contact Gonzo『xapaxnannan(ザパックス・ナンナン):私たちの未来のスポーツ』 2014年10月15日、西京極スタジアム 撮影=井上嘉和
contact Gonzo『xapaxnannan(ザパックス・ナンナン):私たちの未来のスポーツ』
2014年10月15日、西京極スタジアム 撮影=井上嘉和

 contact Gonzoの新作『xapaxnannan(ザパックス・ナンナン):私たちの未来のスポーツ』(以下『xapaxnannan』と省略)は、野外競技場を舞台に「架空のスポーツ」に興じてみせる行為の中に、音響的な仕掛けとフィクショナルな言語的操作を持ち込むことで、スポーツ/舞台芸術の同質性と差異を浮かび上がらせ、プレーヤーの身体の振る舞いを規定するゲームのルール=振付と読み替えることを促す、野心的な試みだった。

 『xapaxnannan』は、第5回目を迎える「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2014」の公式プログラムとして、収容規模2万人を超える巨大スタジアムで上演された。会場に入ると、広大なグラウンド上には、ストレッチやウォーミングアップを行う11人の男女が散らばっている。試合開始の合図もルールの説明もないまま、彼らは鬼ごっことラグビーを足して割ったような不思議なプレイに興じ始めた。鮮やかなピンク色の帽子のようなものを持ったプレーヤーを、他の10人が追いかける。タックルのように体をぶつけて倒され、帽子を奪われたプレーヤーは地面に仰向けに横たわる。奪った者は倒された者の腹部の上に立ち、残りのプレーヤーは回りを環状に取り囲む。静止と静寂。奪った者が合図すると、皆は軽くジャンプして駆け出し、再び追いかけっこが始まる。目印の帽子は次々とプレーヤーの手を渡っていき、儀式めいた一連の行為が繰り返されていく。途中、全員が仰向けに寝転がるシーンがあったり、カメラのフラッシュを焚いて撮影するプレーヤーが混ざったりするが、全体の構成としては単調だ。不可解なルールを解読しようと興味は惹きつけられるが、プレイは特に最高潮に盛り上がることもないまま、何となくダラダラと続けられていく。

 これはスポーツなのか、舞台芸術作品の上演なのか?ピッチ上の進行を見守るうちに、両者の間で宙吊りになった感触に包まれる。競技場という空間、ルールの設定という点では「スポーツ」的側面を持っているが、観客はプレーヤーとルールを共有することができず、プレーヤーは敵/味方の固定した陣営を形成することなく、匿名的な存在のまま集中と分散を繰り返す。つまりここでは、敵/味方の陣営に分かれて熱い応援を送る観客の共同体は形成されず、スペクタクルとしての熱狂と高揚感を圧倒的に欠いている。運動の中心点が絶えず入れ替わる面白さはあっても、「スポーツ」として見る視点を成立させる焦点がない。

 通常のスポーツ観戦であれば、経験に何が附随するだろうか?応援歌や歓声によって観客同士の一体感が醸成されるはずだ。しかし『xapaxnannan』では、応援歌や歓声といった場内の盛り上がりを形作る音響が、隣接した野球場から聞こえてくることで、むしろ通常の「スポーツ観戦」の経験との質的な差を感じさせた。それは逆説的に、スポーツ観戦においては観客もフィジカルに振る舞う存在であることを浮かび上がらせる。

 では、本作を「パフォーマンス作品の上演」として見ることは可能だろうか?contact Gonzoの魅力は、集団名かつ彼らの方法論でもあるコンタクト=接触ないしはその激化としての肉体同士の衝突であり、その熱気とスピード感と予測不可能な動きと暴力性の兆しを間近で―時に観客としての安全な距離を侵犯されるほどの近さで―体感することにある。だが、本作にそれらを期待すると肩すかしをくらうだろう。プレーヤーたちの肉体は遠く隔てられ、体感として熱量や激しさや肉体の重みを感じられないからだ。

 そこで、この観客との空間的な距離を埋めるために、二つの音響的な仕掛けが導入された(なお、「音」への関心を前景化させた試みとしては、ぶつかり合う「肉体」を見せず、スピーカーから流れる音声だけで、衝突の激しさやスピード感を感知させる作品がある)。一つ目の仕掛けは、女性三人組のインストゥルメンタル・バンド、にせんねんもんだいによるライブである。ただし彼女たちは観客席に背を向けて演奏しており、観客も眼前で繰り広げられるプレイのルールを解読しようと注意を向けるため、視線はピッチと生演奏のステージの間で行き来し、音楽に「ノる」ことは安易に叶わない。

