音は見えたか ── 藤田貴大演出『小指の思い出』── 森井マスミ
夢の遊眠社が1983年に上演した『小指の思い出』を、マームとジプシーの藤田貴大が演出した。初演当時、作・演出・主演の野田秀樹は28歳。藤田は現在29歳である。初演では、野田が一人二役で当り屋の女・粕羽聖子とその子・粕羽八月を演じたが、今回は青柳いづみが二役を演じ、さらに青柳と飴屋法水が二人で粕羽聖子を演じ分ける演出となった。言葉の意味よりも「音楽としても成立している」ことへとシフトした今回の演出は、〈現代〉を映すと同時に時代の変化を改めて感じさせるものとなった。
白い布で覆われた舞台。布がめくられると数台のミニバンがあらわれる。後方にはローリングタワー。正面には映像が投影され、音楽が生演奏される。ゆっくりと押されて移動する車。そこに自転車があらわれ、轢かれる寸前のところで転倒する(飴屋法水)。羊を数える男の声(赤木圭一郎:勝地涼)車の天井に登ってハンマーを振り降ろす人物(飴屋)。助手席には人影(青柳いづみ)がある。「私、子供おりません」という声と天井を打つガシャンという音が交互に響き、「アーーカ、アーーオ」「音が聞こえる」「音が見える」「色が聞こえる」(飴屋)と、台詞が呪文のようにくり返される。また別の自転車(青柳)があらわれて舞台をぐるぐる回り続ける。冒頭、藤田は作品の内容を自由に並べ替えながら、いくつかの台詞をピックアップして、それらのイメージをオリジナルにない形で見せた。詩と呪術が交錯するその空間は寺山修司的であり、また無機質な金属音とオブジェ化した空間は80年代の飴屋法水的でもある。野田の作品の中でばらばらにあった台詞が、重層的に響き合う空間は魅力的であり、新たな物語のはじまりを予感させた。舞台下手には枡席のような一角があり、役者達はそこから舞台へ上がる。客席から舞台へ。観る側から演出する側へ。それは中学校3年生のころ『小指の思い出』をビデオで観たという、藤田の「決意」のようにも見える。「決意」とは作品のキーワードである。主人公の赤木圭一郎はいう。「当り屋とは決意を当てることを業(なりわい)とするものだと思います」その圭一郎の目の前に、ある日突然あらわれたのが「幻の少年当り屋」カスパー・ハウザーだった。彼は「地獄の馬車」に飛び込んで、「決意の宝石」を撒き散らす。
カスパー・ハウザーとは実在の人物であり、彼は十数年間地下牢の闇の中で育てられ遺棄された。特殊な能力をもつ野生児として世間の注目を集めながら、何者かに暗殺され短い生涯を閉じた謎の少年、それがカスパー・ハウザーである。彼はいう。「あそこ(地下牢)にいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、経験しないですんだろうに……」こうした少年・カスパーの心の痛みと、その死を悼む思いが作品の根底には流れている。「このシンキロウのような少年の身投げは、なにかの事件への祈りだと思います」「幻の少年達は、身投げする姿に化けて、祈りを先に送り届けた果てに、ノロノロと現実をノロウ気ではありませんか」この作品において「当り屋」の少年達が身を投げるのは、もちろんお金のためではない。それは二重の意味で少年時代を踏みにじられたひとりの少年への「祈り」であり、現実を呪って彼らが投げる「白い実」は、「現実」にたたかいを挑む少年達の「決意」であり「宣戦布告」である。過ぎ去った少年時代を取り戻そうとすることは「妄想」に過ぎないが、カスパー少年にあって「現実」は、そもそも奪われている。そしてさらに幸福な少年時代を奪ったものこそが、「現実」であるという逆説がある。そのため彼において「妄想」とは、「現実」に対する正当な異議申し立てであり、それはたたかいとならざるをえない。こうして失われた少年時代を思う「祈り」と、「現実」への呪いは重なり合うのであり、野田が『小指の思い出』で描いたものは、この「現実」と「妄想」をめぐる〈逆説〉に他ならない。そしてこの逆説を補助線とすれば、「まだアタリヤの国があった頃」「現実と妄想は瓜ふたつ、仲むつまじくむかいあっていた」という台詞も、葛藤のない幸福な子供時代への単なるノスタルジーではないことがわかる。