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女性というカテゴリーは⋯⋯、別のものに開かれる可能性、  
私たちの誰もが前もって予測し得ないような意味を持つ可能性を
持ったカテゴリーになるのである。             
──ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』1)ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』(竹村和子 他訳、以文社、2021)、40頁。ただし、引用したこの言葉は、前著の『ジェンダー・トラブル』をまとめるような意味で語られたものであり、この著作自体は、さらにその先を、つまりポストモダン哲学では捉えられていないと言われる物質というものを考察しようとしている。

 KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 で上演されたフロレンティナ・ホルツィンガーの『TANZ(タンツ)』は、奇跡が起こったかのような舞台だった(ロームシアター京都、10月1日)2)Florentina Holzinger は、ウィーン生まれの振付家・ダンサー。SNDO-Choreography で振付を学び、現在はアムステルダムとウィーンを拠点に活動している。SNDOは、School for New Dance Development (オランダ語では The School voor Nieuwe Dansontwikkeling)。アムステルダム芸術大学の演劇・舞踊学部が提供する4年生コースの1つ。ウィーンで毎年行われるダンスのフェスティバル ImPulsTanz で見出され、今にいたる。。舞台で起きるはずがないと思われることが次々と起き、見ないでいることもできるのだが、それを舞台という形で今現実に見ていることの嘘のような現実感に打ちのめされつつ、かつてないほどの爽快感と感動に満たされた。

 ひとことで何が起きたのかを言うとしたら、ダンサーたちがバレエのレッスンをして魔女のように裸で宙を飛んだ、となろうか。バレエも魔女も、どちらも女性が深く関わる。登場するのは女性だけが9人。いずれもダンスやパフォーマンスの経験がその肉体に滲み混んでいるような強者ぞろいだ。その道のプロが集まるアンダーグラウンド的なクラブでしか見ることができないような人たちが劇場に突如現れて、魔女の力を借りてバレエの変革に着手した、というストーリーを勝手に想像することもできるかもしれない。だが、見ていることを理解しようとする先を越されて彼女たちは突き進む。想像力が追いつかない。

 エピグラフで挙げたように、ジュディス・バトラーがかつて大きな希望を込めて語った言葉を実現しえたのではないかとさえ思ってしまうほどだ。女性というカテゴリーが、「誰もが前もって予想し得ないような意味を持つ」ことは、そうたやすくは起きるはずがないはずなのだが。

 いったい何が起きたのか、まずはゆっくりと思い出してみたい。そして、ホルツィンガーたちが、見かけによらずバレエをリスペクトしているであろうこと、バレエの潜在的可能性を拡大しようとしていること、そして魔女の持つ意味の何を受け止めようとしているのか、考えてみたい。それらが、女性というカテゴリーが「別のものに開かれる可能性」を垣間見せてくれるだろう。

フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022) , 撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

 

1 『TANZ』

 始まりは静かに、何も恐ろしい事は起こらないかのように始まった。でもそこには、得体の知れない不穏なものが蠢いていた。女性たちが何やら儀式のように群がり、その中心から高齢の女性が立ち現れる。全裸だ。なぜ? と不審に思って見ていると、「どうやったら体を支配できるか教えましょう」と言い、数名の女性たちはあたりまえのようにトウシューズでバーレッスンを始めた。彼女はバレエ教師なのだ3)パンフレットには、「舞台は、『春の祭典』を世界ではじめて裸で踊った(1972年、J.ノイマイヤー振付)ベアトリス・シェーンヘルのバレエ教室」と書いてある。1943年ハンブルク生まれのシェーンヘルは、ノイマイヤーの元でいくつものバレエに出演している。そして、20197月の『TANZ』の初演時には、77歳になったシェーンヘル自身がこのバレエ教師役で出演している。京都公演では、Katie Duck という、アメリカ生まれ(1951)でアムステルダム在住の、やはり経験豊富なダンサーがバレエ教師として出演している。。プリエ、ドゥミプリエ、グランプリエ、⋯⋯教師が全裸であることを除けば、いたって普通のレッスンだ。老バレエ教師は、ピアノの響きを褒め称え、生徒の動きを賞讃し、そしてごく自然に、「熱いでしょ、脱いだら?」と声をかける。生徒たちは少しずつ身につけているものを取っていき、最後にはみな全裸になった。それでも淡々とレッスンは進む。ロンドゥジャンブ、フォンデュ、フラッペ……。裸になると生徒たちもただ者ではないのがわかる。バレエダンサーとは明らかに異なった肉の付き方をしている。ふてぶてしい筋肉だ。タトゥーもある。かわいらしいタトゥーではなくて、とぐろを巻くような本気のタトゥーだ。「よけいなものを捨てなさい」、と老バレエ教師。バレエで身体を鍛えれば「スーパーヒューマン」になれるとまで言う。すっかり高揚した老バレエ教師は、ビデオカメラを用意させて生徒たちを隈なく撮影し始める。それがスクリーンに大写しにされるのだが、それを見て嬉々として品評する老教師には、そこまで映させていいのかと、見ていてハラハラした。彼女たちは老教師の言うままにポーズを取り、舞台でさらしてはいけないものを言われるままに見せる。「この従順さにはなにか裏があるのか?」「この先、何を見せられるのだ?」と心配になったが、彼女たちはそんな心配の先を行くから、あっけにとられるばかりだ。あまりにリアルすぎてそれがリアルであることを受け入れられなくなるほどだった。

 この作品は2部構成からなり、第1部はほぼ最後までバレエレッスンが続くのだが、その後半には畳みかけるようにさらに異様な出来事が続いた。

 歯が1本の魔女が突然現れてダンサーをつかまえては切り刻む。大釜にダンサーをぶち込んで煮込む。赤ん坊も(もちろん人形だが)煮込む。まるでアニメに出てくる、あやしい煮込みを作る魔女だ。その一方でダンサーたちは、舞台の両翼高くに吊されていた2台のバイクによじ登り、アクロバチックなアクションを見せる。裸でバイクに飛び乗る姿はすさまじくかっこいい。そして第1部で最大の見せ場シーンが静かにやって来た。

