身体にかけられた魔法を解く〜フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ』 /柴田隆子
京都国際舞台芸術祭の招聘プログラムとして、フロレンティナ・ホルツィンガーの『TANZ(タンツ)』が、2022年10月1日と2日の2夜、ロームシアター京都サウスホールで上演された。ヨーロッパ、特にドイツ語圏の舞台芸術シーンで多くの注目を集めているのがホルツィンガーの舞台である。『TANZ』は2019年にウィーンで初演されて以降、ヨーロッパ各地で上演され、2020年のドイツ語圏ベスト10作品を招待する「ベルリン演劇祭(Theatertreffen)」に選ばれ、ドイツの演劇雑誌『テアター・ホイテ(Theater heute)』の2020年年間ベスト演出賞と、オーストリアのネストロイ賞最優秀演出賞を得ている。
本作はバレエを題材に身体の脱構築を目論む三部作の三作目にあたる。最初の『Recovery』(2017)は、舞台で3メートルの高さから落ちた怪我の回復期における恐怖やトラウマとの戦いを扱った作品で、ジョージ・バランシンの振付作品『アゴン』(1957)に着想を得た2014年制作の身体インスタレーション『アゴン』を発展させたものである。二作目の『Apollon』(2017)は、バランシンの新古典主義バレエの転機となった振付作品『ミューズを導くアポロン』(1928)をモチーフにした作品で、2021年の京都国際舞台芸術祭でも舞台映像が上映されている。アポロンを演じる男性ダンサーの代わりにサイボーグの牛が舞台中央に配され、女性パフォーマーたちが創造的破壊のためのディオニュソスの儀式を行う。続く本作『TANZ』(2019)では、ロマンティックバレエの負の側面に着目し、その枠組みをグロテスクに再現する。初演時の副題は「スタントでのシルフィードの夢(Eine sylphidische Träumerei in Stunts)』である。着想の元になったロマンティックバレエの代表作『ラ・シルフィード』(1832)は、つま先で立つポワントの技術を用いて妖精の幻想的世界を描き、フィリポ・タリオーニが娘のマリー・タリオーニに振り付けたことで知られる。この重力に縛られない「妖精」を演じるためにダンサーの身体に課された訓練は多くの痛みを伴った。バレエ学校を舞台にしたダリオ・アルジェント監督のホラー映画『サスペリア』(1977)も参照項にし、日常的なバレエ教室の場面と魔女や怪物の跋扈する幻想的な森の場面を配置した上で、現在に続く女性への様々な呪縛を可視化し、それを愉快に破壊する様を見せる。ベルリンの日刊紙『taz』のUwe Mattheissによれば、この舞台では、身体を取り巻く慣習の二重の侵犯がなされており、「ハイカルチャーの実践にありがちな脱ジェンダー化された身体の理念を乱すと同時に「低俗な」文化にある女性の身体を疑問を持たずに性的なものとしてみなす制度を挫折させる」1)Uwe Mattheiss, Kampf der Körper, „Tanz“ von Florentina Holzinger, 13. 10. 2019, taz. (https://taz.de/Tanz-von-Florentina-Holzinger/!5629096/).という。多くの批評家たちを魅了した本作であるが、京都の舞台ではどうだったのだろうか。客席で考えたことを書いてみたい。
内面化された規範意識を可視化する