そしてまた「妄想」をもって「現実」に挑もうとするこうした思いとは、劇中の登場人物のみならず、『小指の思い出』の観客や同時代の若者にも共有されていたはずだ。さらにいえば「現実」を捨てて「妄想」を生きようとすることは、かつては「現実」の痛みを伴うものであった。だからこそ作品には、主人公の圭一郎が粕羽三月として、「妄想」の世界に生まれ変わる宣言をするまでの、「優柔不断」と呼ばれる葛藤が描かれている。だが「現実」そのものがどんどん「妄想」化していく現代にあって、そうした痛みや逆説は成立しない。その点で野田の『小指の思い出』を新しく演出する意味があるとすれば、それはそうした〈痛み〉と〈逆説〉を新たな方法で作品に甦生させることであろう。だがそれはおそろしく困難な課題である。
話は魔女狩りが行われた中世のニュールンベルグと、昭和の日本を往還しながら進む。そこで「ヨーロッパを震撼せしめ」る「連続少年身投げ事件」の鍵を握るのが、粕羽(かすば)聖子である。彼女は実子・粕羽法蔵殺しの容疑者にして中世の魔女であり、「頬ばるだけで、口いっぱいに子供の時間が広がる」「白い実」の売人でもある。圭一郎は聖子から「白い実」を買うために、「アジアのしみついた四つ辻」で待ち合わせをする。「アジア」と「日本」。作品にくり返し出てくるこの言葉は、かつての日本人が抱いていた欧米への劣等感を色濃くにじませている。たとえば聖子は子供達に世界地図を広げさせ、「アジアの沁みこんだページ」の中にある「赤く塗りこめられた日本という国を見つけて?」というのだが、バブル景気の手前にあってなお、戦中・戦前と地続きの日本が野田の戯曲と上演にはあった。一方藤田はこの場面を、彼独特のリフレインによっていくつかの場面に挿入したが、それは間奏曲のように演じられ、そこでは親子の語らいのほのぼのとした雰囲気や子供達の無邪気さが印象づけられた。つまり藤田の演出では、「アジア」や「日本」がもつ負のイメージは消されていて、その結果作品は現実の歴史とのつながりを欠いた子供の国のおとぎ話になったといえる。だがまさに現代の日本が「子供の国」化していることを考えれば、歴史を括弧にいれた藤田の演出は、リアリティをもっているといえるのであり、そこに野田とは異なる現代の〈逆説〉を指摘することもできよう。しかしマームとジプシーの舞台では見慣れた、子供達が無邪気にじゃれ合い張り上げる声(川崎ゆり子・伊東茄那)が、どうしても耳障りに聞こえたのは、野田の台詞の意味を消すようにして響くその声が、出口のない現実の中で言葉を失ってわめき合うしかない現代人の無惨さを思わせたからであろうか。
今回リフレインという点からすると、藤田は野田と対照的であったといえる。野田のそれが意味を重層化し物語へと向かうのに対し、藤田のそれは意味を軽くし音楽へと向かう。そもそも藤田のリフレインは、直線的な物語を解体しそれによって生じる差異が、断片の集積として物語を浮上させるものである。だが野田の戯曲そのものが直線的な物語をはぐらかし、錯綜する時空間と飛躍の連続で物語を編み上げていくものであるために、藤田的なリフレインにはなじまない。もちろん藤田自身がそれには自覚的であり、「探したが当てはまらないので(リフレインは)少なくなった」と語っている。そして大きく改変された冒頭部分以外のところで加えられたいくつかのリフレインは、説明のための並べ替えや単なるイメージの増幅にとどまり、本来の魅力が発揮されなかった印象が強い。
だがこのことは「子殺し」という、今回のテーマとあわせてみたときに重要になってくる。藤田のリフレインは、物語なき現代において物語を生み出すための方法であり、失われた物語を補完するための方法だといえる。その意味で藤田の演出が示した「子殺し」に対する解釈は、現代という時代を正確に映し出している。藤田はインタビューで、「母親の“母性のねじれ”というテーマは今の日本にも通じる。子供を虐待する母親は子供を愛していないのか。そうした母性に焦点を当てたい」と語っており、最後に聖子が懺悔する場面からは〈子供を虐待していても、母親は子供を愛している〉というメッセージが見える。つまり「子殺し」がありふれたものとなった時代において補完されたのは、母性という「普遍」的にして「陳腐」なものだったのである。