 バレエレッスンを受けていたダンサーだと思うが、2人か3人が、床に座ってバケツに水で髪の毛を潤し始めた。洗ってるわけでもないようなのだが、気づくと長い髪の毛はぎっちりとまとめられて、直径10センチほどの輪が頭の上に留められている──いや、その時に気づいたのではなかったと思う。その輪で彼女たちが吊られた時に初めて、そこに輪があることに気づいたのだと思う。上から降りて来たワイヤーにその輪を結び付けた時だ。ワイヤーが少しずつ上がり、トウシューズの先がギリギリ床に着いているくらいにまでなる。まるで刑罰のようにも見え、「それ以上あがらないでくれ」とつい思ってしまったが、中央の女性のトウシューズが床からほんの少し離れた。床と爪先との隙間の数センチは、恐ろしいほどの深淵のように現れた。髪の毛が引きちぎれてしまうのではないか? と、今見ているのが舞台作品であることを一瞬忘れて憤りさえ覚えるが、床との間隔が1メートルほどになると、心配する必要はないのではないかと思えてくる。2メートルを超えると、これは見世物のひとつなのだろうと安心して見ていられる。とはいえ、いつ何が起きるかわからないハラハラする気持は消えないのだが、彼女は少々引きつったような笑顔で観客を見てポーズをとってくるりと回ってみせた4)これはヘア・ハングあるいはヘア・サスペンションと呼ばれる芸として知られるもの。行っているのは Veronica Thompson。彼女はその道の専門家としてキャリアが長い。シルク・ド・ソレイユの『Volata』等でも、同じ芸が一つの演目として登場するが、シルクの場合は、もっと大きく振り子のように動き、空中でダンスを披露するので、最初から見世物と思って安心して見ていられるだろう。Thompson は、そうしたパブリックともいえるショーではなくて、もっとアンダーグラウンドな場所で行っている。

 髪の毛で吊られた彼女と、バイクに飛び乗った者とで、一幅の絵画のようなスペクタクルが描かれる。老バレエ教師が言っていたように、バレエレッスンをしていた彼女たちは、スーパーヒューマンとなって重力に抗い空中を舞うまでになった、ということなのだろう。

 いったい何を見ているのだろう? と、不安と恐ろしさと楽しさが入り混じった気持で混乱していると、「コンニチハ、ゲンキデスカ」という素に戻った女性のぎこちない日本語で第1場は唐突に終わり、幕間のちょっとしたイベントが始まった。それまで、無茶苦茶なパフォーマンスを見せていた彼女たちは、何食わぬ顔で舞台で和んでいる。このとき私は、彼女たちが全裸だと思い出して少々とまどったが、お構いなしにイベントが進行していった5)ホルツィンガーたちは、オーストリアのアルプス山麓で行っている植林へのカンパも求めていた。この幕間のイベントはそのために行っているらしい。リンゴの苗木を植えるのが楽園の知恵の樹と関係があるのかはわからないが、エコ・フェミニストとして環境問題と村の再生に取り組んでいるのだ。。この作品はロマンチック・バレエにのっとって作られているという話がされた。ロマンチック・バレエでは、前半はたいてい日常的な場所で、後半は森の中などの幻想的な場所になり幽霊や妖精が登場する。「それでは第2幕が始まります、お楽しみください」と第2幕が始まると、本当に第1場とはがらりと変わり、薄暗い森の中のようになった。幽霊も狼も登場する。カギ鼻で老婆姿の典型的な魔女が現れる。レッスンをしていたダンサーたちは今度はその老魔女に仕える若い魔女見習いになったのか、嬉々として飛び跳ねている。先の老バレエ教師は、狼を「使い魔」のように従えてどっしりとイスに座っている6)ダンサーの誰かが狼に扮している。「使い魔 Familiar」とは、魔女が悪事を行うために従えている小動物。主にイングランドの魔女が使っていたと言われる。

 第2場は1幕以上に奇妙で恐ろしく、見るに耐え難い出来事も立て続けに起きた。

 最初は何が起きているのかわからなかった。老バレエ教師の回りを魔女見習いたちが取り囲む。カギ鼻魔女が魔法をかけたのかもしれない。老バレエ教師がもがき苦しみ、カギ鼻魔女が大仰な仕草でその前に跪く。狼がカメラで老教師の股間を大きく映すと、血が溢れ何かが現れる。かつて魔女と呼ばれた女性の中には産婆もいたとも言われるが、かぎ鼻老魔女は老教師の出産を助けているのだ。だが、スクリーンに大写しされた老教師の血まみれの股間から出て来たのは、鼠のような黒い生き物だった……一体何を見ているのか、見させられているのか、安易な意味づけを拒絶するようなおぞましくも強烈なシーンだ7)ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』へのオマージュと捉えることもできるのかもしれないが、いくつもの幕を隔てた向こうの出来事を見ているような映画に比べると、目の前で実際に行われていることをズームアップで見せられ、おぞましさが増す。

 なんとも嫌な感じが尾を引くなか、全裸の魔女見習いたちが飛び跳ねたり、シーツを被っただけの安直なお化け8)安直とはいえ、『ジゼル』第2幕で凛々しくも可憐に登場する純白のチュチュのヴィリたちに似せているのだろう。コール・ド・バレエのヴィリたちは、その実体は亡霊なのだ。が壁にぶつけられたりしているのを何気なく見ているうちに、上手後方の隅でだいぶ前から何かがゆっくりと時間をかけて進行していたのに気づく──これも、このあとのことが起きてから事後的に気づいたのだと思う。最初から手術台のようなものがそこにあった。女性がそこに横になり背中を消毒する(実際に消毒をしたかどうかはさだかではない。実験のようなことをしているなと思った記憶はあるが)。カメラが大写しにするのは、巨大な釣り針のような金属を背中の肉に突き刺すところだった(これは確かに見た記憶がある)。目を背けたくなる。巨大なピアッシング。血は出ないのか、 背中からフックの先端がプツンと現れる。見ていられなくなる観客もいたと思う9)ビフォートークで、KYOTO EXPERIMENT の共同ディレクターの塚原悠也が、自由に席を移ってかまいません、というようなことを強調していた。たぶんこのあたりで、見るに堪えられなくなったら出てもいいということなのだろう。京都公演で席を立った人は私は見かけなかったが、ヨーロッパ公演では、このシーンで席を立つ人がいたと書いてあるレビューがいくつかある。。だが、儀式のようにゆっくりと確実に手順を踏んでいく。そうして背中を貫いた2つのフックで、彼女は空中に吊られていった。目を細めてどうにか見ると背中の肉は確かにフックに引っ張られている。そんな薄い肉で体重は支えられるのだろうか? 第1場のヘアハング以上に、見るのに苦痛を覚えるところだ。……そんなよけいなことを考えている間にも彼女は高くのぼり、モップを股に挟んでブンブン回り始めた。魔女だ。彼女もまたスーパーヒューマンになれたのだ⋯⋯空から降りて来た彼女の背中に付いたままのフックは天使の小さな羽のようにも見えた10)彼女は Lucifire という名でこの芸を披露してきたプロ。20年ほど前からボディ・サスペンションを始め、10年ほど前に妊娠を機にこの芸は封印したというが、ホルツィンガーのたっての頼みと、この作品に惚れ込んだことから、10年振りに再び演じることにしたという。この作品に一緒に出演しているSuzn Pasyon Lucifire が信頼しているピアスのプロ。

