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結 宝塚歌劇団の最前線――原田諒の戦略と轟悠のリアリティ

 また今回の原田諒『チェ・ゲバラ』を観て思うのは、宝塚歌劇団作品はそもそも民衆の視点を持ち合わせていたのではないか、という根本的な問題である。それぞれの組の構成員が80名近い宝塚歌劇団は、勢い群衆劇になる要素を劇団のシステム上抱え持っている。そのような視点から考えれば、植田紳爾『ベルサイユのばら』(1974)のクライマックスとなるバスチーユの場面は、「シトワイヤン、行こう!」によって扇動される市民たちが中心となっている。また『エリザベート』(1996)の「ミルク」はミルク不足であるにもかかわらず、美容のためにミルク風呂に入っているエリザベート皇后に対する民衆の怒りが沸点に達する場面だ。近年とみに注目される上田久美子の秀作『神々の土地―ロマノフたちの黄昏―』(2017、宙組)もまたロマノフ王朝と民衆の対立を見事に描いた作品だ。このように宝塚歌劇団作品において革命が語られる場合、民衆の対立項として貴族社会を想定し、そこにおける恋愛が軸となる作品が圧倒的に多い。
 このような作品のなかで、原田諒の作品が実に特異なのは、民衆の視点を極端なまでに重視している点である。いいかえれば、これまでの宝塚歌劇団作品の物語構造をしっかりと踏襲しながら、着地点として主人公と民衆とのつながりが強調される点である。このような手法から紡ぎ出される主人公は、英雄としての姿ではなく、等身大としての「ただの男」である。原田諒と轟悠が作り上げた前述の3作品は、原田諒の戦略と、轟悠が志向する男役としてのリアリティが見事に交叉し、いずれもこの「ただの男」を描くことに成功している。
 貴族社会や英雄を描かない。確かにこのような作劇法は宝塚歌劇団において、類例を見ない。しかし、この二人が切り開こうとしている領域に、全く不満などなく、そればかりか大きな可能性を積極的に感じてしまうのは、常に民衆に寄り添うあたたかさが作品全体をおおっているからであろう。そこにこそ現在における宝塚歌劇団の最前線があるはずだ。『チェ・ゲバラ』で達成したこのあまりにも果敢な挑戦を、今後も見続けたいと思う。

(宝塚歌劇団月組公演『チェ・ゲバラ』日本青年館、2019年7月30日~8月5日、梅田芸術劇場シアタードラマシティ、8月11日~19日)