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■あるがままの自分を受け入れる

――『旅とあいつとお姫さま』に続き、昨年まで上演されていた『ピノッキオ』(美術=ルカ・ルッツァ/2016年~2021年、計110公演、観客のべ18668人/平成30年度児童福祉文化賞推薦作品)のラストシーンは衝撃的でした。人間になったピノッキオが、帽子を取り、束ねていた髪をほどき、なびかせて、自由に踊り始める。その瞬間に、あらゆることから解放された「女の子」が出現したような印象を受けました。ピノッキオ演じる辻田暁さんのダンスは、最終的には、女の子/男の子というジェンダー、さらには、人間/人形/獣といった種族・人種など、あらゆる枠組みを超えていきますが、その根底に女の子に対する力強いメッセージを感じた気がします。日本ではいまだ、ジェンダーに関して旧来的な価値観が根強く残っています。女の子、女性に対するテレーサさんのまなざしについておうかがいしたいと思います。

【テレーサ】前世紀から今日という歴史を考えると、今の世界はテクノロジーをはじめとして、さまざまな面で非常に発展したと感じます。この話はイタリアのことになりますが、恐るべきことに、イタリアでは少なくとも毎日5人の女性が男性によって殺されています。犠牲者の中には若い女性も、年配の女性もいて、殺害するのは、夫、愛人、彼氏であったりする。それが起こる原因は、男性が女性に対して恐れを抱いているからではないかと私は思います。女性が持っている創造性に対する恐怖です。

 例えば、女性は子どもを産む能力を持っている、そういう能力に対する恐怖。あるいは、美しさ、自立性に対する恐怖。男性中心の前近代的社会では、それらは男性のコントロール下にありました。でも現代ではコントロールできなくなり、その結果、女性殺害(フェミサイド)が起こっていると考えています。これは現代における一つの問題であると思います。

 その中で、私たち女性のアーティストというのは、仕事を通して、そういった状況に対して自覚を持てるように、若い世代に促していくという責任があると思います。また自分自身に自信を持つということ。男性に頼るという状況を作らないようにするという責任があると思っています。私にとっては、男性/女性というのは重要ではありません。私たちは、皆、「人間」です。人間という一つの概念の中にさまざまな多様性がある。ジェンダーにしても、肌の色にしても、さまざまであって、あるがままにすべての人がリスペクトされなくてはならないと考えています。

『ピノッキオ』 Photo by 梁丞佑

 『ピノッキオ』のラストシーンは、解放され、自由になる場面です。私たちは皆それぞれ違う。それを受け入れることへの賛歌です。美しいとか醜いとか関係なく、あるがままの自分を受け入れる。皆、等しく人間である、ということです。

 ラストシーンに込められた少女たちに対するメッセージは、まず、あなたがた自身が、自分自身をあるがままに受け止めなさいということです。長い髪をほどいて演じる、ここは意図して非常に強烈な場面に創っています。辻田さんは非常に素晴らしい俳優さんで、自由になるという解放の踊りを私たちにプレゼントしてくれたんです。

 幸いなことに、『ピノッキオ』も数多く上演することができました。その中で子どもたちに「感動した場面は?」と尋ねると、男の子も含めて、やはり人間になる変身の場面にすごく感動したという言葉をもらいました。その中にははっきりと「感動した!」と言ってくれた男の子もいて、それはこういう作品を上演した後に受けられる最高の報いだと思います。

 大人にしか使いこなせない言葉があるとして、しかし「感動した」という言葉を、男の子が言ってくれたことは、先ほど私が言った、感情も、知性も、子どもの中にはすべてがある、さまざまなものがその中にしっかりとある、ということの証明ではないでしょうか。ですから作品を創るときには、子どもの中にそういうものがあるということを常に念頭においています。

――実際に『ピノッキオ』を観ていると、自分の存在をそのままに受け入れてくれるような感覚を抱きました。まさに観ている観客それぞれの存在を受け止めてくれる作品だと思います。

