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3.自らを語ることと経験すること

撮影=今井智己(Tomoki Imai)

 イベントの後半で、ワークショップ参加者全員が集まり自らの経験について共有するシーンが訪れる。全員が床に寝そべり語らうのであるが、普段のワークショップであれば何気ない光景かもしれないが、観客が四方を囲んで存在することで、むしろ演出されたような状況になる。そこにはプロセニアム・アーチがなかったとしても、自らをその状況に関与しないままでワークショップを覗き見る観客の立場を作り出しているといえる。ここである参加者が自らの出自ゆえにいじめに苦しんだ過去を基にした歌を歌う。『Invisible』というタイトルのつけられたこの曲は、出自ゆえのいじめによって不可視な存在として扱われてしまい、それでも自らの承認を求める歌である。このプロジェクトの趣旨である海外にルーツを持つ人の参加というテーマが直接的に現れるシーンである。この歌の切実なメッセージは当事者としてのワークショップ参加者の経験を語っており、観客にとっては聞いて受け止めなければならない。不可視にされた人としてしまう人々の間にあって、社会の中では等閑視されがちな線引きがワークショップ参加者と観客の間で引かれることになる。

 この曲は、ワークショップを演出されたシーンとして観客が観るという状況で歌われる。演出されているという印象によってフィクショナルな状況にいることが意識される。このような切実なメッセージを受け止めるのであれば、嘘や物語的なものとして演出されたフィクショナルな状況ではなく、むしろ現実として受け止めたくなるだろう。したがってこのフォーマットにはこの歌を受け止めるには不十分であるかもしれないという疑いや戸惑いが生じる。しかしながら私たちは劇場や芸術的な場所を離れたいわゆる「現実」的な状況においてこのような線引きを目の当たりにしてそれに気づくことはできていない。またあるいは気づいたとしてそのことに対してアクションを取ることは必ずしもできていない。そうであるならば、フィクショナルな状況においてこそこの現実を受け止めることができるのではないだろうか。演出とは現実の歪曲や演出家や作家にとって都合のいい表象手段というだけではない。聞かれるべきにもかかわらず聞かれない声や、見られるべきにもかかわらず見られない姿をつかむきっかけを芸術的に与える手段である。その手段は例えばダンスや歌の技巧というわけではない。日常の社会的な状況では現れえない状況を起こすという手段である。社会的な状況においてどのような目的にも奉仕しないがゆえに嘘のようにみえるのが芸術的な手法としての演出であり、しかしながらその回路があって初めて聞かれる声や観られる姿があるのである。

 『みえないグラデーション』はワークショップという形態を用いながら、ダンス公演のような形態、あるいは演出を通じた演劇的な形態を用いてもいる。それによって、観客の観方がひとつに決定されず、この会場にいる人たちの振舞いは様々な関係からその都度見つめなおされることになる。私たち観客はどのような理由によって今ここで観客としていられるのかを、状況に対する反省から確認するしかないのである。これは目の前の人たちの身体と語りをどのように受け止めるのかという倫理的な態度そのものではないだろうか。

 イベントの最後では、ワークショップの参加者全員が身近な人に触れていき、触れられていることを感じながらそれに反応する動きでもってゆっくりと集合体を作っていく。座っている観客もその気になれば参加することができ、あらゆる参加者が巻き込まれていく。きわめて身体感覚に依拠したタスクは、参加型という形態の利点が生きるように思われる。これは、ダンスとは、言語を超えた営みであり、身体を持っていればだれとでも繋がりを模索できるという普遍的なつながりを共有できることを示すのであろうか。

 しかしながらこのシーンでもなおも観客は参加を選択する余地がある。参加することで肌理を通じた実感(いわゆるソマティックな)を得ることもできるだろう。それはこれまで観客として経験してきたことを強く裏打ちするに違いない。ただ一方で相手に触れてまた触れられるということには逡巡が付きまとう。ジェンダーやセクシュアリティなどによって構成される身体的現実があることに鑑みれば、その現実を必ずしも相手と共有できるのか、あるいはすべきなのかは明らかではないからだ。そのため、集合体が徐々に会場全体へと広がっていく過程でそれに飛び込むかどうかは極めて政治的であるといえるだろう。それは参加しないことが非政治的だということではない。触れずに見届けることは、身体的現実に対する応答にともなうリスクを逡巡した結果として政治的な態度であり続ける。このシーンで重要なのは、参加型の形態において参加者と観客の線引きが揺らぐ中で、集合体へと参加することも見届けることもそれぞれに政治的かつ倫理的な応答としての結果を伴うことを考えながら、自らの行動を選択しなければならないことである。それゆえにこのシーンは決して大団円ではない。むしろこのイベントを通じて一貫して問われていることのひとつのバリエーションである。