 観客との距離の縮減という点でより重要なのは、二つ目の音響的な仕掛けである。ピンマイクを身に付けた一人の女性プレーヤーが声を発することで、増幅された荒い息遣いが運動量を伝え、体感的な「距離」が埋められるのだ。プレーヤーの集団と観客とを架橋する彼女は中心性を担う存在と言えるが、ルールの解説や現在進行形の「実況」を行う訳ではなく、「過去形」でナレーションを行う。前半では、各メンバーの「紹介」が行われるが、「○○君はたこ焼きが好きでした」「△△君は、井戸を掘る夢を見ていました」というように、彼らが従事するプレイとは無関係で断片的、時に詩的でナンセンスすら感じさせる内容であり、眼前で繰り広げられる行為との乖離が広がっていく。

 また、中盤では、語り手である彼女のガイドに引率されて、プレーヤー達がピッチ上を回って歩く「ザパックス・ナンナンツアー」のシーンも挿入された。地面に倒された身体が刻みつけた痕跡には黒い布が置かれ、誰が倒れた点なのかが一つ一つ名指され、説明される。さらにそれらの点と点は想像の中で結び付けられ、大きなタイの形、織姫と彦星の関係、家が建てられる印などとして語られる。ナレーションによって、それまで単なる「地」として意識から排除されていたグラウンドが「図」として浮上し、物語の断片が星座のように浮かび上がる。そして終盤、彼女は200年後の「未来に遡って」「ザパックス・ナンナン」の歴史を語る語り部となり、約一時間の「試合」は終了した。

contact Gonzo『xapaxnannan(ザパックス・ナンナン):私たちの未来のスポーツ』 2014年10月15日、西京極スタジアム 撮影=井上嘉和
contact Gonzo『xapaxnannan(ザパックス・ナンナン):私たちの未来のスポーツ』
2014年10月15日、西京極スタジアム 撮影=井上嘉和

 本作『xapaxnannan』を考えるポイントとして、以下の三点が挙げられるだろう。(1)ルールの恣意性とルール=振付への読み替え、(2)語りと時制、(3)マークされた場所。

 まず(1)については、ルールをあえて不透明にすることで、つまり「スポーツ」から「ルールの共有・明文化」「遵守/違反」「レフェリー」「得点」「勝敗」「敵/味方の共同体の形成」などの要素を削ぎ落とした結果、「あるルールの設定(内在的要因)や他プレーヤーの身体との接触/その回避(外的・物理的要因)によって、身体がどのように動く/動かされるか」に注意を向けさせる。ルールが完全には共有不可能であり、その恣意性を強調することで、ルールの「解読」が一義的な目的なのではなく、「そこで行われている行為」と身体の振る舞い方を注視するように促すのである。このように、ある一定の身体動作を方向づけるルールを設定した上で即興的に振る舞い、部分的に感知可能なルールとそこからの逸脱が魅力的でスリリングな運動の瞬間を生み出すという点では、通常のcontact Gonzoの殴り合いのようなパフォーマンスと同じである(シンプルな肉体同士の接触にバリエーションを加え、予測不可能な動きを誘発するために、二人での組み合いへの乱入、集団性、突然投げ込まれるペットボトルや投石器といった小道具、地面の凹凸や傾斜といった様々な作用が投入され、動きに複雑さが加えられる)。ただし本作では、動きの抽出の純化/即興的な逸脱をより推し進めるという方向ではなく、現実のスタジアム空間に持ち込んでスポーツとの相対化を図ることで、ルール=振付と読み替える視座を開いている。

 そこに、(2)現在進行形のプレイが「過去形」のナレーションで記述されるという言語的な操作を加えることで、「未来の」来るべきスポーツは「既に起こったこと」としてカッコに入れられ、あたかも古代の未知の儀式の「発見」に立ち会っているかのように錯覚させる。さらに、このナラティブの導入が(3)場所の痕跡や記憶と結びつくことで、目印を身に付けた者が倒される→奪還した者が今度は追われる対象となる、という連続性は、「金枝」伝説における森の王の交替劇を想起させ、マークされた場所は神聖な刻印を押され、意味づけられていく。

 このように『xapaxnannan』は、フィクショナルな操作を介在させ、複数の時間軸の併存によって、目の前でぶつかり合う「リアルな」身体的現前と観客をその熱狂へ巻き込むことを手放す代わりに、演劇的な時間性・空間性への広がりを感じさせた作品だった。それは、スポーツ/舞台芸術のどちらにも定位できない危うさを孕んだ賭けでもあったが、ルールの共有の欠如、熱狂や高揚感の排除、共同体が形成されないこと、吸引的な意味の中心の欠落、プレーヤーの肉体と観客を隔てる距離/音響的な現前といった仕掛けを施すことによって、スペクタクル、ナショナルな共同体の形成、テクノロジーと「健康な身体」への礼賛、企業アピールの場といったスポーツの孕む政治性を脱臼させる。彼らが戯れているのは、整備されたピッチ上での無害な遊戯ではない。彼らは、スポーツ/舞台芸術の境界で戯れているのであり、身体の振る舞いとそれを規定するルールの関係性をめぐって、枠組みの組換えを迫ってくるのだ。