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■「主客一体」をめぐって

野田 山田奨冶の著書は、ノンフィクションなりの推測と取捨選択を含んでいます。たとえばアランをめぐる部分ひとつとっても、ノンフィクション作家は、丁寧に裏をとりながらも、どこかで自分の中の信念に従って決め打ちをしなければいけなくなる。読者からの批判を甘受する覚悟の上での決断が必要なんですね。これはノンフィクションを舞台用に脚色する際にも言えます。たとえば劇中で触れられるエピソードの後でもアランのだらしない女性関係は続く筈なのに、それを省いたのはなぜかといった読者や観客からの批判を覚悟するわけです。
 堤春恵の脚色は、フォーカスをはっきりさせることにより、原作者や脚色者の覚悟の上での取捨選択を正当化し得ていたと思います。そのフォーカスとは、「主客未分にして主客一体」という同じ境地を目指していた父子がどういう経緯ですれ違ってしまったのかということです。このようにポイントを絞ることで、観客は、事実の認定と取捨選択の是非に拘泥せずに、父子対立の形成過程を追うことができるようになる。そして、この対立の現代においても、二人の関係は読み替え可能なのだろうかと思いを巡らすことができるようになる。そういう余地を尊重して観客に託すのは、演出の仕事でもあります。扇田拓也の演出は、そこがよくできていました。
 俳優陣も同様です。語り部役の鈴木民乃を演じた森尾舞はクールなタイプの演技をする俳優という印象なのですが、本作でも、熱い部分も見せながら、抑制が利いた演技をみせてくれました。たとえばアランの死後の場面で愁嘆場に流れてしまわない。これにより、観客の目の中で、語り部と、語られるエピソードとの間に適度の距離が生まれた。また、骨董屋の斉藤利助を演じた吉野悠我は、いつも困ったような笑顔を浮かべている世故に長けた人物なのですが、同じアランの死後の場面で、ここぞとばかりに泣いてみせる。感情表現の濃淡の見事な配置です。
 こういう演技は役者の技量が大前提ですが、演出がそれを引き出さないとできない。今回の演出は抑制が利いていたし、そのような演出意図が役者にもよく伝わっていたと思うんです。言い換えればトーンの一貫性がみられる。アランがひたすら怒る場面や、大拙がものすごく悩んでみせる場面がないだけに、強い感情を巧みに配置することで、父子関係が、強い輪郭で描かずとも観客の想像力が働くようにしているんだと思います。

左より 新井純、森尾舞、西山聖了、鷲巣照織、吉野悠我 撮影=坂内太

嶋田 話題になっている作品の構造について、簡単に説明します。この作品は2つのパートに分れています。前半が1938年です。戦前のお話で京都の鈴木大拙邸が舞台になっています。鈴木民乃が大叔父の鈴木大拙について語っていくという、ナレーターの役割を果たしています。後半は、1948年です。戦後、アラン作詞の「東京ブギウギ」が流行する頃です。場所は鎌倉で、アランの結婚式が行われています。ここは骨董屋の斉藤利助がナレーターとなっています。
 この作品は『東京ブギウギと鈴木大拙』というタイトルからもわかるように、息子アランと父鈴木大拙との対立を描いた物語です。これを父息子ではなく、異なる二人を視点人物として設定したことによって、当事者である父息子の対立から距離を取る形で、物語が描かれていきます。この点は見事な構成ですね。
 この父息子の対立のクライマックスは、後半部分で「東京ブギウギ」の歌詞を巡って議論する場面です。問題となった歌詞は2番で、「ブギを踊れば 世界は一つ」という箇所です。「世界は二つに分断されていて、一つになっていない」と主張する大拙と、「世界は二つに分断されているが、音楽で一つになれる」と主張するアランが激しく対立します。先ほども野田さんが指摘したように、この議論は同じことを、見方を変えて主張し合っている場面です。同じことを主張しながらも、すれ違っていく父息子のありようが、議論を通じて非常にリアルに描かれていました。この場面は感心しました。
 確かに作品全体を考えてみれば、おおかたの感想は、「東京ブギウギ」と鈴木大拙が関係していたんだといった驚きになるかと思います。しかしこの作品が重要なのは、そこからさらに一歩踏み込んで、〈主客一体〉のありかたを観客に投げかけてきた点です。山田奨治の著作を読めば、多くの劇作家は鈴木大拙と「東京ブギウギ」の意外な関係を描くことに注意を傾けると思います。観客もこの点において満足をするので、劇作家も創作しやすいはずです。しかしこの作品は、父息子の意外な関係はもとより、その対立を通じて、東洋的な思想と、グローバル的な思想の対立を上手に描きました。単なる歴史トリビア物語になっていない点が素晴らしい。