 

4.社会的倫理とダンスの美学の間

 舞踊学者ゲラルト・ジークムントは、近年のドイツ語圏をはじめとする欧米圏の実験的な上演芸術が多様な形態を組み合わせていることに対する新たな術語として「状況(Situation)」を理論化して提唱している。[5]近年において、参加型の形式が注目を浴び、社会的な実効性を持ったプロジェクトが増えていることに演劇学の立場から応答しているものである。彼は人々がある場所に集まることを現代の上演芸術の最小の構成要素としてひとまずは挙げているが、これは単に集まればよいということではない。その中では必ず表現者や行為者と観客という相容れない立場が分離して現れることが確認できなければならない。社会的な実効性のある結果を求めるのであれば、観客は存在する必要がなく全員が手を動かせばよい。しかし一方でそのプロジェクトが何にもまして芸術的なプロジェクトであるならば、観客や鑑賞者によって美的な対象として経験され、社会的な文脈から距離を取らねばならない。ジークムントは「上演」という枠組みすら包摂できる「状況」という術語でもって、社会的倫理を達成する現実的な営みと、芸術というフィクショナルな営みが一致することなく緊張関係に留まることで初めて上演芸術になりうることを指摘しようとした。1)Siegmund, Gerald: Theater- und Tazperformance. zur Einführung. Hamburg; Junius Verlag, 2020. pp. 42-46.この緊張関係はあくまで実際に参加して初めて行為者と観客の双方を経験して初めて記述できるものである。それゆえ近年の状況としてのプロジェクトは、社会と芸術領域を架橋すべく予定されたものとして与えられるものではない。あくまでそのように呼べるよう反省の契機を経験の中で見つけることで初めて成り立つのである。

 『みえないグラデーション』が様々な形態を行きかうことで、観客は単純な現実を受け取ることはなかった。自らがおかれている形態が変わっていくことで、目の前の身体や声をどのように受け取るのかを選択せねばならないからだ。その連続によってそれぞれの形態がどのように現実を構成するのかということの差異が見えてくる。自らのルーツやアイデンティティにまつわる逼迫したテーマは、どのような表象手段を用いてもやはり限界がある。そしてその手段が説得力を持つように見えるときこそ何かを見落としていないか気を付けなければならない。芸術的手段に対する批判的視線がある限りにおいて社会的な倫理に応答するための余地が生まれるのである。このイベントの特異な形態はまさしくジークムントがいうような状況として初めて理解できるものである。

 nosmosis researchによるプロジェクトは実験的な「状況」であり今後も続いていくだろう。2)

このプロジェクトが湯浅あるいはチジャ・ソンの名を作者として冠した作品として固定されることがなく、コラボレーションによるプロジェクトであったことも見逃してはならない。コラボレーションの美学については以下を参照。

Ruhsam, Martina: Dramaturgie der (und als) Kollaboration. In: Postdramaturgien. Deck, Jan et al(eds.). そしてこのような芸術に自己批判的であり続けながら新たな状況を模索する姿勢が広がることを期待している。それは芸術の形態を変えれば社会の様々な場所にアプローチできるようになるということでもないだろう。社会や政治の深刻な現状において不可視になっている人たちへと芸術は入り込み解決できるわけではない。そこには限界や挫折もありうる。ただそれゆえに芸術が自らのうちに引きこもりできることだけをやることはあらゆる現実の軽視にもつながる。社会や政治と芸術の接点は一瞥できるような分かり安い場所にはない。むしろ状況を作り出し、批判的思考を通じて初めて示し得るような場所である。『みえないグラデーション』はそのような場所を作り出すことに成功していたように思われる。

   [ + ]

1. Siegmund, Gerald: Theater- und Tazperformance. zur Einführung. Hamburg; Junius Verlag, 2020. pp. 42-46.
2.

このプロジェクトが湯浅あるいはチジャ・ソンの名を作者として冠した作品として固定されることがなく、コラボレーションによるプロジェクトであったことも見逃してはならない。コラボレーションの美学については以下を参照。

Ruhsam, Martina: Dramaturgie der (und als) Kollaboration. In: Postdramaturgien. Deck, Jan et al(eds.).