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 安田の発想をもう一歩進めて、「生きた人間」と「剥製」との二項対立という視点を検証してみよう。定義上、剥製は死体ではあるけれども、普通の死体のように朽ちていかないような科学的操作がされているので、その意味では「半死半生」という中吊りの状態にあるとも考えられる。「退屈」であるのは、ひと思いに死ねないからで、言わば永遠の生を生きざるを得ない煉獄的状態にあるからだ。「剥製」とは「幽霊」と同様に、本質的に矛盾を抱えた存在である。つまり幽霊が彼岸と此岸とのあわいに実在する不在であるとすれば、内部が完全に詰まっているがゆえに内部が空洞である剥製は、死という不在を生きている実在だからだ。安田がチェーホフの原作の登場人物たちに見出した「退屈」とは、そうした矛盾から逃れられない彼女たちの様相をあらわす気分なのである。
 この戯曲の中核を担う3人の女たち、アルカ―ジナとニーナとマーシャは、女優か女優志望か、あるいは現状に全く満足せず夢を追い続けている者たちで、そもそもそのような職業や心性を持つ者たちは「剥製的」であるとも言える。安田がこの作品につけた『過妄女』というタイトルは、「過剰な妄想を持つ女たち」という現在の様相を表すとともに、「過失から逃れられない女たち」という過去の意味合いと、「この状況が過ぎ去ってほしいと望む女たち」という未来の願望を、3つとも同時に示唆しているのではないだろうか?
 「剥製」にはそもそも時間の経過がない――そのように考えると、この舞台の登場人物たちが押しなべて、人間に特有の時間性、すなわち過去・現在・未来への意識を欠如させていることに気がつく。安田はこれまでも多くの作品で、「死者」へのこだわりを表現してきたが、それらは内臓を抱えていたり(『タイタス・アンドロニカス』)、体液を過剰に持っていたり(『女殺油地獄』)、自己の死を夢想することができたり(『テンペスト』)、老年になっても生き続けたり(『うリアしまたろ王』)する存在であった。しかし『過妄女』における「死者」は、これらの先行作品とは異なって、血肉をかつては持っていたが、今はそれを一切奪われた存在、つまり永遠に死ぬことができない屍体なのだ。より正確に言えば、彼ら彼女らは退屈な生を生きている(堪えている)のではなく、退屈な生をただ「やり過ごし」ているのである。

山の手事情社『過妄女』 トレープレフ=谷 洋介、マーシャ=大久保美智子、アルカージナ=倉品淳子、ニーナ=中川佐織、ドールン=浦 弘毅、ソーリン=山本芳郎、メドヴェージェンコ=高島領也 撮影=平松俊之

 さらにこのことは、今回の上演での重要な点として、山の手事情社のトレードマークとも言うべき《四畳半》演技が使われていないという方法論上の選択に繋がる。より正確に言えば、この舞台での《四畳半》は、人物たちの外面にではなく、内面にあるということだ。山の手事情社の他の多くの舞台で使われる《四畳半》演技は、登場人物たちが狭い空間においてユニゾンで動きながら、肉体の動きと台詞の意味内容が切り離されることを特徴とする。そこから、人物たちが抱えている情念や思考や感情が、身体の熱や皮膚感覚や体液を伴って、集団的に察知されるのだ。ところが『過妄女』では、そもそも多くの人物たちが「退屈」を生きている/死んでいる「剥製」であるので、そこには《四畳半》空間における身体的熱量の交換や心理的感傷の授受が行われえない。その代わりに登場人物たちは、それぞれの夢想と悔恨と妄念に囚われている。そこには《四畳半》空間でこそ発現される、憎悪も愛情も交歓もない。アルカージナの剥製による再三の独白が描くのも、そうした自分自身と他の人物たちの閉鎖された頭の中の妄想にすぎない。まさに『過妄女』は、チェーホフの原作が含んでいた人びとの内面の葛藤を、頭脳の中の《四畳半》として描くのだ。他の多くの山の手事情社の上演では、《四畳半》空間での凝縮と密集が、《ルパム》で一気に解放される力学的変化が大きな魅力となっている。しかし『過妄女』では、《四畳半》が外面的には不在であるために、《ルパム》もそのような解放的契機をもたらすことにはならない。劇中、数回《剥製のルパム》が使われるが、それらはいずれも静粛で、観客の身体的・感情的参加を促すことはない。すでに展示される価値を持たない剥製たちにとって、彼女たちの「ボードビル」には観客も必要ないのである。
 『過妄女』の最後は、原作にあるトレープレフの自殺に続いて、次のようなエピローグが付加されている。

シャムラーエフ そらこれが、さっきお話しした剥製ですよ……
トリゴーリン 覚えがない! 覚えがないなあ!
(トレープレフ、ゆっくりと覆いを被る。他の剥製は覆いを震わせる。銃声。)

§エピローグ§

アルカージナの剥製     ようやくお前は剥製になった。
     ようやくお前は私たちの仲間入りをした。
     ようやくお前は私とのすれ違いを終えた。
     ようやくお前は私のもとに戻ってきた。
(アルカージナの剥製、トレープレフの剥製を抱擁しようとするが、うまく行かない。)

チェーホフの『かもめ』には多くの恋愛が描かれているが、そのどれもが不全で成就しない。その原因をともすればこれまで私たちは、登場人物たちの性格のゆえであると考えてきた傾向があるが、『過妄女』の終末的世界観は、その原因を生きた人間のいない世界の実相として同定する。ここにこそ山の手事情社がこの舞台で志向した、「思弁的実在論」と同様の、きわめて現代的で過激な演劇実践がはらまれているのだ。これまで多くのチェーホフ作品は、すぐれたものもそうでないものも含めて、そこに描かれている(と演出家や役者たちが信じた)登場人物たちの性格や社会背景や、階級意識や経済状況、恋愛への想いや栄達への野心といった、私たちの人生や日常が常に囚われ、また不断に創造してもいる文化的力学をいかに精妙に表現するかで評価されてきた。しかし山の手事情社の『過妄女』は、「剥製」という本来、演劇とはもっとも遠い存在にあるはずの身体を表象し、そのような文化の力関係を徹底的に捨象することで、世界のチェーホフ解釈の歴史に新たな一頁を加える。今回の『methods』と『過妄女』という連作は、《四畳半》《ルパム》《エチュード》といった山の手メソッドによって鍛えられた役者たちだけに可能な、生と死という人間にとって究極の対立を舞台上の身体という「実在」によって超越する、稀な試行なのである。

 2020年3月現在、「コロナウィルス感染」の拡大を予防するために多くの演劇公演が中止、または延期を余儀なくされている。3月14日から17日まで池袋の東京芸術劇場で公演が予定されていた山の手事情社の新作である『桜姫東文章』の公演も残念ながら延期となった。これは「賢明」ではあっても劇団にとっては「苦渋の決断」であるに相違なく、何より安田たちが初めて挑む鶴屋南北の破天荒な戯曲が、彼らの<四畳半的身体>によってどう甦るかを見られないことは、私たち観客にとって大きな損失となることだろう。しかし、山の手事情社の俳優たちが舞台に出現させる「自由な幽霊」は、必ずやこの戯曲のテクストを突き破って、ふたたび私たち自身の「身体の歴史」を発掘してくれるはずだ――その日の実現を心して待ちたい。彼ら彼女らが舞台上で顕現し続ける「永遠に生きる死」は、間違いなくこの作品においても<実在>するであろうから。