 強烈な緊張を一点に集めたこの、恐ろしくも美しいシーンの後は終わりに向けて突き進む。見習い魔女たちの反乱か内乱が始まったのだろうか、狼は串刺しにされた。魔女たちも血みどろになる。手足が切り刻まれる者、あるいは自分で刻んでみせる者もいた。もちろんスプラッタームービーの引用だ。だが、混乱の中からダンサーたちが『白鳥の湖』のフィナーレを血みどろで踊り、再び老バレエ教師のレッスンが始まった。1本歯の魔女11)彼女は、Annina Machaz。これまでもホルツィンガーの前作『Apollon』等に出演している。が高い壁の上に座ってそれを見ていた。

フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022) , 撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

 

2 バレエの力

 まず基本的な情報として、この作品は3部作の3番目の作品であるという12)1作目の『Recovery(2017)と2作目の『Apollon(2017)は、それぞれ、バランシンの『Agon』と『Apollon』に基づいているというので、本作と同様にバレエと大いに関わりがあるのだろう。残念ながら未見なので、ここでは前2作については触れない。3部作を通して見ることで見えてくるものもあるだろうし、『TANZ』の見え方も変わると思うが、それはまた次の機会に考えたい。この3部作のテーマについて、公演情報のサイトでは、「This trilogy investigates how the body is cultivated, shaped and transformed through different physical disciplines」と書かれていることが多い。「様々な肉体訓練によって身体はいかに磨かれ、適合させられ、変形させられるか」。本作で言えば、バレエの訓練によって一種の肉体改造が成されることを指しているのだろう。

 トウシューズはあまり幼い頃から履かない方がよいとしばしば言われるように、バレエのレッスンは、バレエが求める鋳型に身体を無理矢理鋳造するシステムであることは誰もが知っている。もちろん、プロのオペラ歌手やピアニストになるにも、プロの力士や大工になるにも、プロのエステシャンや将士になるにも、何らかの肉体改造が必要だろうが、バレエダンサーほどバレエが求める美に適う身体に全身をくまなく改造することはないだろう。それを自然に反する美学だとして、自由なダンスを唱道したのがイサドラ・ダンカンと言われる所以だ。

 ホルツィンガーは、そのような矯正や鋳造としてのバレエの肉体改造を単純に批判したり解体したりしようとしているわけではないようだ。むしろ、まだまだ生ぬるい、と言いたげだ。

 第1部でのバレエレッスンは、老バレエ教師が発狂したのではないかと心配してしまうほどの偏執狂的な事態に至るのだが、決してパロディとか批判が込められているわけではないだろう。むしろ、バレエやバレエダンサーを狂おしいほどに愛する老バレエ教師の愛の滑稽なほどの真摯さが浮かび上がるばかりだったと思う。それは、バレエへの究極の愛がたどり着く可能性としてのひとつの形にも見えた13)老バレエ教師の姿を、バレエにいまだに残るヒエラルキーやパワハラ批判とみなすこともできるかもしれないが、少なくとも私には、バレエへの愛は感じられた。無批判的なバレエファンとして優雅な美しさに耽溺するばかりの愛ではなくて、バレエのくだらなさやいやらしさをすべて認めたうえで、それでもそこに現れてしまっている美しさを愛さざるをえない愛だと思う。

 幕間でホルツィンガー自身が説明したように、この作品は、第1部が現実の場、第2部が幻想の場という、ロマンチック・バレエの基本構造を踏襲している。ロマンチック・バレエとは、1830年から60年頃まで、ちょうどフランスの文学や芸術でロマン主義と言われる潮流が盛り上がった同時代に発生した特異なバレエスタイルを指す。目の前の現実から離れて、時間的にも空間的にも心理的にも遠い所を求め、自然、古代、夢、エキゾチスム、主観的昇華などを称揚するのがロマン主義であれば、ロマンチック・バレエも同じ傾向に与する。そのパラダイムとなる作品が『ラ・シルフィード』と『ジゼル』で、どちらも前半の現実の場と後半の幻想の場との対比を特徴とする。『TANZ』には、この2作品から引用したのではないかと思われるシーンがいくつもある。『ラ・シルフィード』の第2幕冒頭の魔女たちのダンスは、『TANZ』の2場で飛び跳ねる魔女=ダンサーたちと確かに似ている。『ジゼル』第2幕のコールドバレエのヴィリたちは、『TANZ』の2場の幽霊たちだろう14)これをパロディとみることもできるかもしれないが、ロマンチック・バレエの枠組みの中でどこまで暴れることが可能かという試みともいえるし、ホルツィンガーたちのあまりにも奔放な逸脱をかろうじてロマンチック・バレエの枠組みが支えて作品の形を保っているともいえるだろう。枠組みがなければ単なる乱痴気騒ぎと見られる危険もある。ロマンチック・バレエという枠組みを設定しているからこそ、彼女たちの逸脱がかろうじてつなぎ止められていると共に、その逸脱の過激さがクリアになるのだろう。