――テレーサさんの作品では、一人の俳優が何役も演じますが、そのキャラクターづくりにも、さまざまな社会の偏見を乗り越える多様性があるように思います。特に『ピノッキオ』では、髙田さん演じるジェペットが、ダンスの前の場面で、まもなく人間になるピノッキオに「あらゆるものには価値がある」と、わざわざ木の多様な性質について語る場面が印象的でした。そこには、人間にとどまらない、神羅万象に対する慈しみを感じました。

【髙田】大工ですからね、ジェペットは。『ピノッキオ』では、まずジェペットじいさんがピノッキオを作るわけですよね。その時に、人形に対して「おお、息子よ」と話しかけて、ピノッキオという名前をつける。だからジェペットじいさんは、ずっと息子だと思ってるんですね。それでその木の話をして、よぼよぼと帰って行って、舞台の袖で見ていると――「あ、女の子だったんだ……」。そういう感じはありましたね。

 うちの劇団でもオーディションや、人の募集をしますが、最近では、応募者は、女性9割、男性1割です。だからキャスティングの際にも、男の役を女性にやってもらったり、これは「男の役」「女の役」というふうには考えなくなりました。男性の役を女性がやった方が、女性の役を男性がやった方が面白い場合もある。だからあまり関係ないんじゃないかとは思ってます。自分自身はこの年になって、女性を演じるのも面白いと思ったりしていますから。

――いまお話をうかがって、ジェペットじいさんはピノッキオが人形であろうが人間であろうが、そもそもそういう偏見がなかったということに気づかされました。

 

■社会における演劇の役割とは?

――次に、社会における演劇の役割についてうかがいたいと思います。演劇は、日本ではいまだに敷居が高く、そこに広がる経済格差も加わり、ますます一部の人しか観られないものになりつつあります。しかし、困難な状況にある、子どもにとっても大人にとっても、演劇との出会いが何か恵みや救いになることもあるのではないでしょうか。テレーサさんご自身の経験を踏まえ、演劇の社会的役割や意義についてお話いただけますでしょうか。

【テレーサ】私は今こそ、以前にも増して、演劇が社会において果たす役割は大きくなっていると考えています。先ほど、子どもや若い人たちの演劇についてお話ししましたが、現代では大人も非常に孤独になってきていると感じています。私たちの町というものは、もう共同体ではなくなってきている。いつも一緒にいるようでいて、みんな好き勝手に生きている。一緒にいるという何か幻想の中で生きているような気がします。

 例えば、地下鉄や広場で、周りに多くの人がいても、それぞれ違う世界の中で、違う目的を持って、バラバラに行動していると思うんです。SNSなどでは「友達」という言葉を使いますが、そういう存在が友達になっている。ではこの「友達」とは? お互いに目を見つめたこともない友達とは何でしょうか? 「友達」登録している人の写真は見るかもしれない。けれど写真というのは自分をよく見せたくて投稿しているものです。『小さな王子さま』の中で、キツネは「友達になるには非常に長い時間が必要なんだよ」と言っています。つまり自分の時間を使って、相手と一緒に過ごすということが必要なんです。相手のことを心配したりする関係が必要になってくる。昔はそういうものがありました。

『小さな王子さま』 Photo by 梁丞佑

 私は南イタリアで生まれ育ちました――60年以上前のことですが。私の記憶の中では、母がドーナツのような揚げ菓子を作ったりしてくれて、向いに住んでいる女性にお裾分けしていました。母は90歳になろうとしていますが、今でもそういう風にしています。それは「配慮」ということです。「困っていることはない?」「何か必要なものはない?」という会話がそこに生まれます。困っている人がいないか、必要なものが足りない人がいないかをそこで確認するというコミュニケーションやコンタクトがあるのです。

 一緒に何かをするということもありました。例えば、毎年クリスマスのために行われるお菓子づくり。その活動の価値は、お菓子そのものにあるわけではなくて、一緒に作るというところにあります。今ではそういった、何かを一緒に行うということがまったくなくなってしまいました。

 今の話が演劇と何の関係があるかというと、演劇というのは、ほとんど、いま生き残っている唯一の儀式、つまり一緒にいないと成立しないという一つの儀式なんです。一人の俳優が、ナマで、その場に座っている誰かに向かって演技をする。その場に来た観客というのは、一つの事を、一つの芝居を観るためにそこに集まり、一緒に経験をする、一つの共同体といえるのではないでしょうか。さらに言えば、演劇というのは観客がいてこそ成り立つ芸術形式なのです。いま私たちは稽古をし、いろいろな準備をし、作品を一つ完成させますが、でも本当にその芝居が何であるのかということは、わかりません。

