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2.ワークショップというフォーマット

nosmosis research 2023『みえないグラデーション Unseen Gradation』
2024年1月6日(土)、7日(日)/ゲーテ・インスティトゥート東京
撮影=今井智己(Tomoki Imai)

 観客は最初ゲーテ・インスティトゥートのホワイエに集められる。湯浅とチジャ・ソンの紹介によってワークショップにおいて普段行われているタスクがホールとホワイエで始まることが告げられる。二人一組になって、自宅など自らが居心地のよいと感じる家のような空間を単語として相手に言い渡す。言い渡された相手はそれを想像する過程で生じた身体的な反応をつかんで実際の動きに起こしていく。数組がまずは最初にホワイエで実演し、観客は少しばかりそれを眺めた後にホールへと入っていく。ホールでも数組が同じタスクを行っている。観客はホールとホワイエを行き来しながら、ワークショップの参加者を囲むようにして近づいて彼らの様子を観察する。言い渡す声はささやくようで、それに反応する振る舞いも繊細だからだ。参加者らの服装は観客たちの服装と同じく普段着のようである。観客たちが自由に行き来をして見回ることでタスクを行う人たちを取り巻く動きは流動的であり、それゆえにこの会場にいて誰が観客で誰がワークショップの参加者であるのかが見分けがつかなくなっていく。しばらくすると観客たちはホールの壁沿い四方に並べられた椅子たちへ座るように伝えられ、ワークショップの参加者たちは中央に集まってくる。

 観客たちは確かに空間に配置されたワークショップを観る人ではあるが、さらにその姿が他の観客によって見つめられることで、この会場全体を包む状況へと配置され、時にはワークショップ参加者たちと同じ立ち位置を持つものとしてすら振る舞うようになる。こうした状況において経験できるのは、まずはワークショップという形態の持つ美学的特徴である。

 作品公演のみをダンスの芸術的営みとしてみなすことに対する批判は、モダンダンス以降繰り返されてきた。最も有名な例として、アンナ・ハルプリンやジャドソン・シアターの活動を挙げられるであろう。彼らが作品批判の代替案として積極的に用いたのがワークショップである。それ以降ワークショップは、単にダンステクニックを学ぶだけの場所ではなく、ダンスを通じた新しいコミュニケーションあるいは共同体を開く場所として用いられるようになる。2010年代以降になってこの傾向は再度注目されるようになる。2000年代以降の西洋におけるコンセプチュアル・ダンスを代表する振付家でありダンサーのマルテン・シュパンベルク(Mårten Spångberg)は””Post Dance”1)Spångberg, Mårten: Post-dance. An advocacy. In: Post-dance. Danjel Andersson, Mette Edvartsen and Mårten Spångberg(eds.). Stockholm: MDT, 2017. pp. 349-393.という新たなパラダイムを提唱した。ダンスという営みがもはや振付を作り出しそれを公演するだけに限定されるのであれば、それに含まれないような活動を舞踊美学の言説の中でわきに置かず積極的に認めていき、ダンスという枠組みを越えていこうとする宣言であった。このような姿勢はコンセプチュアル・ダンスの世代が多かれ少なかれ目指してきたものであり、またそれ以前のポストモダン・ダンスの世代たちから継承されてきたものでもある。舞踊学者のシュテファン・ヘルシャー2)Hölscher, Stefan: The Dance Workshop as a Sensuous Group Technology. Or: What Can Dance Learn from Ludwig Feuerbach? In: Technologien des Performativen: Das Theater und seine Techniken. Kathrin Dreckmann, Maren Butte and Elfi Vomberg(eds.). Bielefeld: transcript Verlag, 2020. pp. 101-112.はシュパンベルクの構想を依然として現代的な課題を持つとして肯定的に評価した。というのも、新しいダンス形態を模索することは、ダンスの制作過程に内在する固定された権力関係を作り変えるからだ。現代においてもいまだに振付作品の公演が多く行われているが、その制作過程では、振付家からダンサーたちへ振付を手渡すというトップダウンの権力関係が当たり前になっている。作品を作りそれを公演するのであれば、振付家が責任を負いダンサーたちを率いていくことは理に適っているために、おそらく作品公演という形態ではこの権力関係はあまりにも自明視されてしまう。ヘルシャーはそれと異なる批判的形態としてワークショップに注目する。

 ヘルシャーが注意しているように、単純にダンステクニックの教授という目的が果たされればよいのであれば、それは講師と受講者の間の権力関係は振付家とダンサーの間のそれと大差はない。むしろ受講者が積極的なモチベーションで講師へと従うのであれば、羊飼いと羊の群れのような悪意のない従属と支配を含意する権力関係3)ミシェル・フーコー「全体的かつ個別的に–政治理性批判をめざして」田村俶訳『現代思想』15(3) 岩波書店、1987。56~77頁。に向かうだけになる。彼がワークショップというフォーマットに注目し、振付家とダンサーの間に当然のように生じてしまう権力関係を乗り越える可能性をみいだしたのは、それが講師と受講者の身体的な実践(sensous)の交流が特定の目的を持たず、実験を行うことで結果的に何かしらの知見を生み出し共有できるからである。この知見とはプロセスの中で生じたものであり講師の持つテクニックに関する知見ではない。あるテクニックを通じて予期せぬ実験的な知見を生み出そうとする限りではワークショップの参加者は平等な関係と認めることができるのだ。こうした現代的な観点において重要視されるワークショップの役割はいささかユートピア的とまでは言わないが、理論的すぎるかもしれない。というのも、そのプロセスにおいてどの程度のインストラクションが求められるのか、それによって講師と受講者の権力勾配はどのように生じるのか、それに対して両者の関係に対して批判的な態度を示して新たな状況を設定することができるのかは、その都度やはり試してみなければわからないからである。

