『東京ブギウギと鈴木大拙』(名取事務所、下北沢小劇場B1)第8回座談会演劇時評1(2021年3・4月上演分)
■「ブギを踊れば 世界は一つ」か?
野田 「ブギを踊れば世界は一つ」というアランの歌詞が大拙は気に入らないわけです。アランはそもそも大拙の禅に興味があり、理解もしているつもりだった。だからこそ日米学生会議に早稲田の学生として出かけていった時に読んだペーパーの内容が大拙の著作と内容的に同じだと言って、父の剽窃さえ疑ったほどです。日英バイリンガルだったアランは、戦時中ジャパンタイムズを経て同盟通信社の記者として上海の自由な雰囲気に染まる。様々な言語が当たり前のように飛び交うこの国際都市で、彼は日本で感じていたハーフの子どもとしての疎外感を完全に払拭する。その思いが、「東京ブギウギ」における「ブギを踊れば世界は一つ」という歌詞に込められているわけです。
一方、大拙は、「他者」東洋人としてアメリカに行って、そこで英語で禅をベアトリスと組んで紹介していきます。彼のこの試みは、他者として自らを規定せざるを得ない世界において、その他者性を何らかの形で克服しようとする彼自身のアメリカにおける境遇と重なっていたはずです。主客一体を目指す経緯が二人の間で異なっている。劇中ではこの両者の差異が交錯していきます。
アランは素行が悪く、ヒット曲を飛ばしていい気になって、その後身を滅ぼしたボンボンという風に捉えられがちですが、もちろん大拙とアランのどちらの方が正しいとかは誰にも言えない。むしろ物語の要諦は、あくまで同じことを目指している筈の「他者」二人が、自らの場所を互いの交錯のなかで探求していくということにある。
これは、観客がどちらかに過度に思い入れしてしまうことを避けようとするドラマツルギーにも現れています。そのため、どちらにも近く、またどちらからも適度の距離がある民乃を語り手にし、利助を観察者の位置に配しているのも、そういう理由でしょう。言い換えれば、大拙とアランの間の感情的対立は、その対立が内包するアイロニーも含めて、民乃と利助の演技に預けられている。その上、大拙の妻ベアトリスは登場せず、観客は彼女の人物像の大部分を女中おこの(新井純)から形成せざるを得ない仕組みにもなっている。このように脚本に仕掛けられた隙間のようなものを、扇田拓也が抑制の利いた演出で上手く生かしている気がしました。観客は、観劇後もアイロニカルな疑問符を抱え続けなければいけなくなるんですね。
今井 家庭劇的なキャラクターの作り方に特徴があることがわかってきました。鈴木大拙の妻ベアトリスは、舞台には実際に登場しませんが、ネコが大好きという設定です。また彼女は動物愛護に力を注いでいます。女中おこのは、このベアトリスの精神を忠実に守っています。
ネコの関連で言えば、ネコが嫌いな骨董屋の利助に女中おこのがネコをあげてしまったり、後半の結婚式の場面で残っていたネコが死んでしまったりと、ネコについての描写も数多く出てきます。このあたりは先ほどのベアトリスのキャラクター造形が活かされている点だと思います。このように鈴木大拙とアランだけではなく、女中おこのや実際に登場しない妻ベアトリスをうまく使って、周辺のドラマを配置していくところも面白かったです。このような面白さと、先ほど言及があった思想的な対立の場面も心に残っていくので、非常にバランスが取れた作品だと思いました。
また、鈴木大拙の思想が骨董品よばわりされることに対してアランが怒る場面が印象的でした。要するに禅だけれども、もっと広い意味では古典的な日本文化を欧米に広めようとしたのが大拙だったと考えると、その日本文化というのはこれから先どこに行くのでしょうか? アランの立場から考える日本文化は、多分グローバリズムと接続していきます。「ブギを踊れば 世界は一つ」という歌詞のように、みんなが一緒になれる世界観の中では、日本文化はどういう位置付けになっていくのか? このような問いかけが、メッセージとして込められていたように思います。私はこのメッセージを課題として、劇場から持ち帰りました。
野田 英文学を研究する多くの日本人にとって、これは他人事ではない話なんですよ。例えば日本のシェイクスピア上演を海外に紹介する。その際、西洋から向けられてくるオリエンタリズムの視線とどう対決するなりつきあうなり、もしくは完全に無視するなりは、おおきな関心事になります。オリエンタリズムに乗っかって得意げに自己神秘化をしてみせるのは格好悪いし、かといって新劇以降のシェイクスピア上演に長い間このオリエンタリズムが様々な形で内在化されていった事実も否定できない。ここが悩みどころなんです。ただし、この領域に踏み込んで海外に対して発言するのは、東洋人の顔をした人でないとおそらくやりにくいでしょう。それ以外の人が同じことをやると、どうしても他人の家に土足で上がり込んでいるような気がしてしまいそうです。つきつめれば、シェイクスピアは世界的に共有されるトピックですが、それの語り方、そして語る際の立場は完全には共有されえないということです。
それではアランの場合はどうでしょう。彼の顔には、明らかに西洋人と東洋人の両方の特徴がみられます。ただし、そのような出自だからといって、両方のことがよく分かるわけではないし、またそのようにまわりから受けとめられるわけでもない。彼が西洋人に対して「あなた方が神秘の対象として見ている私たちの哲学は、実はこういうものです」という時、アランの立場はなんらかの中途半端さを含まざるをえない。だからアメリカに行っても何かおかしいし、日本にいても何かおかしいということになってしまう。彼にとっての悲劇はそこにあったでしょうし、彼が上海で感じた開放感もやはりそこにあったのでしょう。
戦後、アメリカ文化へと日本の大衆音楽が傾倒していったときに、「ブギを踊れば世界は一つ」という楽天的な合一性が受け入れられたというのは、アランにとってみれば夢のような話です。けれども、大拙にとってみれば、「おまえは分かっとらん」ということになるのもわかる。そういう点で今回の物語は、私の分野とも関連していて、個人的にとても密接に受けとめられました。
嶋田 鈴木大拙とベアトリスの養子であったアランの出自は、実際はよくわかっていないようですね。この不安定なアランの存在を、観客が、また〈日本人〉がどのように想像するのか、という問題は実に難しいことです。この問題を投げかけられた観客のひとりとして、今後もこの作品について考えていきたいと思います。
本日は、ありがとうございました。
※敬称略
(2021年5月9日@Zoomにて収録)