 観客が入って初めて、そこで別のものになる。つまり、生きたものになる。観客は、エネルギーを介してくれ、私も観客にエネルギーを与え、一つの循環が生まれ、それによって完成する。そこに唯一の瞬間が生まれます。演劇というのはそのような共同体をつくり出す機能があると思います。それなりの数の観客が、家から出発したり、いろいろな所から、わざわざ一つの場所に来て、一つの経験をするという機能がある。自分の知性や創造性、感情、あるいは理性をすべて使うような経験を一緒にする。そうした唯一の経験ができる、その機能が演劇にはあるので、演劇は絶えることはないと私は思っています。

 今はさまざまなプラットフォームがあり、家で映画が観られたり、ビデオゲームをしたり、いろいろな楽しみがあるので、新しい若い世代に劇場に来てもらうというのはすごく難しいことです。けれど、いま私たちが座・高円寺でやっているような演劇作品は、将来の観客を育てることにつながっているのではないかと思っています。

――「劇場へ行こう!」シリーズは、中学生以下は無料となっています。このような座・高円寺の公共劇場としての取り組みと、テレーサさんの演劇との出会いは、日本の観客にとって有難いものです。ぜひ今後も続けていただけたらと願っています。

『小さな王子さま』 Photo by 梁丞佑

――髙田さんは、寺山修司さん主宰の「演劇実験室◉天井桟敷」に始まり、長年演劇活動を続けていらっしゃいます。その間に日本の演劇状況も様変わりしていますが、その中でこの社会において演劇とはどのようなものであると感じられているでしょうか?

【髙田】あまり考えたことがなかったんですけど、この2~3年のコロナはかなりこたえました。演劇が「不要不急」の一番の親玉がみたいになってしまい、声は出すな、人は集まるな。これで演劇をやっていていいんだろうか? とまず思いましたね。

 かなり厳しい状況で、でもやっと出来るようになったと思ったら、観客席は半分にしてくれ、とかね。満員にしたところで赤字覚悟でやっているのに、客半分で成り立つのか、って。そういう状況もあり、本当に演劇をやっていていいのだろうか、と思いまして、パリに住む、先日亡くなったピーター・ブルックと長く一緒にやっていた大先輩の俳優・ヨシ笈田さんに「こんな状況なのにやっていていいの?」と聞いたら、「一人でも演劇を必要とする人間いたらやるべきだ」と言ったんです。じゃあ、やっていてもいいか、と思いました。

 社会的意義というと、今はまだコロナで演劇の表現というのは自由にできません。寺山さんもテレーサと同じように、「俺たちは50%だけ作品を創る。あとの50%は観客が創る。それで100%になる」と言っていました。僕もそう思っていまして、俳優が客席に行けない、客に対して働きかけも出来ない、というまるで片翼をもがれたような感じがします。

 僕らはよく「市街劇」といって、外で演劇をやったりするんです。2017年には、寺山修司記念館のある青森県・三沢市の全域を使い市街劇を行いました。市役所も警察も協力してくれて、同時多発的に60か所以上で芝居を起こすということを地元の人と一緒にやりました。けれど、今、もうそういうこともまったく出来なくなっている。それでも、面白いと言って来てくれる人がいる限りは、何らかの影響を与えているんだろうと信じてやっています。

 教育をしようとか、そんなことは考えたこともないですし、観に来てくれる人が面白いと言えばいいんじゃないかな。あと、やっている人が面白ければ。そういう芸術もあっていい。これほどのアナログをやっている芸術もないですからね。デジタル・テクノロジーを使わないで、人間の力だけでやっている芸術というのは、やはり観る価値があるのではないかと思っています。

――最近ではデジタル情報だけを情報と思い込んでしまう傾向がありますが、生の身体が発信する情報以上の情報はないと思います。舞台の50%は観客が創っているということを、観に来る私たちも胆に銘じて置きたいところです。