モントリオールのフェスティヴァル・トランスアメリーク(FTA) 刺激と興奮にあふれた2週間/藤井慎太郎
ルイーズ・ルカヴァリエ『千の闘い』モニュマン=ナシオナル
Louise Lecavalier, Mille batailles, Monument-National
エドゥアール・ロックが率いるラララ・ヒューマン・ステップスにおいて、創設時から18年間にわたってカリスマ的なダンサーを務めたルイーズ・ルカヴァリエが自ら振り付け、出演する最新作である。作曲家・ギタリストのアントワーヌ・ベルティオームによるテクノ系の音楽に合わせるように、9つの場面(タイトルに絡めていえば「ラウンド」)に分かれている。作品はルカヴァリエのソロで始まるが、やがてそこに彼女の対戦相手でもあり、分身でもあり、パートナーでもあると思われる男性ダンサー、ロバート・アブボ(Robert Abubo)が加わる。
本作を特徴づけるのは、ルカヴァリエ(およびアブボ)の特異な身体性である。ムーンウォークよろしく、上半身を動かさずに移動しながら踊ったり、片足で踊ったり、上体を長いこと前屈させたまま踊ったりと、1時間少々の短い作品であるとはいえ、身体に対する要求は決して小さくはない。1958年生まれのルキャヴァリエがもうじき還暦に手が届く年齢であることを考えると、驚異的ですらある。
2006年のダンス・トリエンナーレ・トーキョーで上演された『I is memory』(ブノワ・ラシャンブル振付)においてもそうであったように、パーカを着てフードを頭にかぶった少年のようなルカヴァリエは、性別や年齢を超越するだけでなく、人間ではない存在、あるいは人間を超えた存在へと生成していく。テクノ系の音楽に合わせた、強いていえばナイトクラブのダンスフロアで目にできるような動きが多く含まれるのだが、バレエはもちろんコンテンポラリーダンスにもなかなか見ることができない種類のものである。非=人間性、あるいは超=人間性を志向する本作品、中でもルカヴァリエの身体は、本フェスティヴァルにおいても例外的に強烈な印象を残した。(5月31日20時)
ロメオ・カステルッチ『ゴー・ダウン、モーゼズ』ドゥニーズ・ペルティエ劇場
Romeo Castellucci, Go Down, Moses, Salle Denise Pelletier
2014年10月に、マルターラー作品と同じくスイスのヴィディ=ローザンヌ劇場で初演された、ロメオ・カステルッチ(1960年生まれ)による近作である(2014年11月にパリ市立劇場で上演されたときの映像がフランス・テレヴィジオンのサイトで2017年11月6日まで公開されている)。カステルッチの十八番というべき、美的完成度の高い複数の場面が、暗転によってつながれる。とりわけ最後の洞窟の場面の、照明の変化に伴う情景の変化は圧巻である。モーゼを主題とする本作品は、’theatre’と’theology ‘との間に共通性を見るカステルッチが、神的なもの、表象不可能なものに対して寄せてきた関心の延長線上にある。
断片的ではありながらも、ハイパーリアルな舞台美術のうちに現れる登場人物や物語(らしきもの)の存在に特徴づけられ、まだ演劇的に把握することができる前半から、登場人物の夢の中と思われる、幻想的な光景が繰り広げられる後半へと、一挙に昇華する作品構造は、『神曲 煉獄篇』(2008)に通じるものである。紗幕の使用によって、舞台の現実は生々しい現実感を奪われると同時に、映画的といってよい現実感が付け加わっている点も同様である。暗転のたびに、一瞬といってよいほどの間に、舞台はまったく異なる空間へと変貌を遂げるのだが、その技術には舌を巻かざるを得ない。
観客が自分の席に向かうときには、すでに舞台上では紗幕の向こう側にスーツ姿のパフォーマーが見える。無言のまま動き回り、何気ない動作を繰り返しているようでいて、腕の使い方が特徴的であり、きわめて舞踊的に構成されている。開演を告げる暗転とともに、舞台はトイレへと変わる。苦痛にうめく一人の女性が、床をのたうち回る。その下半身から流れる血によって女性は血まみれになる。ゴミ捨て場(赤子が捨てられていることが暗示される)の場面を挟んで、その後、警官たちが、赤子の所在を突き止めようと、女性の取り調べを始める。体の不調を訴える女性は、検査のためにベッドに横たわり、MRIの機械の中へと消えていく。だが、その後に現れるのは、全裸で動物然とした人間の集団が住まう洞窟である。やがて一人の女性が紗幕に黒く手形をつけていっては、大きな衝撃音を生じさせながら紗幕を手で叩き、そして大きくSOSの文字を記す。最後に、再びMRIから出て戻ってきた女性が床に横たわり、作品は終わる。
洞窟に差し込む光が変化していくのにつれて、洞窟もまた表情を変えていく、その造形的な完成度によってだけでも驚嘆させられるのだが、(ほぼ)最後に位置づけられた、文字通りに第四の壁を揺るがし、ひときわ強く観客に語りかける場面が作品の頂点をなす。その意味は開かれ、解釈は観客に委ねられている。パブリック・トーク(200人以上の観客が詰めかけたことが観客の関心の高さを物語る)において、カステルッチは自らの創造プロセスにおいて、作品が完成する前にいくつかの要素をあえて取り除いて、「穴」や「謎」をつくるのだと述べ、それこそが観客の場所であるとつけ加えたが、まさにこの場面は、そうした「穴」や「謎」が観客を揺るがす、格好の例であるだろう(時に何の説明もなく間に挿入される、轟音を立て、人間の頭部ないし鬘を思わせる物体を巻き込みながら回転するシリンダーの場面も同様である)。
作品のタイトルには現れているモーゼもまた、舞台に現れることはない。だが、トイレで女性に(おそらくは)産み落とされ、捨てられ、その後、捜索の対象となる赤子が、ナイル川に流されたという赤子のモーゼに重ね合わせられているのは、取調中のいささか錯乱気味の女性が発する「ナイル川に捨てればよかった」などの言葉からも確かである。そう考えると、客席開場の際に現れるスーツ姿の現代人、モーゼによって解放されることになるヘブライ人、さらには洞窟の中の原始人とが重ね合わせられていると考えることも不可能ではあるまい。(6月3日20時)