閉塞空間の中でも際立つダンサーの個性――水中めがね∞ダンス部『既に溢れている』/藤原央登
水中めがね∞は、主宰者である桜美林大学出身の中川絢音と水口愛那(24歳)に、ダンサーの根本紳平を加えた3人のカンパニーである。2011年の立ち上げ以来、ムーブメントを取り入れた演劇公演を行っていた。本作からは「ダンス部」としてダンス作品も平行して創作してゆくという。中川と水口は劇作・振付を中心として、衣装なども幅広く担当しながら出演してきた。
閉塞する社会の中で、どう生きればいいのかもがき苦しむさま。その必死さを力強く提示する中で、若い出演者11人の個々の貌が見えてくる。本作はダンサー個々の身体を通して、〈溢れる〉心情という観念的なものを滲み出す作品に仕上がっていた。
とはいえ、舞台内容は一見、若者らしいパワーとは似つかわしくない。まず空間からしてそうだ。天井からぶら下げられたいくつかの蛍光灯の明かりだけで進行するシーンが印象に残っている。コンクリート打ちっぱなしの上野ストアハウスの舞台空間と関連して、暗さと冷たさが強調される。ダンサーは一様に袖なしワンピースのような白い衣装である。蛍光灯の明かりに照らされて映える白は、空間の黒とのコントラストを成していた。そんな彼らが音楽に合わせて、足で床を踏み鳴らす動きは確かに力強いが、同じ動きを淡々と繰り返す。だから、力強さは次第に、労働の苦役に耐えているように見えるのだ。
一転して、幸せを寿いでいるような印象を与えるシーンもある。床に寝そべったダンサーの足を掴み、腹に口をつけて空気を入れる別のダンサー。すると、空気を注入されたダンサーの腹が膨らむ。今度は、膨らませたダンサーが寝て、舞台袖からやってきたまた別のダンサーが腹に口をつけて膨らませる。風船が腹に仕込まれているのだろう。それが膨らむのは妊娠の印か。途中からは口で膨らませることを止め、ポンプで空気を送るのでテンポが上がる。この動作を順々に繰り返す。そして舞台上に妊婦たちが勢ぞろいした後、『くるみ割り人形』が流れる中で、微笑を浮かべた表情で優雅に踊る。それが幸福そうに思えないのは、受胎が機械的な流れ作業のように淡々と行われていたからである。さらに踊った後には、風船は彼らの手で割られる。それが堕胎だとすれば、望まない妊娠だったのであろうか。
労役と妊娠・堕胎を思わせる2つの群舞。これらが陰鬱な空間と相まって、精神病棟のような閉鎖的な中で行われているように見えてくる。労働と妊娠出産は、社会を栄えさせる基盤という点で共通する。であれば、強制的な監視の下で行われる収容所内での出来事のようにも感じさせられる。
そのような閉塞的な暗さは、権力性が垣間見えることでさらに強調される。権力はナースキャップに象徴されている。それは当初、振付・演出の中川の頭の上にある。彼女は一列に並んだダンサーたちの身体を踏んだり押したり、腕や耳を噛んで倒す。これが権力者による患者や収容者への暴力を想起させられる。中川はしかも、冒頭で舞台上にやってきただけですぐ脇にひっこみ、この虐待シーンがある舞台中盤まで姿を見せない。そのことから、労働と妊娠出産といった動きを見せるダンサーたちは、権力者である中川によって支配されていることが了解される。それだけでなく、権力の象徴であるナースキャップが男性ダンサーに移ることによって、今度は中川が暴力の被対象者となる。権力は固定的ではないのだ。つまり、精神病棟や収容所を思わせる空間に規定された中でのダンサーの存在は、社会と彼らの関係を指しているのだろう。
支配-被支配の関係性における、権力の不可視という問題はさして新しくはないものの、それが彼らをとりまく社会環境の現状認識なのだろう。新しくないということは、依然としてその認識がこの世界のそこここに巣食っているとも言える。権力者がさらなる権力者によって、あるいは交換可能なものとして、不透明なものとなる支配の構図。その中で、ダンサーの動きの源泉を攪拌し、踊っているのか踊らされているのか分からなくさせる。ここまでの展開で行われたことは、ダンサーを没個性にすることであった。
問題は、閉塞感のある中でどのように生きるのかである。それはラストに訪れる、各人の激しいソロダンスからうかがえる。各自が持ち味を存分に出し切るように、ピンスポットの当たる中に飛び出してきて動く。その様は、怒りやもどかしさといった、鬱積して〈溢れ出た〉個人の想いなのだろう。そのようにしてしか、今の彼らには閉塞社会に対抗する術はないという風に、運動の軌跡を力強さと共に押し出す。小柄で小太りなのに、片手をついて宙返りするダンサーがいたりと、ソロダンスからはダンサーそれぞれの持ち味を十分に主張した。出演者には俳優や劇作家も混ざっていたという。そうは思えないほどよく動く、彼らのひたむきさが見所であった。
彼らの生きる現実に根付いた、やむにやまれぬ感情による身体の軌跡を強く提示すること。そこから見えてくるダンサーの個性によって、息苦しい社会の中でもがきながらも賢明に生きている様を示すこと。それが中川の演出意図だったのだろう。閉塞状況が前提となりつつある中で、諦念せずに強く個性を押し出す本作は、実人生に根付いたダンスとなっていた。(演出・振付=中川絢音、2015年8月23日マチネ、上野ストアハウス)