 そして、この作品を見た誰もが忘れることのできないだろう2つのシーン、ヘア・ハングとボディ・サスペンションも、ロマンチック・バレエの潜在的可能性あるいは欲望をおもいっきり拡大したものといえるし、ほかならぬロマンチック・バレエの創始といえるマリー・タリオーニへのオマージュと見ることもできる。

   

 マリー・タリオーニを描いたエッチングを2つ見てみよう(左:1845年頃、大英博物館所蔵。右:1840年頃、兵庫県立芸術センター 薄井憲二バレエコレクション所蔵)。『ラ・シルフィード』の妖精シルフィードないしは風の精シルフを踊るこれらの絵は、トウシューズでつま先一点で立ち、背中には天使か蝶のような羽を付け、いかにも重力には支配されない存在のように描かれている。バレエの典型的スタイルのひとつと見えるが、この姿は彼女がプロトタイプであり、そもそもロマンチック・バレエとは彼女から始まったと言われる。バレエをバレエたらしめるポジションやアン・ドゥオール自体は既に17世紀の後半に規定されていたが、バレエとしてすぐにイメージするチュチュやポワントは、19世紀の初めのロマンチック・バレエと言われる作品群から始まった。とりわけポワントは、マリー・タリオーニが今の形で始めたという。

 髪の毛で吊られてトウシューズのつま先から床を離れたり、天使の羽の生えているあたりを貫いた大きなフックで吊られて宙を舞ったりすることは、少なくともその動きだけを見れば、タリオーニの夢みた動きにそれほど遠くはないだろう。ホルツィンガーは、マリー・タリオーニの夢を、思いも依らない方法で正確に実現してみせたとも言える。

 実は、ロマンチック・バレエがマリー・タリオーニと父フィリッポによって女性的な仮想の世界のものとして仕立て上げられる前には、見世物的な要素が強かったことも知られている。ポワントは、同時代の女性ダンサーたち(アマリア・ブルニョーリ等)がもともと行っていたものなのだが、あくまでも軽業として爪先で立って見せたり、ワイヤーを使って宙に舞ったりもしていた。体格的には劣っていた華奢なタリオーニが、自分の欠点を優位に見せる戦術として編み出したのが、今のポワントなのだ15)Marion Kant, “The soul of the shoe”, in The Cambridge Companion to Ballet (2007), pp.184~197, とりわけ、pp.190~。日本にバレエが本格的に移入される以前、大正時代にポワントで名を馳せたダンサーに高木徳子がいる。彼女は、浅草オペラ等の見世物的な公演を主にしていたのであるが、日本におけるポワントの最初期の移入も、バレエの歴史からすると正統なものと言えるだろう。ポワントがそもそも見世物的であったのであれば、もしもタリオーニがバレエを変えなかったとしたら、髪の毛を束ねてワイヤーで吊って空中を舞うような軽業となったポワントがバレエに登場していた可能性もあっただろう。ホルツィンガーはその可能性を実現したのだ。

 だからこそ、髪の毛で吊る軽業ヘアハングは、あくまでもバレエとしてできうる限り優雅に、そして上品に行われるのだ。乱暴で殺伐としたシーンの多いこの作品の中で、静謐な緊張感が漲る数少ない場面だ。まずバケツの水で丁寧に髪の毛を潤し、慎重に輪を通してていねいに束ねる。そうして静かにゆっくりとヘアハングが行われる。赤いトウシューズの爪先が床を離れる瞬間に焦点を合わせ、床を離れてからの蝶のような軽快な運動へといたる一連の時間の濃淡が、みごとに優雅に流れてゆく。

 マリー・タリオーニのエッチングで描かれていた天使か蝶の羽の付け根、ちょうど肩甲骨のあたりに大きなフックを通してダンサーを吊り上げたシーンの方は、さすがにバレエに組み込まれる可能性はないだろうが、タリアーニの夢の実現として、ホルツィンガーは極めて優雅に執り行っていた。ピアシングから吊り上げるまで、儀式のようにひとつひとつていねいに手順を踏んで時間をかけて行われたのだ。だからこそ、足が床を離れる瞬間が恐ろしかった。それなのに、高く舞い上がってしまうと、もう楽しげに回っている。その笑顔は、周到に準備された技術の上において可能になるものであり、虐待と言われるほどの過酷な身体訓練の上でようやく実現されるバレエの優雅さにも通じるだろう。このシーンで流れていた音楽は、『ジゼル』第2幕のクライマックス、ジゼルとアルブレヒトのパ・ドゥ・ドゥだった。亡霊となったジゼルが、愛していたアルブレヒトと最後の踊りを踊るシーンのアダージョだ。初演の頃にはジゼルはワイヤーアクションで飛び上がったという。

 ヘア・ハングもボディ・サスペンションも、宙に浮かびたいというロマンチック・バレエの希求を実現するひとつの試みといえるが、バレエが向かうのが女性の身体の重さを消し去る方向だとしたら、ホルツィンガーは逆に女性の身体のどっしりとした重さをはっきりと見せようとする。その点が大きな違いだ。肉体の重さは、髪の毛や肩甲骨の皮膚という、通常ではそれが支えるとは想像もしない部分に集中させられる。トウシューズでのポワントも、女性の爪先という一点に通常では考えられない過剰な負荷を追わせているが、観客には隠されている。ポワントで実現される軽さは仮想的な見かけの軽さにすぎないのだが、『TANZ』で実現されるのは現実の軽さだ。つまり、その軽さが、どれほどの過酷な抑圧によって可能になるのか隠されることなく実現されている。

 ロマンチック・バレエに由来する今のバレエは、女性の美を最高度に顕現しているとはいえ、男に支えられてかろうじて存立している女性性の上に立っている。しかもその美は、女が求める美なのか、自分が体現している美を男が見ることを見ている自分が美しい姿でいることを求める美なのか、歴史を経て錯綜しまくっている。ホルツィンガーたちは、そうした女性性を男の手から救うために暴力的にならざるをえなかったのかもしれない。髪の毛や肩甲骨のフックはそうした暴力性の権限でもあった。女は男に勝る暴力的存在にならざるを得ないのだ。