 冒頭のワークショップ実演のシーンは極めて身体感覚によった(sensous)タスクであった。精神的な内部を身体という外部へと移し替えるからだ。Inside-Outともよべるこの操作は、ダンスにとってありふれたものかもしれない。ただこのタスクで重要なのは、精神的な内部(家の情景)はあくまで隣に立つ人の記憶であり、それが語られることによって伝えられて実際に動く人の内部へと内面化される。そうして外部から言語として与えられて内面化された内部は独自の解釈によって動きへともたらされる。想起、言語伝達、身体運動という多様な次元のメディア的操作を経て生まれた動きは、確かに踊っている人にとっては合理性があるかもしれない。しかしながら、その言葉を伝えた本人の意図しうる動きではない可能性があり、さらには観客にとってその言葉と動きの連関にどのような伝達回路があるのかは外から見る限りでは計り知れない。そのためにその言葉に対する正解となるような動きを想定するのではなく、動きと言葉を結びつけるためにどのような解釈が成り立ちうるのかを考えねばならない。

 とりわけダンス・ワークショップにおいて注意しなければいけないのは、振付家やダンサーのテクニックやメソッド、あるいはそれをまとめるコンセプトを説明するための言葉が実演されることで無反省に受け止められてしまうことである。それらの言葉はあくまで身体に対して言語という外側からの説明を加えたひとつのフィクションでしかなく、潜在的にはほかの言葉での説明も可能である。4)Cvejic, Bojana: Imagining and Feigning. In: Movement Research Performance Journal (51). 2018. pp. 36–47.重要なのはその言葉を身体に対する実感を与える唯一のものとして捉えることでもなく、あるいは単なる嘘として捉えることでもない。むしろそれをきっかけにして次にどのような動きとそれに伴う身体観を生み出せるかである。ワークショップにおける権力関係の可塑性、そして創造力とはこのような手段としての言語から始められるべきである。すなわち、より効果的なフィクションとしての言語を選び取るという余地が残されていることが求められる。冒頭のシーンで、このことに気づけるのは観客という存在がいるからではないかと思われる。というのも、観客は想起できる家の記憶を共有していなければ、それを通じて同じ動きを行っているわけでもなく、あらゆる実感からほど遠い立場にいながら傍らで身を寄せることでなんとか理解しようとするしかないからである。ヘルシャーのいうワークショップの批判的可能性が現れるのだとしたら、講師とも受講者とも異なる第三項の立場が常に意識されることではないだろうか。

 身体感覚によった(sensous)タスクはこの後何回か取り組まれる。最も興味深いのは、会場全体の空間を意識させるためにワークショップの参加者に用いた言葉は初日と二日目では違っていたことだ。この違いが参加者の選択に影響を及ぼすのか、あるいは空間の見え方を変えるのかは恐らく観客の経験次第であろう。確かなことは、言語的な指示は命令としてではなく各人がより実感を持って動くきっかけとして選択されるに過ぎないことである。

 一方でその後に、湯浅のインストラクションで普段おこなっているカウンター・テクニックを実演していくシーンがあった。ここで参加しているのはダンス経験者であり、未経験者は一旦会場の端でそれを見つめる。会場全体に参加者は広がり、湯浅へと向かい合いながら、旋回を中心としたムーブメントを繰り返していく。すでに観客席に座っている観客にとってこのシーンはワークショップの実演でありながらショーイングのようにも思われる。とりわけ卓越したダンサーである湯浅のインストラクションとそれに付き従うことのできるダンサーたちの能力によって、このシーンをワークショップの成果をダンスとして観てしまうからだ。実際にダンサーとして身体を動かし、テクニックを遂行していく様子は前述のシーンとは見え方が異なるだろう。Inside-Outな連関をダンサーの中に見出すというよりも、身体的なムーブメントができることを通じて彼らをダンサーとして認めるというOutside-Inともよべる承認の過程といえる。

撮影=今井智己(Tomoki Imai)

 このシーン自体は『みえないグラデーション』のハイライトとなるべきシーンではない。このシーンで考えるべきはまずはダンサーと観客の権力関係であるが、ここでの第三項とはダンス未経験者の存在である。ダンス上演とは、ダンスを踊れない人の登場を不可視にして当然ではある。観客はそのうえでダンスを享受し評価する。このシーンで観客はワークショップを外部から第三項から見つめる審級ではない。作品公演は観客を入れて成り立つことから、観客は椅子に座っているだけだとしても積極的な参加者である。舞台に上がれない人たちの身体的な存在を忘れることで作品公演が成り立つのである。その参加主体にあずかれない人たちが身体的にともに居合わせることを通じて、自らがいかにして作品公演を当たり前のように観劇しているのかを改めて考え直すことができるだろう。ダンスにおいてできること/できないことのより幅広いグラデーションへと批判的に開いてダンス公演を観ることも本来は可能なのである。

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1. Spångberg, Mårten: Post-dance. An advocacy. In: Post-dance. Danjel Andersson, Mette Edvartsen and Mårten Spångberg(eds.). Stockholm: MDT, 2017. pp. 349-393.
2. Hölscher, Stefan: The Dance Workshop as a Sensuous Group Technology. Or: What Can Dance Learn from Ludwig Feuerbach? In: Technologien des Performativen: Das Theater und seine Techniken. Kathrin Dreckmann, Maren Butte and Elfi Vomberg(eds.). Bielefeld: transcript Verlag, 2020. pp. 101-112.
3. ミシェル・フーコー「全体的かつ個別的に–政治理性批判をめざして」田村俶訳『現代思想』15(3) 岩波書店、1987。56~77頁。
4. Cvejic, Bojana: Imagining and Feigning. In: Movement Research Performance Journal (51). 2018. pp. 36–47.