田雅弘「剥製たちのボードビル」『過妄女』プログラム・ノート、劇団山の手事情社、2019年)

安田によれば、この作品の冒頭で「生きた人間」に該当するのは、アルカ―ジナの息子のトレープレフ(谷洋介)と、その恋の相手であるニーナ(中川佐織)、そしてソーリン家の支配人の娘マーシャ(大久保美智子)だけだ。そして劇が進むにつれて、彼らも「夢」を失って「剥製」になっていく。このように『過妄女』には、舞台全体に「退屈」な時間を生きる/死んでいる剥製たちが存在している。もちろんこのモチーフは、チェーホフの原作でトレープレフに撃たれて殺された「かもめ」が剥製とされるという言及から来ているのだが、さらにここではトレープレフが書いた戯曲が「剥製」と世界の終末をモチーフとしているという点が重要だ。

山の手事情社『過妄女』 ニーナ=中川佐織、トレープレフ=谷 洋介 撮影=平松俊之

 安田の台本は、一貫して「生きた人間」と「剥製」との対立を浮きだたせる。たとえば、ニーナがトレープレフの芝居を評する台詞は、次のように続けられる。

ニーナ あなたの戯曲、なんだか演りにくいわ。生きた人間がいないんだもの。
トレープレフ 生きた人間か!
アルカージナの剥製 生きた人間に、生きた人間を描くことはできない。
  生きた人間には、生きた人間が見えない。

チェーホフの『かもめ』の主調低音が、自らの限界を知って人生に厭きてしまった中年女や中年男たちと、その息子や娘の世代の夢が破れていくことにあるとすれば、原作のそのような厭世観を『過妄女』の舞台は、「剥製」という「生きた人間」を妬み憎んでいる存在を前景化することで、極限にまで推し進める。しかもこの引用に示唆されているように、演劇も、安田自身が著書で言っていたように、「生きた人間」を描くものではなく、「身体の歴史」という「幽霊」を召喚するものなのかもしれない。トレープレフが書いた芝居の台詞はニーナによって、次のように語られる。

人の剥製も、ライオンの剥製も、鷲や、雷鳥や、角を生やした鹿や、鵞鳥の剥製も、蜘蛛や、水に棲む無言の魚や、海に棲むヒトデや、人の眼に見えなかった微生物の剥製も、――つまりは一切の生き物、生きとし生けるものは、悲しい循環[めぐり]をおえて、消え失せた。……もう、何千世紀というもの、地球 は一つとして生き物を乗せず、あの哀れな月だけが、むなしく灯火をともしている。寒い、寒い、寒い。うつろだ、うつろだ、うつろだ。不気味だ、不気味だ、不気味だ。

これを聞いた「剥製」である観客たちは、おのれの実態を暴かれたように激しく動揺するが、まるでその動揺を押し隠すように、息子の芝居を揶揄するアルカージナに同調して哄笑する。こうしてチェーホフの原作にあった芸術をめぐる世代間闘争は、剥製と生きた人間との対立と共存として新たな光を当てられる。トレープレフが書いたこの戯曲は、まるで昨今の流行語ともなった「人新世」、すなわち人間による環境破壊によって地球上の全生物の生存が脅かされる時代の到来をも告げているようであり、その意味で後でも触れるが、最近の哲学的潮流である「思弁的実在論」にも繋がる思想を含んでいる。このようなメッセージに動揺する剥製たちを主人公とする『過妄女』は、19世紀末ロシアの田舎に隠棲する知識人たちの退廃を、地球環境の末期的破壊に怯える私たち自身の退屈へと、解釈しなおすのである。
 アルカージナの剥製は繰り返し、そのことを私たちに教えようとするかのごとく、「退屈」の価値について次のように独白する。

わかるはずがない。生きているあなたに、
「退屈」の喜びが、「退屈」の贅沢が、
「退屈」の輝きが、「退屈」の潤いが、
生きているあなたにわかるはずがない。

こうしてアルカージナの剥製の目を通して、トレープレフの戯曲が予言していた世界の終末が実際にここに迫っていることが示されることで、世界のチェーホフ戯曲上演の常道である個性的描写やステレオタイプの誇張がこの舞台では捨象され、「過剰な妄想に憑かれた女」であるアルカージナによる、あらゆる人間が剥製となり、生きている人間が一人もいない世界という妄念が表象されるのである。このようにアルカージナという舞台だけを人生として生きてきた「女優」の剥製を、安田の創作したチェーホフの分身であると考えれば、チェーホフという作家の恐るべき予言がしだいに形を取ってこないだろうか。
 この発想を、現代哲学で大きな影響力を持っている「思弁的実在論」によって補強してみよう。この哲学の潮流はとくに初期において、「相関主義」、すなわち私たち人間は思考と存在の関係しか考えることはできず、そのどちらか一方、すなわち思考か存在かだけに近づくことはできないという立場を拒否して、実在そのものを捉えようとする。私たちは感覚を通して時空間を認識し、悟性によって概念を構築するので、物自体に帰せられている性質も結局は人の認識能力に由来しているとするのが、相関主義の基本的主張だが、思弁的実在論はそれに反して、物がそれ自体で存在していることを肯定できるような哲学を打ち立てることを目標としているのである。おそらくこうした哲学は、人間が存在しない世界を想像する、というか人間など存在しなくても世界は存在し続けるという確信へと繋がるだろう。
 さらにこのようなモノ自体を重視する発想は、山の手事情社が長年にわたって試行してきた演劇実践を支える思考と、案外近いところにあるのではないだろうか? つまり、思弁的実在論が対象とするような「実在」への接近は、科学的な認識によるのではなく、むしろ演劇のような身体を過剰に意識しながら、言語の意味に頼るのではなく、言語の発生現場に立ち戻って、それを駆動する身体の記憶を掘り起こそうとする営為が観客に生み出す美的な体験に支えられていると考えることができるからだ。『過妄女』の舞台が「剥製」という卓抜な意匠によって、私たちに体験させるのもこうした美学であり、「永遠の生という死」を生き続ける、「不在」を前提とした「実在」のありさまなのである。