 この時、必然的か偶然かはわからないが、痛みを負わされているのは女性だ16)1970年代にオーストラリアのアーティスト、ステラークが様々な姿態でのボディ・サスペンションを行って多くの人の度肝を抜いた。だが、なぜかわからないが、彼のサスペンションに軽さは感じられず、重さばかりを感じる。。女性ばかりが痛みを負わせられる事態は、かつて起きた魔女狩りを思い起こさせる⋯⋯と言うといささか唐突かもしれないが、『TANZ』では確かに魔女が現れる。なぜ魔女なのかを考えてみたい。

フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022) , 撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

 

3 魔女の力

 中世の終わりから近世の初めにかけて、魔女狩りという信じがたい狂騒が起きた。5万人ほどが殺され、その大半は女性だった。魔女と名指しされた女性たちは、男性の神学者たちが現実に見もせずに書物や伝聞や自身の妄想だけを頼りに練り上げた妄想によって、殺された。殺さなければならないほど男たちにとって恐ろしい力を持った存在だったのだろう。だからこそ魔女は、男性による支配や管理をすり抜けてしまう危険な存在として、男性と闘うフェミニストのアイコンのひとつともなっている17)たとえば1970年前後に、その名も WITCH Women’s International Terrorist Conspiracy from Hell)という名のフェミニストグループが存在した。

 『TANZ』に、いかにもという魔女はふたり登場した。第1部の半ばで登場する1本歯の若い魔女と、第2部から登場するカギ鼻の老魔女だ。1本歯は平気で残虐なことをしでかす陽気な魔女。カギ鼻は圧倒的な力をもってダンサーたちを操ることができる陰鬱な魔女。1本歯はひっかきまわし、カギ鼻は支配する。先に書いたように、カギ鼻は老バレエ教師の奇怪なお産を介助した。とすると、老バレエ教師に仕える魔女なのだろうか。レッスンを受けていたダンサーたちもカギ鼻魔女の手下の魔女になったのだろうか。バレエレッスンの成果なのか、魔女の力なのかはわからないが、ダンサーたちは宙に浮かんだバイクを楽々と乗りこなしている。背中を貫いたフックで吊られた彼女も、モップを股に挟んで魔女のようにひょうひょうと飛んでいた。

 魔女は空を飛ぶという。魔女裁判にかかわった神学者や悪魔学者によれば、実際に飛ぶという意見もあれば、悪魔によって飛んだ幻想を見させられていただけだという意見もあるが、飛んで行く先はサバトと呼ばれる狂乱の宴だという見解はほぼ一致している。魔女裁判の記録には、夜中に箒にまたがってサバトに飛んで行ったという証言が多く残されている。15世紀の聖職者マルタン・ル・フランによると、「わたしはある裁判記録を目にしたことがある。それにはある老婆がまだ十六の頃から、夜間ヴァルピュート〔腐敗の谷〕からほうきの枝にまたがって空を飛び、悪魔たちのおぞましい集会へ赴いたとの自白が記されていた」。「その自白によると、集会には一万人もの老婆たちが群がり、この大いなる集会で猫やヤギの姿に変身し、うやうやしく悪魔に近づいて、服従のしるしとして悪魔の尻にあからさまに接吻し、神とその偉大な力を公然と否定したという」18)『女性の擁護者』(1440)より。田中雅志『魔女の誕生と衰退 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』(三交社、2008年)、87頁。。サバトでは、あえて正常から逸脱したダンスが踊られた。16世紀に魔女裁判に当たった判事ピエール・ド・ランクルによれば、「食事の後にはダンスが続く、……1番手はダンスの輪の内側を向き、2番手が外側を向く。そして他のすべての者が同じようにしてできうる限りもっとも淫らで汚らわしい動作でダンスを舞い、足を踏み鳴らし、体をがたがた震わせる」19)田中、同書、106-107頁。『TANZ』の第2幕で、常軌を逸して暴れまくっていたダンサーたちの馬鹿げた振る舞いは、バイクや箒に乗って空を飛んできた魔女たちのサバトのようにも見えた。

 サバトの主催者は悪魔であり、魔女たちは悪魔にそそのかされて正統な権威に反抗するというのが、多くの悪魔学者の見解だった。魔女を裁くための最初にして最大のマニュアルである『魔女への鉄槌』(1486/87年)には次のように書かれている。「女は心においても肉体においてもそのあらゆる能力に欠陥がある……女はその本性の結果として悪であり、そのため信仰においてよりすみやかに疑いを抱く。……すべてにおいて肉欲に支配されており、女は肉欲に飽くことを知らない。……そのため、女は欲望を満たそうそして悪霊とさえ戯れる」20)ピエール・ド・ランクル『堕天使および悪魔の無節操な図』(1613)より。黒川正剛『魔女狩り 西欧の三つの近代化』(講談社、2014173頁。ド・ランクルは100人あまりの女性を魔女として火刑にしたという。。正規の人間としての男とは異なり、女は動物に近いと考えられていた21)もちろん、この『魔女への鉄槌』の行きすぎた陰謀論に批判的な神学者も多かった。。このあからさまなミソジニーが魔女狩りを主導していたことには戦慄を覚える。『TANZ』には、女をたぶらかすという悪魔はまったく現れず、仕切っていると見えるのはカギ鼻の老魔女だ。悪魔にそそのかされたわけではなく、彼女たちはとにかく反抗して暴れている。“悪魔なんてクソくらえ、私たちは私たちの欲望のままに楽しんでるだけだ”、とでも言わんばかりなのだ。いわば、男たちが恐れた魔女の力を取り戻したかのようだった。

 かつて魔女狩りで焼かれた魔女たちは、多くの男の怒りをかったのだった。それほど男たちは女たちが怖かったのだろう。告発されているような悪事22)家畜を殺したり、悪天候を起こして不作にしたり、男性を不能にしたり、時にはペニスを取ったりしたと言われていた。もちろんそれらの「悪事」は、理不尽に女性の仕業とされたわけだ。をしているところを実際には一度も見たことのない男たちが、魔女を火刑台に送った。魔女といわれた彼女たちが、キリスト教世界をひっくり返すほどの悪事をなす力を持っていたわけはない。想像の世界で、それも男たちの妄想の世界の中で、彼女たちは巨悪のネットワークを張り巡らしていたのだ。

