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▼東日本大震災とメディア――第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

福島三部作第三部『2011年:語られたがる言葉たち』 撮影=bozzo

嶋田:皆さま、ありがとうございました。それでは第三部に移りましょう。第三部『2011年:語られたがる言葉たち』です。この作品の中心になっていくのは、穂積真(井上裕朗)です。第一部では、一番末の弟でまだ人形でした。その彼が、台本の設定だと第三部では53歳になっています。福島のテレビ局の報道局長を務めているという設定です。実際に震災が起きた中で、テレビの報道の在り方、それをめぐって勤務している部下たちが、いろいろ話し合っていく中で、この三男は、最終的には飯舘村の村役場の職員になって、地元に貢献していく道を選びます。
 テーマは報道の在り方です。被災者からどのような言葉を紡ぎ出すのか、と同時に、「語られたがる」という言葉がタイトに含まれているので、言葉そのものが何を語られたがっているのかという、このタイトルが如実にこの第三部のテーマを示していると思います。
 タイトルだけでもいろいろ読み取るべきことは多いですね。東日本大震災は2011年で、われわれも記憶に新しいことかと思いますが、とはいえ、もう8年も前になっています。そんなに昔でもないけれども、最近でもない。非常に微妙な時間的な位置に今、われわれは立っています。このようなことを踏まえながらこの第三部について考えていきたいと思います。

鳩羽:第三部は、生々しいというか、身につまされることが多かったです。台本の注で、谷さんは福島で取材した際、自分からは震災や被災の状況について聞かなかったと明かしています。取材相手から自然にこぼれてくる言葉に耳を傾けてメモしていたと。でも、報道現場では、なかなかこうはいきません。震災からちょうど何年とか、節目の時期に特集を組む場合、コンセプトや見立てを準備するのが一般的ではないでしょうか。アウトラインに沿った取材に陥りがちなのも確かだと思いますね。メディアがすくいきれない言葉を、この芝居が語っていると感じました。「演劇はジャーナリズムだと思う」という谷さんの言葉をかみしめたいと思います。

柴田:この第三部は、今のマスコミのジャーナリズムに対する批判と演劇のメディアとしてのあり方に対する谷さんの考えがとてもはっきり出ているところだと思います。いわゆるマスメディアは、最初にセンセーショナルなものを求める視聴者像ありきで、それに沿ったコンセプトを作るという点。高級デパートから先に注文を切られたっていう話も、安全なものを消費者は選ぶはずだという消費者像がある。報道のコンセプトを作るときは是非を別にしても視聴者像のイメージが必ずある。そういうものと対極にある、バラバラな個々人が持つ体験とか経験とか意見とかを、演劇は伝達できるのではないかというのが、この三部ではとても明確な形で出ていたと私は思いました。

野田:轟音とともに地震の再現場面で舞台は始まります。そして原発の水蒸気爆発とともに、舞台上手側の、客席側に食い込んだところにつられている大量の電球装置が一気に輝きます。あの破局を生々しく描いた冒頭の場面ひとつとっても、震災直後にはおそらく上演がためらわれたであろう舞台でした。
 第三部は、2016年の夏から2019年の夏にかけて行ったインタビューをもとにしていて、谷賢一はその際「自分から震災や原発のことについて聞かない」というルールを作ったそうですが、一人の例外もなく震災や原発について語り始めたそうです。「まるで、言葉が語られたがっているかのように」と、谷自身が上演台本に付けた脚注に記しています。考えてみれば、2011年から5年たって、やっとその語られたがっている言葉が出て来たということでもあるのでしょうか。
 しかし、そのインタビューをもとにしたせりふが示しているのは、被災者のあり方、気持ちというものが実に様々かつバラバラだということです。劇中のテレビユー福島の報道局の人たちも、その劇を見ている私たちも、その前に愕然とします。一つのストーリーにまとめ上げるようなことは不可能にみえる。しかし東京のキー局は分かりやすい絵、明確なメッセージを求めてくる。民放だから、視聴率は至上命令。つらい話です。

鳩羽:テレビにとって、絵になるかどうかはとても重要視されています。一目瞭然でないと視聴者に見てもらえない。新聞でもストーリーを作りたがるところはあります。バラバラのエピソードだと編集しきれませんし。限られた尺や紙面の中でそうせざるを得ない事情もあります。

