Print Friendly, PDF & Email

■想像力の余白

 さて、この半透明チュールはもう一つ大きな効果をもたらしている。チュールは舞台の中間あたりに吊られ、演技はその前と後ろのどちらでも行われる。たとえばピノッキオが暖炉で足を燃やしてしまう場面では、足に火が点くところはチュールの後ろで演じられるため、観客は自然と舞台の奥をのぞきこむ。客席のすぐ前面ではなく、舞台の後ろ半分、しかもチュールの裏で演じられるのだから。そもそも全体を通して照明(齋藤茂男)のトーンも明るくない。だからなおさら、チュールの向こうが気になる――〈何をしているんだろう? どうなっているんだろう?〉という気持ちがチュールの向こう側、さらに言えば世界の向こう側を想像させる仕掛けとなるのだ。この客席とチュール間にできた余白的空間こそが、想像力をかきたてる源となる。
 観客に想像力をうながす仕掛けはこれだけではない。俳優たちは、キツネ、ネコ、オウム、ウサギなどの動物を演じるときに、その動物をかたどった仮面をつける(衣装=ラウラ・コロンボ、ルカ・ルッツァ)。衣装はカラフルだが、この仮面は白っぽい無地で、頭からすっぽりかぶるタイプのもの(白っぽくみえるのは照明のせいかもしれない)。毛もなければ、目鼻も描かれておらず、思わず着色前の素焼きの壺を連想してしまう。偏見をもつことを「色眼鏡をかける」というが、この仮面はまさにその「色」がつく前の状態だ。そう、この仮面もまたひとつの余白といえよう。これにより観客はキャラクターの性格をステレオタイプに理解するのではなく、想像する――想像力をはぐくむのは、偏見のないまなざしではないだろうか?

撮影=梁丞佑

■いのちのサイクル

 ジェペットが丸太だったピノッキオに人形のからだを与えたとしたら、人間としてのからだをくれるのが青い髪の仙女だ。キツネとネコに騙されて死にかけたピノッキオを助けてくれた仙女は、この物語のなかで二度死ぬ。一度目は物語の中盤。舞台上には仙女のお墓が出てきて、召使いのカタツムリがピノッキオに仙女の死を告げる。すると、客席の子どもが大声で泣き出した。薄暗い空間、不気味なカタツムリ、嘆くピノッキオ……、そのダークな雰囲気に驚いたのだろうか? おそらくそれだけではない。
 ピノッキオは人形だが不死身とはいえない。病気にもなるし、薪としてくべられそうにもなる。しかしジェペットに足を作り直してもらったり、魚がロバの皮を食べてくれたおかげで人形に戻れたり、肉体ではなく木のからだであるがゆえの再生性がある。だとしたら人間になるということは、この再生性を失うこと。人間の肉体は傷つくことを避けられず、死からも逃れられない。大人は死への恐怖を鈍化できる生き物だが、子どもは違う。だから子どもがこの墓の場面を怖がるのは、この作品に通底する生と死という〈いのち〉をめぐる問いかけを直感的に感じ取るからだろう。「ダーク・ファンタジー」ではなく、生と死という人間の本質(リアル)に触れるのだ。 その後、一度は再会した仙女の二度目の死は物語の終盤。仙女自身がピノッキオにお別れを告げにくる。別れを悲しむピノッキオに仙女は、自分は桜の木になるのだと告げ、最後にはピノッキオを人間にしてくれる。あやつり人形が数々の冒険をへて人間の少年になる――原作ではこれがゴールだ。しかしこの『ピノッキオ』はこれでは終わらない。
 この仙女の別れの場面は原作とは異なり、座・高円寺版『ピノッキオ』はここに木をめぐる語りを挿入する。ジェペットが赤ん坊のように丸太を抱き、ピノッキオに木のぬくもりと大切さを語る。そもそもピノッキオは丸太から生まれ、ピノッキオを人間に変えた仙女は木へと転身する。ここでの〈いのち〉をめぐる対話は人形が人間になるという人間中心主義とはかけ離れ、個人の再生ではない大きな自然のなかでの〈いのち〉のサイクルを伝えていく。

撮影=梁丞佑

■ピノッキオの〈ほんとう〉の冒険

 ラストシーンではまさにこの〈いのち〉が解き放たれる。人間になったピノッキオは、鼻を取り、服と帽子を脱ぎ、白いTシャツと短パンだけの姿で、これまでの軽やかな動きとは一転して、帽子で隠れていた束ね髪をほどき、腰まで届く長い髪を波打たせながら激しく荒々しく踊る。先ほどまでの目をくりくりとさせた表情とは別人のまっすぐな強いまなざしで動き続ける。これは木のからだが人間の肉体となった喜び? いや、辻田の踊りはそれをはるかに超越したエネルギーの爆発だ。このピノッキオはもはや少年とも少女ともカテゴライズできない。そのうえで、辻田が発する野性味は、人間と動物といった種の境も超えそうだ――ジェンダーも、(人)種も、ここにいるピノッキオは何の色(バイアス)にも染まらない生(き)の〈いのち〉そのものだ。

撮影=梁丞佑

 人は〈ほんとう〉が好きだ。それを〈ほんとう〉だと言ってくれるなら、何の疑問をもつ必要もなく安心していられるから。でもその〈ほんとう〉は、本当に〈ほんとう〉なのだろうか? 無自覚のバイアスがそこに隠れていないだろうか? そもそも〈ほんとう〉があるのかどうかもわからない。だが少なくともこの作品は〈ほんとう〉を押しつけはしない。なぜなら、それがあるかどうかも含めて、〈ほんとう〉は子どもたちが(できれば大人も)これから見つけていくべきものだから。
 舞台で踊った最後にピノッキオは客席にすとんと降りて走りだそうとする、その瞬間に暗転となり舞台は終わる。この座・高円寺版『ピノッキオ』は人形が良い子となったおかげで人間になったという大団円のお話ではない。これからいよいよ冒険へと走り出していくはじまりの物語だ。これから、誰のおしつけでもない、色のついていない、自分にとっての〈ほんとう〉を見つける旅へと走り出すための。