 フェミニストのモナ・ショレは、最近訳された著書で、「魔女は、あらゆる支配、あらゆる限界を乗り越えた女性の象徴、めざすべき理想、指針なのだ」と言う23)モナ・ショレ『魔女 女性たちの不屈の力』(国書刊行会、2022)、18頁。モナ・ショレは魔女狩りの時代から綿々と今にまで続く、女性に対する偏見と抑圧をあからさまにし、ひっくり返そうとしている。。フェミニストが望む魔女の力は、かつて男たちの妄想の中で魔女が持っていたとされた力を、いわば逆転させて、男の妄想の中から女の現実の力へと取り戻した力ということもできるだろう。

 ホルツィンガーのダンサーたちもそのような意味での魔女の力を持とうとしていたのだろうか。ふたりの魔女が出てくると舞台はたいてい血まみれになった。女たちの力は、触れれば血が出るような危険でアナーキーな力になって溢れ出してきた。どこに向かうのかわからない彼女たちの暴力は、時には自分自身にも向かい、まるでスプラッタームービーのようにグロテスクなものをさらけ出したりもしたが、理不尽で不均衡な暴力には圧倒的な暴力で対抗するしかない24)魔女とバレエとスプラッターというと、当然ながらダリオ・アルジェントの傑作映画『サスペリア』(1977年)を思い出す。フライブルクの名門バレエ学院が実は魔女が創設者だったという話だが、映画では魔女やバレエにはそれほど深入りはせずに、スプラッター的な美の連続がメインだった。この映画のリメイクであるルカ・グァダニーノ監督の『サスペリア』(2018)では、ダミアン・ジャレが振付で参加していて、どう見てもピナ・バウシュであるダンス教師が登場するし、魔女のダンスも出てくる。ホルツィンガーたちがこれらの映画を参照にしたとしたら、スプラッター的な場面をどう見せるかという点だろうか。

 ロマンチック・バレエがその姿を現した際にも、魔女狩りが吹き荒れた時にも、そのしわ寄せは何らかの形で女性が負っていた。『TANZ』のダンサーたちがそのどちらの痛みも表面に浮かび上がらせることが出来るのは、彼女たちが全裸であることが大きい。次に、この裸であることの意味を考えてみたい。

 

4 裸の力

 冒頭で老バレエ教師が全裸で立ち上がったときには虚を突かれ、ダンサーたちが次々と脱いでいくときには見ていていいのかと狼狽したが、その驚きも次第に薄れていった。むろん観客は、彼女たちが裸であることにとまどい、視線は裸の肉体の上で右往左往するが、彼女たちがまったく隠す動作も気にするそぶりも見せずに普通に行動をしている。いやこれまでに書いてきたように行動はまったく普通ではないのだが、その行動は裸であることとは無関係であることがわかる。そうした、裸には無関心な行動がいつまでも続くので、次第にひとりひとりの肉体の形の違いやタトゥーの違いが、それぞれの衣装の違いくらいに思えて、ためらいなく見ているようになった、という気がする。

 ダンサーが裸になる作品はいくらでもあるが、そうした作品では裸になる意味を際立たせる場合が多い。裸であることで見えてくる何らかの意味や力を表そうとする。だが、『TANZ』では、むしろ裸であることの意味を消去しようとしているようだった。裸であることが、そこに何の意味も引っかからない透明な記号になっていく。彼女たちは裸であることをほんのわずかでも意識に乗せないように行動しているのではないか。どれだけ意図的に行っているのかはわからないが、裸であることをまったく意識していないかのように外からは見えるように意図して行動をしているのではないか、とすら思えてしまう。

 そして、裸がまとっている通常の意味をまずは剥奪し、そこに別の意味を書き込もうとしていたのではないか。それが、女性たちの痛みであり怒りではないか。

 裸という表面は、性差を端的に可視化し、異性であろうと同性であろうとなんであれセクシュアリティの受け皿になりやすいので、搾取や抑圧の対象にもなりやすい。それは男の裸だろうと女の裸だろうと同じだろうが、女の裸の方がはるかに多く搾取と抑圧を受けてきたのは確かだ。魔女狩りの頃、魔女と名指された女性は、「魔女のしるし」と言われる特別な目印を探すために全裸にされて体中くまなく検査されたこともあったという25)「魔女の身体は、常に何らかのしるしを持つということによっても特徴づけられます。すなわち、魔女の身体には、染み、感覚不可能な部分などといった、悪魔の署名のようなものがあるということです」。ミシェル・フーコー『異常者たち』(筑摩書房、2002年)、232頁。

 フェミニズムの目的が「性差別主義的な抑圧を根絶すること」(ベル・フックス)26)ベル・フックス『ベル・フックスの「フェミニズム理論」』(あけび書房、2017)、61頁等。であるならば、裸にまとわりつく搾取や抑圧という厚く凝り固まった意味や垢をこそげ落とすことはフェミニズムの大きな目的のひとつとなるのは当然だろう。ホルツィンガーたちは、ことさらフェミニズム的な振る舞いを強く行うわけではないが、裸が搾取される前にその意味をゼロにしてしまうような戦略はフェミニズムの目的にそうものであろう27)ホルツィンガーがフェミニストであるという間接的証拠はいくつか挙げられる。出演者のひとりの Veronica Thompson (ヘア・ハングの演者)が最近のインタビューで明かしていることだが、ホルツィンガーたちは、次のような条件でメンバーを探していたという:「舞台で裸になることを厭わず、自分の体に挑戦し、フェミニストという条件の下で、皆で一緒にライブアートショーを作れる人」(www.run-riot.com/articles/blogs/feminist-fuck-high-octane-world-tanz#permalink)。また、初演当時の作品紹介には、“Feminism, of course, has always been an exercise in science fiction.“ という Laurie Penny のキャプションが付いていた。Laurie Penny は、ガーディアン誌等で論考を発表している作家で、この文章は、著書 Bitch Doctrine (2017) の序文「ビッチ・ロジック」に登場する。前後を訳すと次のようになる:「ここ10年ほど、私のエネルギーはあのバックラッシュとの闘いに費やされてしまった。世界中で、偏狭主義(パロキアリスム)、人種差別(レイシズム)、年代物の性差別(セクシズム)が、私たちが陥っている不安や恐れへの回答として提示されてきた。どこにあるのかわからないような確固たる幻想、架空の過去をかえりみるべきだと言うのだ。だが、私は未来を見ていたい。もちろん、フェミニズムはつねにSFの演習問題であったのだ」。「ビッチ・ドクトリン」は、ホルツィンガー自身を表しているのかもしれない。