柴田:絵になるというので思い出しましたが、震災報道をするヨーロッパの新聞では、日本がまるで崩壊したかのような廃墟然とした写真がトップページに飾られていました。どこから撮ったのか、薄暗い夕暮れの中に浮かぶ、煙を上げている原発の写真が大きく取り上げられ、写真を通して日本が亡くなったようなイメージで記事が書かれていましたね。不思議なことに、この写真、日本の報道ではみかけませんでした。
 日本の中にもそうした境界があったことを登場人物に上手に語らせていますよね。「うちは双葉だから」「飯舘とは違うんだ」とか。舞台では福島の地域の違いが住民の関心事として描かれていますが、当時は東京と福島の違いや、関東は駄目だけど関西は平気とか、日本は駄目だけどヨーロッパは安全みたいな、普段は意識しない境界が可視化されていたのを思い出しました。放射能というのが、見えない境界線を侵食するようなウィルス的なもの、もしくは何か感染するようなものとして語られている様が、第三部の中で様々に媒介していて興味深かったです。

野田:福島県民が福島県民を「そこの放射能」呼ばわりする場面がありますが、目も当てられない悲惨な構図ですよね。「ああ、いいからこっち向かなくって、吐く息から放射能が伝染る」とか。これは地震の2年後、3年後ではまだまだ上演不可能だったせりふでしょう。そういう声を舞台でやっと聞けるようになった年の次には、2020年の東京オリンピックがある。これはもう、明らかに巨大な忘却装置としか思えなくなってくる。

藤原:電球をはめ込む穴がたくさん開いた2枚のボードと、上手の天井から垂れ下がった、シャンデリアのようにも見える電球の束。舞台美術の存在が第三部では効いていました。電球の束がパッと勢い良く煌々と光る様は、まさに原発の爆発の威力を示します。と同時に、原発事故後も懸命に生きる生の輝きだったり、反対に死者を鎮魂する灯でもあります。一本一本ろうそくを立てるように被災者の声を並べることが、「福島県民に、生きる自信と誇りを取り戻す」ための報道にないか。そう報道姿勢を打ち出す真の言葉と響き合う、両義的な光なんですね。
 一方、2枚のボード。これは第三部ではひしゃげて壊れています。第一部では、忠が電灯の電球を取り替えるということで、1個だけはめ込まれたものが灯る。第二部では、ボードいっぱいに電球がはめ込まれて、明るく光る。天井のオブジェは第二部でも光ります。思えば天井のオブジェと2枚のボードは、第一部からずっとあったんですね。原発の誘致によって町に明かりが小さく灯り、そのエネルギーが大きくそして定着した後に爆発する。第三部での舞台美術の様子から遡及的に思い返すことで、原発が町に与えた影響を視覚的に表現していたことに気付かされました。
 あと、忠は東日本大震災を目の当たりにして、その責任を取るかのようにバーンアウトして入院します。そして19歳と44歳の自分という、第一部と第二部に登場する自分と対話して閉じこもる日々を送ります。最後、妻の美弥(都築香弥子)が「あんたはよく頑張った。町のためにずっと、よく頑張ったねえ。」と忠に声をかけます。そしてかつての自分と、死に目に立ち会えずじまいだったかつての飼い犬のモモに「怖くはあリません」と誘われて、忠の死が描かれる。
 この忠に向けられる優しい目線が示すように、三部作に登場する人物は皆、決して悪人ではない。原発を誘致した東電や役人、忠を町長に担ぎ上げた県議会議員と秘書、もちろん住民同士でむき出しの諍いをする福島県の人たちも。彼らの行動はすべて町のため、愛する誰かのために突き動かされたがゆえのものです。札束で頬を叩いて用地買収を進めろと発言する自民党の大物政治家にしても、日本が核武装してアメリカから自立し、本当の独立国になる。その準備として原発政策を推進するという、日本を想う論理が一応ある。それぞれ思惑は違えど、日本や地元を良くし幸せに暮らすために奮闘してきたのであって、そういう意味では誰が悪いかを判定することは難しい。谷賢一は、最後まで両義性を保つことに留意していたように感じました。
 話は飛ぶようですが、演劇人を含めてリベラルは東京オリンピック2020に頭から反対する者が多いと感じています。単に反対して無視するだけで良いのか。少なくとも政府等が良かれと思ってオリンピックを開催するわけで。だったら反対するにしても、まず見て参加してからその是非を言っても遅くはないかと思います。なによりも、オリンピックには我々の税金も使われています。参加しないと損ですよ(笑)
 あと報道の方針について逡巡する真は、演劇に何ができるかという、8年前に演劇に関わる者たち皆が突きつけられた問題を改めて思い出させます。真が出した、人々の声をとことんまで聞き出して、ろうそくの火を立てるようにそのまま並べるという答え。それは谷賢一の三部作における構えそのものでしょう。登場人物には、実在の人も含めてそれぞれにモデルがいるようです。人間の生きた証を記録するという姿勢を、原発を誘致した時代にまで遡って、いろんな人々を描く際に適用している。だからこそ、善悪が判断できない深みを作品に与えるまでに至らしめたのです。
 重厚な三部作から何を現在に汲み取るか。その時その時、懸命に問題にコミットしようとした人々の中で、やはり孝が取った「関係のないことだから」という、傍観者的な態度だけはマズいのではないかとは思います。そのような宙ぶらりんの姿勢だと、直接的にしろ間接的にせよ、忠のように責任を感じて悔やむこともできないわけですから。今後何か起きた時に、良くも悪くも自分の問題として考え行動できるようにせよ。そのようにこの作品は問うていると思います。