ドイツ語で「ダンス」を意味するタイトルが付けられた本作は、様々なダンスに関する引用に富んでいる。日常を描く前半と幻想的な世界を描く後半の二部構成となるロマンティック・バレエの作品構造を借り、歴史的視座から見たバレエにおける女性性の表象を裸体と血でグロテスクに描き、観客の内面化された規範意識を揺さぶる。第一場は「Learning how to govern the body(身体を制御する方法を学ぶ)」2)場面につけられた標題は『TANZ』の上演用台本より引用、日本語訳は筆者。で、バレエ教室で女生徒たちがバレエの基礎的訓練であるバーレッスンを受ける場面である。教師役の年配女性が裸体なのに一瞬驚くが、堂々とした姿勢や語り口などから、身体技法を学ぶために裸体であることが「必然」であるかのように錯覚される。初演からこの教師役は、79歳のベアトリス・コルドゥアが担当していたが、来日公演では変更になっている。最優秀賞は逃したものの2020年のネストロイ賞女優賞にノミネートされたコルドゥアの演技をみていないので比べることはできないが、アムステルダム大学で教鞭をとっていたケイティ・ダックの72歳とは思えぬ端正に鍛えられた身体は、加齢による衰えを無効化する身体制御の効果を見せつけ、「芸術」としてのバレエの権威を高めているように見えた。
トレーニングウェアを着こんだ生徒たちは、暑いならば脱ぐように促され、裸体でバレエのボジションやバットマンなどの足を上げての身体訓練を行うようになる。初めから裸体の教師と違い、脱衣する生徒たちを客席の暗がりから見るのは、窃視している気分にさせられる。それでも舞台から少し離れた観客席から見ている分には、若く健康な女性の身体が並ぶ舞台は、よくある身体性を強調するダンス作品に見えなくもない。そのような観客の安全な場所を奪うように、彼女らの訓練する様を別の俳優がビデオカメラで撮影し、横顔、胸、尻、トゥシューズで真っ赤になった足先などを舞台上のスクリーンに大写しにする。観客である自分が性的な眼差しで彼女らを見ていること、そして彼女らの痛みに想像力が及んでいないことを突きつけられる。
女性教師はしばしば「マエストロ」と客席に呼びかける。それに呼応して音楽が流れるので、舞台のオーケストラを率いる指揮者への呼びかけとして、一見違和感はないのだが、繰り返されるうちに、この呼びかけは観客に向けて発せられたものでもあり、権威ある男性性に向けられたものであることが意識されてくる。一方、女教師は生徒たちのことは「girls(女の子たち)」と呼ぶ。舞台上で行われているバーレッスンは、バレエの基礎訓練としてよく知られるものであり、特段目新しいことをしているわけではない。裸体にしても、体の動きがわかるように着用されるレオタードを考えれば、「芸術」の目線で見ることもできなくはない。しかし丁寧に繰り返される「マエストロ」への呼びかけは、女性教師が男性権威を内面化した価値観を持っていることを示す。そして彼女はバレエの技法を教えることで、「女の子たち」に男性側の視線を意識して、自身の身体を異性にとって「魅力的」に見えるよう、そのコントロールの仕方を教えるのである。
そのことがはっきり示されるのは、女生徒たちにレッスンの一環として自慰行為をさせたり四つ這いで尻を客席に向けて整列させたりするポルノ的場面である。男性主体の視線を体現する女性教師は、彼女らにいつも笑顔でいるよう求め、性器を眺めて喜び、床に寝転ぶ少女たちに対し身持ちの悪い女を意味する「ネズミ」になるよう要求し、彼女らに囲まれて狂喜する。この場面は踊り子たちを性的対象として品定めする場としてパリ・オペラ座のバレエが機能していたことを想起させるだけでなく、舞台上の女性の身体を「美しい」客体としてまなざす慣習的な見方が、性別を問わず観客にもあることを批判する。舞台上に登場するのは全て女性パフォーマーであるが、この男性原理を代理表象する女性教師を通して見せられるのは、「男性vs 女性」、あるいは「老い vs 若さ」の二項対立で、「女性」や「若さ」を客体としてまなざす内面化された規範意識である。この枠組みにより、無自覚に「男性」や経験を積んだものが主体の立場を得、客体から快楽を搾取することが可能になる。客体とされた身体の痛みは共有されないことが、今まさに目の前で行われたトゥシューズの着用で真っ赤に腫れ上がった足先を画面に見ても、訓練の一環と平然と見過ごせてしまったことからもわかる。