 カーテンコールの彼女たちの皮膚は血まみれになっていた。第2幕の終盤はとりわけ激しくスプラッター化していたからだ。もちろん血糊だろうが、本当に血が出そうなくらい激しく体をあちこちにぶつけたりしていた。ワイヤーで吊られて壁にぶつかるくらいのことは平気でやってのける。叩き合いや殴り合いもする。魔女たちの集まりは、暴力の暴発にいたった。その暴力性を、ゼロになった裸がすべて受け止めていた。虐待の跡も、闘いの印も、裸の表面に刻んだ彼女たちの姿は感動的だった。

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 日本語で「魔女」と訳される単語は、英語では witch、フランス語では sorcière、ドイツ語では Hexe というように、それぞれ由来の異なる単語だ。このうちHexe は、中世高地ドイツ語の Hagazussa に由来するという。このハガツッサは、それ自体、古くは「魔女」の類いを指していたが、垣根の上に住む者という意味らしい。文化人類学者のハンス・ペーター・デュルによると、Hexe とは元々は「垣根、生垣、庭の裏手を囲んで、村を荒野から分かちへだてている垣根に棲む者であった」が、時代につれて、「たんに文化圏から追放され」「夜陰に乗じて歪められた形で舞い戻ってくるもの」を表すようになったという28)ハンス・ペーター・デュル『夢の時』(法政大学出版局)89-90頁。。垣根の上に飛び乗り、その向こうに広がる荒れ野へと追いやられる魔女たちは、飛ぶ術を身につけなければならなかったのだろう。

 1本歯の魔女は、舞台の正面にずっと屹立していた大きな壁の上に、Hexe の元々の意味のように座っていた。再び始められたバレエのレッスンを見下ろしていた。最後のシーンだ。ダンサーたちは血みどろになりながらも、『白鳥の湖』の最後のシーンを踊り、そうして再び老バレエ教師の下でレッスンを始めた。「どうやったら体を支配できるか教えましょう」と老バレエ教師。最初のシーンが再び始まる。今までの出来事は夢だったのか。それとも老バレエ教師の妄想のなかの出来事だったのか。でも、ダンサーたちが全裸で血まみれなのが、夢ではなかったことのあかしであり、1本歯の魔女がそれをしっかりと塀の上から見ていてくれた。

フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022) , 撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

