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歌川国貞「遊君阿古屋」(文政~嘉永年間)国立国会図書館ウェブサイトから転載

玉三郎の遊女阿古屋は三曲を奏でて、中世以来の汚名を濯ぎ、人間としての矜持を示す。

――2018年12月歌舞伎座「阿古屋」

 「阿古屋」は、文耕堂・長谷川千四の浄瑠璃「壇浦兜軍記」(1732・享保十七)三段目の口に当たる。この役を演じる玉三郎の姿に、中世以来ヒロインが耐えてきた長い受難の歴史が刻まれている。

 中世の幸若舞「景清」では阿古王(阿古屋)は悪妻である。夫景清が平家の落ち武者になると、我が身と二人の子供の安泰を考えて、景清の行方を二度まで訴え出る。頼朝はその裏切り行為を憎み、鴨川と桂川が合流する稲瀬ガ淵の深いところに阿古王を漬(ふしづ)けにする。ここに描かれているのは、いわば道徳教科書の中の操り人形である。近世の浄瑠璃になって、生きた人間に近付く。近松門左衛門の浄瑠璃「出世景清」(1685・貞享二)が、彼女の行為に新しい光を当てた。阿古屋が夫を裏切るのは、誇りを踏みにじられたからである。兄の伊庭十蔵が景清を訴人しようとするのを止めているところへ、正妻の伊勢大宮司の娘小野姫から景清に当てた文が届く。そこにはこう書かれていた。

かりそめに御のぼりましまして、否応(いなせ)の便りもし給はぬは、かねがね聞きし阿古屋といへる遊女に御したしみ候か。

 阿古屋ははっとせきたる気色になる。

恋にへだてはなきものを遊女とは何事ぞ。

 心乱れてためらう阿古屋を突きのけて、兄は訴人へ走る。「壇浦兜軍記」に至って、阿古屋は中世以来の汚名を完全に拭い去る。浄瑠璃全五段の主人公は景清である。しかし歌舞伎化された舞台では、阿古屋を主人公にする三段目口以外が上演されることは滅多にない。堀川御所へ引き出された阿古屋は、景清の行方を問われて知らぬと言う。そこで秩父庄司重忠(彦三郎)は拷問と称して、琴、三味線、胡弓を演奏させる。阿古屋は愁いに沈みつつ、三曲を弾く。

 これは何と不思議なドラマであろうか。

 中世の遊君が、近世江戸吉原の花魁の豪華な扮装で登場する。三味線は中世にはまだ存在しない。そういう時代錯誤は、しかし歌舞伎には始終出てくる。不思議なのは、訴訟手続きそのものである。重忠は責め道具として、なぜ琴、三味線、胡弓を用いたのか。またその詮議が、なぜ阿古屋の証言の実否をただすことになるのか。阿古屋の演奏は男を思って乱れがちになる。その音色に、重忠は何を聴いたのか。三つの楽器が責め道具に用いられるのは、それが客をもてなすための遊女の表芸だからである。重忠が拷問にかけるのは阿古屋の身体ではなく、精神である。阿古屋がこの拷問に耐える方法はただ一つ。三曲を見事に演奏し、遊女として、人間としての誇りを示すことである。遊女だとて、恋に隔てはない。彼女は気持ちを静めて、琴を弾じる。

影といふも月の縁
清しといふも月の縁
影清き名のみにて
映せど袖に宿らず

 琴歌が終わり、重忠に問われて、景清との馴れ初めを語る沈んだ色気は初代水谷八重子を思い出させる。六代目歌右衛門はいうに及ばず、過去に影響を与えた幅広い分野の名優たちの面影が玉三郎の中に宿っている。景清ははるばる尾張の国から、清水寺へ日ごとの徒歩詣でを欠かさなかった。

下向にも参りにも道は変わらぬ五条坂。互に顔を見知り合ひいつ近付きになるともなく。羽織の袖の綻びちょっと。時雨の唐傘お易いご用。雪のあしたの煙草の火寒いにせめてお茶一服。それがかうじて酒一つ。

 恋には家柄も身分もない。ただ互いに通い合う心のみ。続いて三味線。

翠帳紅閨に枕並ぶる床の内。馴れし衾の夜すがらも。四つ門の跡夢もなし。

 落武者となった景清は折々都に現われて、阿古屋は逢っているのではないか。そう問われて、遊女の身の悲しみが滲み出る。

平家御盛んの時だにも人に知られた景清が、五条坂のうかれめに、心を寄すると言はれては弓矢の恥と遠慮がち。ことさら今は日陰の身。――目顔を忍ぶ格子の先。編笠越しにまめにあったかアイお前も無事にとたった一口いふが互の比翼連理

 演奏を進める内に、失われた時間が次第に色濃く甦る。玉三郎はその演技が圧巻である。最後の胡弓の演奏はひとしお哀感を誘う。

吉野龍田の花紅葉更科越路の月雪も。夢と覚めては跡もなし。あだし野の露鳥辺野の煙は絶ゆる時しなき。是が浮世の誠なる。

 死によって隔てられるとも、隔てられぬ思い。短い時を生きる人間が、その命のときめきを、長い命を保つ音楽に重ね合わせる時に、束の間の時もまた音楽の長い命を生きる。人形浄瑠璃が歌舞伎化されて、生身の俳優が演じる時、この感覚は一層鋭くなる。

 ことに玉三郎の胡弓は見事で、今回日替わりに阿古屋を演じる初役の梅枝・児太郎と較べて、その音色の美しさは際立っている。重忠は「ほとんど感に堪へ」て宣言する。

阿古が拷問ただいま限り。景清が行方知らぬといふに偽りなきこと見届けたり。この上には構ひなし。

 訴訟手続きとしてはやはり不思議だが、重忠は彼女の人間性に打たれた。そして阿古屋が人間としての誇りを回復することこそ、浄瑠璃の主題にほかならない。胡弓を弾き終え、絵面に極まって幕を切る玉三郎に対して観客が抱く感動は、彼が見事に阿古屋を演じたからか。それとも演奏が素晴らしかったからか。それは同じことである。

 阿古屋は見事に三曲を演奏して、人間としての矜持を示した。