規範から逃れる「魔女」たち
そうした観客の鈍感さを打ち破ろうとするのが、魔女や悪鬼が闊歩するサバトのような第2部「Animals will follow you(動物たちはあなたに従うだろう)」である。字幕タイトルにはバッハのカンタータ『来たれ、汝甘き死の時よ』で知られるテキストが字幕に添えられる。女性教師は豪奢な毛皮を羽織り、安楽椅子に座っている。狼のような被り物をつけたその他の女性たちは舞台を縦横無尽に活発に動き回る。裸で宙に浮かぶバイクにまたがり、背中に金属製の杭を刺して支えとし、流れる血もそのままに楽しげに空中を闊歩する彼女らは「魔女」とよばれた女性たちの歴史を彷彿とさせる。バレエ作品の空気の精は羽を失うと死んでしまうが、ホルツィンガーの舞台では背中に杭を打っても飛ぶことを諦めない。その力強い姿に、しかし手放しで拍手は送れない。
トゥーシューズをはく足の痛みには鈍感に慣れても、舞台奥で行われる背中に杭を刺す場面がスクリーンに大写しになれば目を逸らしたくなり、いかに楽しげに空中を闊歩しようと、その背に突き刺さり全体重を支える杭による痛みを想像せずにはいられない。こみ上げる嫌悪感と恐怖を代弁するかのように、舞台上の老女は怯え、疼くまる。舞台前面でネズミのような動物を出産するのも、第1部でバレエ教師を演じたこの老女である。旧世代の「女性」を代表するかのようなこの俳優に、自分自身が重ねられる。慣習や規範に縛られず、女性性の頸木から自由を勝ち得た別種の生き物のようにエネルギッシュに動き回る若いパフォーマーたちは、観客から客体としてまなざされるのを拒むように、舞台装置を破壊し、血糊を舞台にぶちまける。
悪夢のような場面が終わり、バレエ教室の場面に戻るラストは、安全な日常に戻ったかに見える。だがもうそこにある若い女性の裸体を、単に美しく性的な客体として見ることには抵抗を感じ、別種の生き物として眼差したい欲望に気づかされる。何事もなかったかのように生徒たちにバレエを教える女性教師の姿は、批判しているはずのジェンダー規範の再生産に知らずに加担していることへの自省を促す。
落ち着かない気分は、幕間劇のように挿入されたオーストリアのザンクト・ゲオルゲン・オプ・ムーラウでの植林計画への寄付募集にもあった。アダムとイブが神の楽園を追われる原因となった知恵の実であるりんごの木を、妖精たちのために植えるのである。そのために客席から現金での寄付を求め、それも1000円では少ないから10000円は必要だといい、いつでも訪ねられるイラスト付きの証明書までくれる。胡散臭いことこの上ないのだが、賢しらげに傍観者でいることがどこか落ち着かなかったのはなぜだろう。今夜の飲み代にも足りないなと思いながら、終演後に寄付をわざわざ申し出たくなったのはどうしてなのだろう。本気で妖精のために何かしたかったわけではない。ただ、裸体の彼女らを正視できず落ち着かなくなった気持ちを「寄附」をすることで落ち着けたかっただけなのかもしれない。それでもたくさんの知恵の実を食べて、ジェンダーに縛られない妖精たちがもっと増えることを信じたふりをしたくなった。それは規範から逃れるために「魔女」にはなれない自分へのささやかな抵抗だったのかもしれない。
(2022年10月2日観劇)
註
1. | ↑ | Uwe Mattheiss, Kampf der Körper, „Tanz“ von Florentina Holzinger, 13. 10. 2019, taz. (https://taz.de/Tanz-von-Florentina-Holzinger/!5629096/). |
2. | ↑ | 場面につけられた標題は『TANZ』の上演用台本より引用、日本語訳は筆者。 |