Print Friendly, PDF & Email
座・高円寺 あしたの劇場「劇場へいこう!」2021『ピノッキオ』 
原作=カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』
作・演出:テレーサ・ルドヴィコ、台本監修=佐藤信、翻訳=石川若枝
2021年9月21日(火)~10月7日(木)/座・高円寺 1
撮影=梁丞佑

■ほんとうのピノッキオ?

 『ピノッキオ』は教訓話だろうか? ジェペットじいさんが言葉を話す丸太から作った人形ピノッキオは、勉強も働くのも嫌い。おじいさんの言うことを聞かずに、教科書を売ったお金で人形芝居を見に行き、そこで燃やされそうになったり、手に入れた金貨を増やせると騙され、盗まれてしまったり、仙女に命を助けられたのに、苦い薬を飲むのを嫌がりお砂糖ばかり欲しがったり、挙句の果てには、学校をさぼりおもちゃの国へ行き、そこでロバに変えられサーカスのロバとして働く始末だ。しかし反省したピノッキオは、最後には人間になる――つまり、親や大人の言うことを聞かないとひどい目に遭うし、約束は守るべきだし、そうすれば立派な人間になれるということ?
 2021年11月公開の映画『ほんとうのピノッキオ(原題:Pinocchio)』(監督=マッテオ・ガローネ、2019年製作、イタリア)は、カルロ・コッローディの原作(『ピノッキオの冒険』)を忠実に実写化しイタリア本国で話題となった映画だ。この邦題の〈ほんとう〉は、一昔前に流行した「本当は怖いグリム童話」の「本当」と同じだろう。つまり絵本などで慣れ親しんでいる童話は、その原作を読むと実は残酷であるという意味。たしかに『ピノッキオ』の原作を読むとグロテスクな一面も否めない。だとしたら〈ほんとう〉の『ピノッキオ』は教訓話ではなく、この映画のキャッチ・コピーにいう「ダーク・ファンタジー」なのだろうか?

■人と物との相互作用

 今回、座・高円寺で上演された、若い世代に向けた「あしたの劇場」シリーズのレパートリー作品『ピノッキオ』(原作=カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』、脚本・演出=テレーサ・ルドヴィコ、台本監修=佐藤信、翻訳=石川若枝、2021年9~10月)は、今年でファイナル公演となる。ピノッキオを演じるのは辻田暁――女性が「少年」を演じるのは「児童演劇」の伝統だと思うなかれ。この配役はこの作品にとって重要な意味をもつ。が、まずはそれはさておき、ピノッキオの登場を見ていこう。
 この作品では、まずはぶらぶらと揺れる実際のあやつり人形が登場。次にこの人形に洋服を着せ、帽子を被せると、辻田演じるピノッキオに早変わりする。ただし、嘘をつくと伸びるピノッキオの特徴である鼻をつける以外、特に人形らしさを強調するメイクもなく、半ズボンから出ている足はまぎれもなく人間のたくましい足そのもの。にもかかわらず、辻田のその動きによって見事に人形となるのだ。足を外側へと跳ね上げる歩き方や身のこなし、ちょっとした首のかしげ方から、そのからだが筋肉ではなく、あやつり人形のジョイントによって動いていると想像させる。つまり辻田は表面的な部分ではなく、骨格レベルで人形を表現するのである。
 この辻田演じるピノッキオの軽やかさは、原作の童話や絵本、おそらく映像でも表現しえないものだろう。なぜならこの軽やかさは辻田ひとりによって生み出されるものではないからだ。この作品では、ピノッキオ以外の多くの役柄を6人の俳優(髙田恵篤、森ようこ、高橋優太、田中真之、黒須育海、曽田明宏)で演じ分ける。大人、子ども、動物、虫、仙女、人形……多様な役柄にかかわらず、俳優たちは巧みに役を替えていき、その転換に余計な間が生じることも、慌ただしくなることもない。むしろこの役柄の転換そのものが作品全体に一定のリズムを作り出している。
 舞台美術(ルカ・ルッツァ)には半透明の布・チュールが使われ、シーンごとにその場を象徴するモチーフが描かれたチュールが、カーテンを引くように左右から出てくる。そしてこのチュールを動かすのも俳優たちだ。ここでも俳優たちは演技の動きの流れを乱すことなくチュールを転換していく。この空間の「人(俳優)」と「物(美術)」の結びつきの相互作用によって生まれるリズムが、ピノッキオの軽やかさを裏支えしているのである。 この軽やかさが重要なのは、これにより『ピノッキオ』から教訓めいた匂いが消えるからだ。ピノッキオを含む俳優たちのアンサンブルにより、観客はピノッキオの行動の意味と(失敗という)結果ではなく、ピノッキオの行動そのものに目を奪われる。そこに見えてくるのは、約束を守らない悪い子ピノッキオではなく、未知のものへの好奇心に満ち、可能性に開いている子どもとしてのピノッキオだ。

撮影=梁丞佑