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1. ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』(竹村和子 他訳、以文社、2021)、40頁。ただし、引用したこの言葉は、前著の『ジェンダー・トラブル』をまとめるような意味で語られたものであり、この著作自体は、さらにその先を、つまりポストモダン哲学では捉えられていないと言われる物質というものを考察しようとしている。
2. Florentina Holzinger は、ウィーン生まれの振付家・ダンサー。SNDO-Choreography で振付を学び、現在はアムステルダムとウィーンを拠点に活動している。SNDOは、School for New Dance Development (オランダ語では The School voor Nieuwe Dansontwikkeling)。アムステルダム芸術大学の演劇・舞踊学部が提供する4年生コースの1つ。ウィーンで毎年行われるダンスのフェスティバル ImPulsTanz で見出され、今にいたる。
3. パンフレットには、「舞台は、『春の祭典』を世界ではじめて裸で踊った(1972年、J.ノイマイヤー振付)ベアトリス・シェーンヘルのバレエ教室」と書いてある。1943年ハンブルク生まれのシェーンヘルは、ノイマイヤーの元でいくつものバレエに出演している。そして、20197月の『TANZ』の初演時には、77歳になったシェーンヘル自身がこのバレエ教師役で出演している。京都公演では、Katie Duck という、アメリカ生まれ(1951)でアムステルダム在住の、やはり経験豊富なダンサーがバレエ教師として出演している。
4. これはヘア・ハングあるいはヘア・サスペンションと呼ばれる芸として知られるもの。行っているのは Veronica Thompson。彼女はその道の専門家としてキャリアが長い。シルク・ド・ソレイユの『Volata』等でも、同じ芸が一つの演目として登場するが、シルクの場合は、もっと大きく振り子のように動き、空中でダンスを披露するので、最初から見世物と思って安心して見ていられるだろう。Thompson は、そうしたパブリックともいえるショーではなくて、もっとアンダーグラウンドな場所で行っている。
5. ホルツィンガーたちは、オーストリアのアルプス山麓で行っている植林へのカンパも求めていた。この幕間のイベントはそのために行っているらしい。リンゴの苗木を植えるのが楽園の知恵の樹と関係があるのかはわからないが、エコ・フェミニストとして環境問題と村の再生に取り組んでいるのだ。
6. ダンサーの誰かが狼に扮している。「使い魔 Familiar」とは、魔女が悪事を行うために従えている小動物。主にイングランドの魔女が使っていたと言われる。
7. ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』へのオマージュと捉えることもできるのかもしれないが、いくつもの幕を隔てた向こうの出来事を見ているような映画に比べると、目の前で実際に行われていることをズームアップで見せられ、おぞましさが増す。
8. 安直とはいえ、『ジゼル』第2幕で凛々しくも可憐に登場する純白のチュチュのヴィリたちに似せているのだろう。コール・ド・バレエのヴィリたちは、その実体は亡霊なのだ。
9. ビフォートークで、KYOTO EXPERIMENT の共同ディレクターの塚原悠也が、自由に席を移ってかまいません、というようなことを強調していた。たぶんこのあたりで、見るに堪えられなくなったら出てもいいということなのだろう。京都公演で席を立った人は私は見かけなかったが、ヨーロッパ公演では、このシーンで席を立つ人がいたと書いてあるレビューがいくつかある。
10. 彼女は Lucifire という名でこの芸を披露してきたプロ。20年ほど前からボディ・サスペンションを始め、10年ほど前に妊娠を機にこの芸は封印したというが、ホルツィンガーのたっての頼みと、この作品に惚れ込んだことから、10年振りに再び演じることにしたという。この作品に一緒に出演しているSuzn Pasyon Lucifire が信頼しているピアスのプロ。
11. 彼女は、Annina Machaz。これまでもホルツィンガーの前作『Apollon』等に出演している。
12. 1作目の『Recovery(2017)と2作目の『Apollon(2017)は、それぞれ、バランシンの『Agon』と『Apollon』に基づいているというので、本作と同様にバレエと大いに関わりがあるのだろう。残念ながら未見なので、ここでは前2作については触れない。3部作を通して見ることで見えてくるものもあるだろうし、『TANZ』の見え方も変わると思うが、それはまた次の機会に考えたい。
13. 老バレエ教師の姿を、バレエにいまだに残るヒエラルキーやパワハラ批判とみなすこともできるかもしれないが、少なくとも私には、バレエへの愛は感じられた。無批判的なバレエファンとして優雅な美しさに耽溺するばかりの愛ではなくて、バレエのくだらなさやいやらしさをすべて認めたうえで、それでもそこに現れてしまっている美しさを愛さざるをえない愛だと思う。
14. これをパロディとみることもできるかもしれないが、ロマンチック・バレエの枠組みの中でどこまで暴れることが可能かという試みともいえるし、ホルツィンガーたちのあまりにも奔放な逸脱をかろうじてロマンチック・バレエの枠組みが支えて作品の形を保っているともいえるだろう。枠組みがなければ単なる乱痴気騒ぎと見られる危険もある。ロマンチック・バレエという枠組みを設定しているからこそ、彼女たちの逸脱がかろうじてつなぎ止められていると共に、その逸脱の過激さがクリアになるのだろう。
15. Marion Kant, “The soul of the shoe”, in The Cambridge Companion to Ballet (2007), pp.184~197, とりわけ、pp.190~。日本にバレエが本格的に移入される以前、大正時代にポワントで名を馳せたダンサーに高木徳子がいる。彼女は、浅草オペラ等の見世物的な公演を主にしていたのであるが、日本におけるポワントの最初期の移入も、バレエの歴史からすると正統なものと言えるだろう。
16. 1970年代にオーストラリアのアーティスト、ステラークが様々な姿態でのボディ・サスペンションを行って多くの人の度肝を抜いた。だが、なぜかわからないが、彼のサスペンションに軽さは感じられず、重さばかりを感じる。
17. たとえば1970年前後に、その名も WITCH Women’s International Terrorist Conspiracy from Hell)という名のフェミニストグループが存在した。
18. 『女性の擁護者』(1440)より。田中雅志『魔女の誕生と衰退 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』(三交社、2008年)、87頁。
19. 田中、同書、106-107頁。
20. ピエール・ド・ランクル『堕天使および悪魔の無節操な図』(1613)より。黒川正剛『魔女狩り 西欧の三つの近代化』(講談社、2014173頁。ド・ランクルは100人あまりの女性を魔女として火刑にしたという。
21. もちろん、この『魔女への鉄槌』の行きすぎた陰謀論に批判的な神学者も多かった。
22. 家畜を殺したり、悪天候を起こして不作にしたり、男性を不能にしたり、時にはペニスを取ったりしたと言われていた。もちろんそれらの「悪事」は、理不尽に女性の仕業とされたわけだ。
23. モナ・ショレ『魔女 女性たちの不屈の力』(国書刊行会、2022)、18頁。モナ・ショレは魔女狩りの時代から綿々と今にまで続く、女性に対する偏見と抑圧をあからさまにし、ひっくり返そうとしている。
24. 魔女とバレエとスプラッターというと、当然ながらダリオ・アルジェントの傑作映画『サスペリア』(1977年)を思い出す。フライブルクの名門バレエ学院が実は魔女が創設者だったという話だが、映画では魔女やバレエにはそれほど深入りはせずに、スプラッター的な美の連続がメインだった。この映画のリメイクであるルカ・グァダニーノ監督の『サスペリア』(2018)では、ダミアン・ジャレが振付で参加していて、どう見てもピナ・バウシュであるダンス教師が登場するし、魔女のダンスも出てくる。ホルツィンガーたちがこれらの映画を参照にしたとしたら、スプラッター的な場面をどう見せるかという点だろうか。
25. 「魔女の身体は、常に何らかのしるしを持つということによっても特徴づけられます。すなわち、魔女の身体には、染み、感覚不可能な部分などといった、悪魔の署名のようなものがあるということです」。ミシェル・フーコー『異常者たち』(筑摩書房、2002年)、232頁。
26. ベル・フックス『ベル・フックスの「フェミニズム理論」』(あけび書房、2017)、61頁等。
27. ホルツィンガーがフェミニストであるという間接的証拠はいくつか挙げられる。出演者のひとりの Veronica Thompson (ヘア・ハングの演者)が最近のインタビューで明かしていることだが、ホルツィンガーたちは、次のような条件でメンバーを探していたという:「舞台で裸になることを厭わず、自分の体に挑戦し、フェミニストという条件の下で、皆で一緒にライブアートショーを作れる人」(www.run-riot.com/articles/blogs/feminist-fuck-high-octane-world-tanz#permalink)。また、初演当時の作品紹介には、“Feminism, of course, has always been an exercise in science fiction.“ という Laurie Penny のキャプションが付いていた。Laurie Penny は、ガーディアン誌等で論考を発表している作家で、この文章は、著書 Bitch Doctrine (2017) の序文「ビッチ・ロジック」に登場する。前後を訳すと次のようになる:「ここ10年ほど、私のエネルギーはあのバックラッシュとの闘いに費やされてしまった。世界中で、偏狭主義(パロキアリスム)、人種差別(レイシズム)、年代物の性差別(セクシズム)が、私たちが陥っている不安や恐れへの回答として提示されてきた。どこにあるのかわからないような確固たる幻想、架空の過去をかえりみるべきだと言うのだ。だが、私は未来を見ていたい。もちろん、フェミニズムはつねにSFの演習問題であったのだ」。「ビッチ・ドクトリン」は、ホルツィンガー自身を表しているのかもしれない。
28. ハンス・ペーター・デュル『夢の時』(法政大学出版局)89-90頁。