小田:第三部は谷賢一さんが持っている一貫した姿勢が、一番はっきり表れているのではないかなと思いました。これまでの発言と重なりますが、距離をもって物事を眺めて、その一つが歴史をたどることであって、そこには、谷さんの冷静であろうとする視線っていうのが感じられました。
 それともう一つは、台本のト書きとかを読んではっきり分かったのですが、全部事実に基づいている。演劇という体裁のフィクションではあるのですが、実際に言われたこと、実際に起こったこと、実際に生きた人々っていう事実に基づいて作っていくっていう、その一貫性が、第三部では人々の生の声、取材した声を、さっき藤原さんが美しい言葉でおっしゃっていたように、ろうそくの火を立てるように立てたっていうことだったのかなと思うんです。
 私、最初に見たとき、この第三部が非常にベタなような気がして、これらの言葉っていうのは一つ一つもっともであるし感動的でもあるのだけれども、なんか、どこかで私は聞いたことがあるし、知っているような気がした。第一部、第二部と比べると、フィクション性があまりなくて、ほんとにインタビューした言葉が連なっているのだ、と思いました。ちょっと、それでどうなのかなっていう気もしましたが、今、皆さんのお話を伺っていると、おそらく、もっともっとたくさんのことを作者は聞いたはずです。
 それをどんなふうに演劇作品にしていこうかというのを、谷さんはおそらく非常に悩んだと思います。こういうかたちで並べることによって、第一部から第三部までを通して、自分が何かを声高に主張するのではなくて、見た人に問題を投げかけ、考えてほしいと言っているという作品だと思いました。

嶋田:この第三部は、ある意味、物語を何か一つ紡ぎ出すというよりも、われわれに2011年のときのメディア、それから被災者の言葉というものを考えてほしい、というように投げかけられた印象があります。
また2011年の東日本大震災当時、Twitterの情報発信力や可能性が発見されたような気がしています。その後、Facebookとかインスタとか登場し、かなり時代が経ってしまった感じはします。

野田:みんなTwitterなどのSNSに頼った、そしてそこから発信された「風評」に振り回されたという状況は、もうすでに2011年の段階であったと思いますが……。

鳩羽:第三部は声高に叫ぶ演技が目立ちましたが、小さなつぶやきの方が心に残りました。義援金をもらってパチンコに通う、飲んだくれの男性が、津波で妻と娘をさらわれたことを訥々と話す場面とか。

野田:パチンコばかりやっている被災者の荒島武(東谷英人)が、TV局の取材で不安を訴える身重の女性(佐藤千夏)に文句を言う。すると女性の夫である元教師(森隼人)が恐縮するんです。しかし、この教師、荒島が双葉町民だったと知ると、手のひら返したように怒るんですね。「頭ぁ下げたおらが間違ってた(……)おめらが原発なんか誘致しねっきや、こんなことにはならねかった」って。荒島の腰が突然卑屈なまでに低くなる。そして、妻子が津波に流された身の上にふれて「奥様とお子さんを、大事になさって下さい」と言う。今度はお互いが互いに詫びを入れるようになる。
 私は8月25日に福島三部作をぶっ通しで観たのですが、その日は第三部の終わりに谷賢一と長塚圭史の両氏によるポストパフォーマンス・トークがありました。その場で谷は、上演のタイミングについて、こう言っていましたね。10周年の2021年にはやりたくなかった。2020年だと、オリンピックにかき消されちゃうだろうから、やはりやりたくない。だから2019年の上演にした、と。彼にとってみれば、2019年は三部作を打つギリギリのタイミングだったことがわかります。先ほど私は、2020年の東京オリンピックが忘却装置にしか見えなくなってくると言いましたが、谷は、これを忘却装置にさせてしまわないために三部作を打ったということかもしれません。今やんなかったらいつやるんだっていう、そういう危機感があったんでしょう。

鳩羽:リアリティーを感じさせたのは、全編を通じて流れる福島弁でした。私は3週間続けて1本ずつ三部作を見ました。毎週聞いていると、「思うけんちょ」とか「おらぁ」とか耳に残って。この言葉から福島の土や風の香りを想起しました。役者さんもみんな福島弁のせりふをマスターしたんでしょうね。

野田:大変ですよね。

鳩羽:ほんとうに大変。

小田:これ、福島公演では第二部と第三部しかやらないのですね。第三部を福島でやったときのことを想像すると、全然、受け取り方が違うだろうなと感じます。