モントリオールのフェスティヴァル・トランスアメリーク(FTA) 刺激と興奮にあふれた2週間/藤井慎太郎
今年のFTAの上演作品から
筆者は9日間の滞在中に、今年の上演作品25作品の中から13作品ほどを見ることができたのだが、ここではそのうち8本に絞って論じたい。期間中に上演されている作品を(誰がどうがんばっても)すべて見ることはできないように上演スケジュールが組まれていること、トランスアメリークの名に反してヨーロッパのアーティストが多く、南米のアーティストの作品は1本もなかったこと(たまたま交渉がうまくいかなかったらしい)、不運にもドゥニ・マルロー演出『もうひとつの冬』は、コンピュータのトラブルによって、もともと2回しかなかった公演のうち、私が見る予定だった2日目の上演が中止となってしまったこと、滞在日程の関係で、世界的成功を収めているジェローム・ベルの新作『ガラ』の公演を見られなかったこと、エティエンヌ・ルパージュ、マクシム・カルボノー、ダナ・ミシェルなどケベックの若手アーティストの作品は、完成度の点でいささか物足りなかったことなど不満がないわけではないが、全体としては粒ぞろいの傑作に恵まれた(とりわけカステルッチとルカヴァリエ、ついでマルターラーとヴィエンヌの作品は秀逸であった)幸福な1週間を過ごすことができた。
クリストフ・マルターラー『漂う島』プラス・デ・ザール
Christoph Marthaler, Une île flottante / Das Weisse zom Ei 2016年5月28日
2010年にフェスティバル/トーキョーで上演された『巨大なるブッツバッハ村』の演出を手がけたクリストフ・マルターラー(1951年にドイツ語圏スイスに生まれている)が、フランス語圏スイスにあるヴィディ=ローザンヌ劇場(アヴィニョン演劇祭のディレクター職をオリヴィエ・ピィに譲ったヴァンサン・ボードリエが劇場監督を務めている)の委嘱を受けて創作し、2014年11月に同劇場で初演された作品である。
登場人物(俳優)の肖像画が架けられ、ブルジョワジーの家庭の室内を表している作り込まれた舞台美術は、彼との長い共同作業で知られるアンナ・フィーブロックによるものである。同じ空間が、前半ではフランス語を話す家族、後半ではドイツ語を話す家族の居宅になる。テクストはウージェーヌ・ラビッシュを参照しているとのことだが、イヨネスコ風でもある。フランス語を話す一家(俳優)とドイツ語を話す一家(俳優)が登場し、両家の娘と息子とが結婚で結ばれようとしている。フランス語とドイツ語の間の壁を乗り越えて、通訳もないまま登場人物の間でコミュニケーションはなぜか成立している。何とも奇妙なコミュニケーション空間であるが、そもそも同じ言語を話す登場人物/俳優の間でもコミュニケーションは充分には成り立っていないのであった。スイス内部のフランス語圏とドイツ語圏の間の関係、さらには言語を異にする人間同士の関係、あるいは舞台と客席の間の関係の隠喩であるといえるのかもしれない。
俳優が椅子に座るとお尻が抜けなくなったり、そこから脱出しようとするとズボンが脱げてしまったり、転んだ俳優が口から血を流したり、力のある俳優たちを揃えておきながらそこまでやるか、というほどの(ときに小学生レベルの)ギャグを展開し、客席は爆笑の渦に誘われる。マルターラーのほかの作品に比べると音楽性は控えめで、スラップスティック・コメディとしての側面が強く出ているといえる。そこに不満を感じることもできようが、俳優、テクスト、舞台美術などが織りなす演戯の水準はきわめて高く、やはりさすがである。(5月28日20時)
ジゼル・ヴィエンヌ『腹話術師の会議』ユジーヌC
Gisèle Vienne, The Ventriloquists Convention, Usine C
F/TやSPACに招かれて日本での公演も多いジゼル・ヴィエンヌ(1976年生まれ)が、ドイツの常設人形劇場プッペンテアター・ハレの委嘱を受けて演出し、2015年8月に初演された作品である。腹話術師たちが国際会議のために人形の分身を引き連れて集まってくるという設定は、カントール『死の教室』を思わせつつも、いささか非現実的なものに思われるかもしれないが、実は、シンシナティで毎年開かれる現実の世界大会に実際に取材しているほか、登場人物と人形は実在するか過去に実在した腹話術師とその相棒の人形に基づいており、ドキュメンタリー演劇的な側面を多分に併せ持つ作品である。
俳優/人形遣いの大半はプッペンテアター・ハレの劇団員だが、フリーランスの人形遣いも含まれる。さらに、国立マリオネット学校在学時からのヴィエンヌの盟友ジョナタン・カプドゥヴィエルら、2名のフランス人人形遣いも参加している。今回は英語での上演であったが、主にドイツ国内向けのドイツ語版も存在する(その場合はキャストにもちがいがある)。
これもドキュメンタリー演劇的だが、ほぼすべての俳優は実名を名乗って現れる。みな腹話術をマスターしている上に、マイクをつけているために、誰が話しているのか、ときに観客は分からなくなる。この「誰が話しているのか」は、本作における大きな問いである。そしてその問いに容易には答えられないところが、本作の大きな関心を構成している。ときに俳優たちは演戯をやめるかのように静止し、一種の活人画を構成する。リアリズム的な、再現性が高く、(俳優と登場人物、登場人物と観客の間の)同一化に基づく部分とそこから距離をとる部分が交互に繰り返される。本作におけるドキュメンタリー性は、舞台を現実に近づけるためというよりも、むしろ現実と虚構の間の境界線を侵犯し、観客の認識を撹乱するためにあるのだ。
ジゼル・ヴィエンヌの演出、デニス・クーパーのテクストによる人形を用いたパフォーマンスといえば、これまでのヴィエンヌ作品と同じ枠組みを踏襲しているようだが、ヴィエンヌは従来の作品とは一線を画す、重要な一歩を踏み出したように感じられる。ドイツの人形劇団との共同製作であることもそうだが(ヴィエンヌは母がオーストリア人であり、ドイツ語も母語とするが、稽古場での即興をもとに、英仏独語の間、テクストと上演の間を往復しながら、作品をつくる創造プロセスには苦労も多かったようだ)、本作品では自作の人形を使用していない。同じく、デニス・クーパーには珍しく、セックス、ドラッグ、ヴァイオレンスの直接的描写は影を潜め、ユーモアに満ちた表現が観客の笑いも同時に誘う作品である。笑いながらも、もちろん、その底にある「死」のにおいを感じ、引き裂かれずにはいられないところに、ヴィエンヌらしさ、クーパーらしさが残っている。(5月30日20時)