今回の演出では聖子の母性的な部分と、子供を殺して自らの妄想を生きようとする魔女的な部分が、それぞれ飴屋と青柳に振り分けられた。戯曲では先の世界地図の場面は、聖子が圭一郎に白い実を売る場面と切れ目なく続いており、野田が演じた一人二役では、聖子の妖艶さが子供達と地図を広げる母親の姿になじまず少々違和感があった。しかし今回二人一役にしたことで、母親から魔女への聖子の変化が見えやすくなったといえる。この場面での昭和的な雰囲気を醸す飴屋の母親と、悪意とひやかしを漂わせた青柳の魔女のコントラストは大変印象的であった。逆にその点で大詰の「私は中世の魔女として焼かれていこうと思います。お前達が一生懸命運んでくれた焚木のうえで焼かれていきます」という聖子の台詞を、青柳が涙声で情感たっぷりに演じた(あるいは演じさせた)ことは、聖子の二面性を母性に回収し、わが子を殺した母の懺悔の物語として、戯曲を単純化した点で残念だったといわざるをえない。
ところで聖子には四人の「妄想の子供達」がいる。それはある日突然自分の体に生みつけられた聖(セイクリッド)・カスパーの少年時代であり、名前は現実の子供・法蔵を使った当り屋事件が起こった月と一致している。聖子は「妄想の子供達」に、自分の留守中は「ストーブを母さんだと思え」といっているが、子供達が一生懸命に焚木を運ぶ「妄想のストーブ」の火が、魔女裁判で聖子を焼く火となる場面はまさに残酷である。そしてここで無邪気さは残酷さを孕んでおり、野田が描く母子の愛は、徹底した〈逆説〉の中にあるからこそ、そこに「祈り」が生まれるのである。すなわちそれは「現実」という選択肢の一方を奪われながら、それでも二者択一を迫られ続ける「現実」という世界に放り出された少年・カスパーの痛みが、それを分かちあおうとする者にも〈逆説〉を強いるのであり、先の聖子の大詰の台詞を、実子殺しの罪を認めた母の懺悔のことばとして単純に理解するならば、その〈逆説〉は消されてしまうことになる。そしてその先にある「私の息子達は元気にしておりますか」という台詞の「息子達」の語に注目するならば、聖子の意識があくまでも「妄想の子供達」に向けられていることは明らかであり、また「魔女はね、すべての子供を愛するっていうわけには参りません」と聖子自身が明言している。つまりここにあるのは、殺してしまった「現実」の子供を思いやる母親らしさではなく、肉体を焼かれてもその思いを「妄想の子供達」に托すことで、「幻」の少年を生き延びさせようとする強い意志でしかない。そしてその意志を最後に引き受けるのが圭一郎つまり粕羽三月である。こうして聖子の内にとどまっていた妄想は、現実の他人の中でさらに生き続けることになる。このように藤田版では、最後に魔女として演じられるべき聖子が、母親として演じられてしまったわけだが、逆に冒頭のオリジナルの部分で、青柳が最後に語る長台詞にある「八月それがお前の生まれた月だよ」という台詞を語った飴屋の声は、母親でもない魔女でもない、地の底から響く名づけえぬもののしずかな叫び声のようで、作品に通底する少年カスパーの魂の叫びを体現して魅力的であった。
最後に、当り屋専門学院の理事長・文左衛門と妄想の一族をねらう暗殺者を演じた松重豊は、野田の戯曲がもつオリジナルのテンポを見事に演じ舞台を支えた。
他人から指紋を奪って凧糸にして凧をあげるエピソードは、聖子と圭一郎、聖子と文左衛門の間で相手を変えてくり返され、後の部分では聖子を粕羽八月、文左衛門を聖子が再現するかたちになっている。現実と妄想の境界を行き交いながら、ゆらぐ「私」を凧に托したエピソードは、作品を貫く中心線であったが、今回の演出ではそうした「私」のテーマは影をひそめた。だがこれも他ならぬ〈現代〉の反映であろう。野田版、藤田版二つの『小指の思い出』は、方法と時代の違いを超えてそれぞれの「現実」を残酷にも映し出している。
(2014年09月29日〜10月13日東京芸術劇場プレイハウス)