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支配/被支配を撹乱させる一人芝居-『I, Dareen T. in Tokyo』

 二本目は『I, Dareen T. in Tokyo(アイ・ダーリーン・ティー・イン・トーキョー)』。前半と同様、日本側の俳優(森尾舞)が日本語で語りを立ち上げて、ヴァイツマンの原作『I, Dareen T.』を演じる。要所要所で森尾の印象やコメントが入り、劇が中断されるのも同様だが、客席の集中が中断されることはない。

 『I, Dareen T. 』は2018年にイスラエルで初演された。チラシには作者としてパレスチナ人の詩人ダーリーン・タートゥールとユダヤ人の作家エイナット・ヴァイツマンの名前が併記されている。原作はモノローグ・ドラマ(一人芝居)で、演者として想定されているのは作家ヴァイツマン自身。彼女は、なぜユダヤ系イスラエル人である自分がパレスチナ人であるタートゥールの物語を演じるのかを語った後、ネットで公開した詩が原因で扇動の濡れ衣を着せられ、イスラエル警察に逮捕・拘留されたタートゥールの闘いを劇中劇で再現する。一人芝居なので、再現の場面ではヴァイツマンがタートゥールを演ずる。

 差別するイスラエルに属する女性が、差別されるパレスチナ側に属する女性を演じる。劇中で語られる作家と詩人の心の交流が、被差別/差別の壁を超える演劇を可能にしたことが痛いほどわかる。支配的なユダヤ人のナラティヴに覆い隠されたパレスチナ人のナラティヴが、ユダヤ人の身体を通して立ちあがる。特権的な立場に立つ身体が人間性を奪われた身体を演ずることで、非人道的で不当な差別を生み出す支配/被支配の構造の自明性を疑い、揺るがせ、撹乱させることが目指されている。ヴァイツマンもタートゥールもジェンダー差別を受ける側にいる。人間の平等という理念がおざなりにされている現実が観客に突きつけられる。

 このモノローグ・ドラマを森尾舞が一人で演じた。森尾は自身の印象やコメントを語りながら、ヴァイツマン、タートゥール、さらにタートゥールを演じるヴァイツマンを演じる。タートゥールを演じる場面では白いヒジャーブを巻き、ヴァイツマンを演じる場面では黒いブルゾンを着、森尾自身に戻るときはこれらを外す。このような成り代わりの演技には躍動感があった。

森尾舞
撮影=坂内 太

アラビア語、英語、ヘブライ語、日本語が交差する

 開演すると、森尾は自己紹介をする。そして、白いヒジャーブが置かれている椅子を示して「こちらがダーリーン」、黒いブルゾンが背に掛かっている椅子を示して「こちらがエイナット」と語りかけ、あたかも原作の二人がその場にいるかのように紹介する。その後、観客がこれから見ることになる舞台は、森尾自身が二人の女性と共通するものを自分のなかに探す旅なのだと語り、タートゥールとヴァイツマンを演じ始めた。原作の背景である複雑な政治状況に日本の観客を導くための優れた導入部である。

 公演後のアフタートークによると、こうした森尾の台詞は演出の生田とドラマトゥルクの渡辺との三人で作られたという。要所要所で原作を中断してコメントを加える演出の手法は、前半の『Prisoners of the Occupation』(東京版)と同じだ。タートゥールとヴァイツマンをイスラエルに訪れた森尾が、自分の抱いた印象や体験を率直に語る場面が随所にあり、そのたびに原作は中断するが、そもそも原作はヴァイツマンが自分語りをしながら自分とタートゥールを演じる仕組みなので、そこに森尾が自分語りをしながら二人の女性を演じても違和感はなく、見ていて飽きない。英語、ヘブライ語、アラブ語が飛び交う原作の世界が日本語を介してさらに立体的に感じられた。森尾が演じる役柄はすべて女性なので、出演者全員が男性である『Prisoners of the Occupation』(東京版)と好対照をなすのも印象に残った。

タートゥールを演じる森尾舞
撮影=坂内 太

 森尾は次々と役柄を変え、その都度状況を示しながら演じていく。扇動の濡れ衣をかけられるきっかけとなったタートゥールの詩を紹介し、ヴァイツマンとタートゥールの出会いと交流を演じ分け、護送され尋問され裁判にかけられるタートゥールを演じる。

 『Prisoners of the Occupation』(東京版)では拷問シーンが繰り返され、男性中心社会の暴力性が批判的に暴かれたが、『I, Dareen T. in Tokyo』には暴行シーンはない。しかしタートゥールが警察から受ける扱いは苛酷だ。監視カメラに見張られ便器が丸見えの狭く不潔な監房、手足を鎖で縛られての護送、身動きのとれない移送車内の圧迫感、エアコンの冷気に曝される体。男性の視点からは意識されることの少ない些細な事柄が、彼女の心を打ちのめす。極めつけは身体検査。女性警察官の手が体に触れるたびに、小さい頃に性的虐待を受けた記憶がよみがえり、タートゥールは感情のコントロールを失ってしまう。イスラエルにおけるパレスチナ人として差別される彼女は、男性中心社会における被害者でもある。こうした二重の差別に苦しむ彼女が沈黙を破るきっかけとなったのが、詩を書く行為だった。

 ヴァイツマンはタートゥールを支援し、公判を傍聴する。タートゥールは自分の裁判なのに、傍聴席に座って傍聴することしか許されない。その隣にヴァイツマンは座り、彼女の手を握る。

 こうした場面を森尾が一人で演じる。ヴァイツマンとタートゥールが手を握り合う場面も例外ではない。舞台に置かれた二脚の椅子の片方に森尾が座るだけである。もう片方の椅子には誰も座っていない。しかし、彼女が片手を差し出すと、その先にある空の椅子にタートゥールが座っていることを、観客は了解することができる。そして数日後、収監されていたタートゥールからヴァイツマンに一枚の絵が届く。舞台後方の壁に投影され、観客も目にしたその絵には、互いに手のひらを握り合う二本の腕が描かれている。溢れ出る情感のうねりが客席を満たした。

 

The world is beautiful, isn’t it?

 舞台の終わりは印象深かった。

 原作はタートゥールに有罪判決が出たところで終わるが、東京公演では森尾がタートゥールとヴァイツマンからのメッセージをそれぞれ朗読し、2022年末に極右内閣が発足したイスラエルの現状も合わせて紹介して、観客と共有する情報のアップデートを行う。

 森尾は、タートゥールとヴァイツマンが見ている景色の理不尽さを強調する。すると、前半の『Prisoners of the Occupation』(東京版)で活躍したパレスチナ人俳優カーメル・バーシャーが再び舞台に現れ、観客一人ひとりの目をゆっくりと見据えるように「今あなたが見ている景色は?」と問いかける。最後に彼が静かに、

The world is beautiful, isn’t it?

と言う。

 Beautifulという言葉が持つ「美しい」という意味とそれを裏切る私たちの現実との落差。政治的なメッセージの強さと切実さとともに、演劇的な豊かさと広がりを生み出す優れた舞台に立ち会えたことを実感した。

(2023年2月17日、23日観劇)