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青森中央高校演劇部公演『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』 撮影=松本和幸
青森中央高校演劇部公演『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』 撮影=松本和幸

 青森中央高校演劇部公演『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』は、そのタイトルや設定、初演年、青森という土地、そして開演前のステージを縦横に動き回るジャージ姿の高校生たちの姿から、観客は自ずと、この作品のラストシーンをまざまざと想像することが出来るだろう。震災を生き延びた高校生が、「イタコ」を媒介として蘇ったかつてのチームメイトと一緒に、もう一度野球をするのだろう、と。事実、エンディングではまさにこの通りの情景が描かれる。予想通りの結末に、それでも観客が涙するのは、この作品が生き残ってしまったものへの赦しを描いた物語であり、またその赦しが他者の存在を媒介として与えられるがゆえである。

 物語は極々シンプルである。津波で家も学校も失って、青森賽河高校へ転校してきた元野球部員カズサは、弱小野球部の立て直しに奮闘するマネージャーであるシオリの必死の勧誘に、選手としてもう一度活動することを決める。どうにか9人そろった野球部は、甲子園出場を目指し、伝説の巨人軍ピッチャー、沢村栄治の霊をカズサに「ホトケオロシ」をするのだ。

 沢村の霊を降ろしたピッチャー、カズサの腕一本で賽河高校はどうにか県大会決勝戦までこぎつけた。だが、決勝戦前夜の合宿で、カズサは自分がイタコ役をかってでた本当の理由をシオリに打ち明ける。彼は死んだ人と話がしたかったのだ。もちろん、カズサはすぐに気づく。自分のからだに霊を降ろしても、自分自身が霊と話が出来るわけではない、死者と語らうためには、その媒介となる他者の存在が必要なのだ、と。

青森中央高校演劇部公演『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』 撮影=松本和幸
青森中央高校演劇部公演『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』 撮影=松本和幸

 野球部もまた、沢村の力を借りるばかりでは甲子園へは行けない。決勝戦、相手チームのバント戦法の前についにカズサの肩は限界を迎える。倒れる寸前のカズサからついに沢村の霊も成仏し、初めてこの野球部は全員が自分たちの力でプレーをし、潔く敗退する。

 1997年、兵庫県立神戸高校が阪神大震災をテーマに創作した『破稿 銀河鉄道の夜』という作品がある(註1)。震災から二年後の神戸の、とある高校の演劇部を舞台とした、被災地の演劇を代表する作品の一つである。北村想氏の戯曲『想稿・銀河鉄道の夜』の上演メンバーであった、カンパネルラ役のカナエと、地震で死んでしまったジョバンニ役のトウコとの会話を描く。「戯曲の通りなら」死んでしまうカンパネルラが生き残ってしまった、というカナエの後悔は、ラストシーンでトウコが本来の配役とは異なるカンパネルラの台詞をカナエに向けて語ることで昇華される。北村氏の言葉、そして宮沢賢治の物語によって、カナエは死んでしまったトウコとの関係性を—ジョバンニであるカナエとカンパネルラとなったトウコとして—築きなおす。

 『もしイタ』において、カズサが何を介してかつてのチームメイトとの関係を築きなおすのか、つまり津波で死んだ彼らの死をどのように受け入れていくのか、はすでに冒頭から予見されていたように、イタコの力を身につけた青森賽河高校のチームメイトたちによってである。自分だけが生き残ってしまったこと、自分だけもう一度マウンドに立つ喜びを得てしまったことに対する、カズサの強く、堪えがたい罪悪感は、共に県大会を戦った今のチームメイトの存在によって赦される。彼らの今まさに生きているからだと、今は亡きチームメイトの声が重なり合うことで、現前する他者の存在を介してしか、死者の声が届けられないことを知るのだ。

 本作は、全国高校演劇大会出場に先駆け、東北の被災各地の避難所、集会所での慰問公演として上演されてきた。現在も関西や首都圏への遠征公演を含め、高校という場を超えて様々な場所で上演され続けている。今回のフェスティバル/トーキョーにおける公演もそのツアーの中の一つである。

 からだ一つでどこでも上演できるようにと、衣装はジャージ、美術や小道具はなく、音楽や効果音は肉声で照明は地明かり、という限られた条件を逆手に取るかのように存分に活かし、各シーンの情景はアンサンブルの多彩なコンビネーションによって鮮やかに描き出される。そのとき見せつけられる溌剌とした役者たちのからだは、役を演じるというよりも、むしろ一人ひとりの高校生として観客に向き合ってくる。イタコとなった高校生たちに、沢村栄治の霊が、あるいはカズサのチームメイトの霊が降りてくるとき、観客は、彼、彼女たちのからだを介して、かつて失った誰かと再び相まみえることを願うだろう。その再会は、一人では叶わない。だからこそ、青森中央高校演劇部の部員たちが全国を飛び回って公演をする意義は計り知れない。その行為は、東北の震災のみならず、彼、彼女たちが生まれてもいなかった、かつての大震災で生き残った人々への鎮魂歌ともなるのである。

青森中央高校演劇部公演『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』 撮影=松本和幸
青森中央高校演劇部公演『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』 撮影=松本和幸

註1:青森中央高校演劇部は本作をレパートリーとして2012年、13年に上演している。

(2014年11月28日17時30分上演回観劇、にしすがも創造舎)