Can you celebrate? ──フェスティバル/トーキョー14総評 ──/萩原 健
「永遠っていう言葉なんて知らなかったよね」──渡辺源四郎商店の『さらば! 原子力ロボむつ 〜愛・戦士編〜』(以下『ロボむつ』)の中の、ある放射性物質の10万年という半減期を示すくだりで、安室奈美恵の曲『Can You Celebrate?』の一節が繰り返し歌われた。この作品は2014年11月のフェスティバル/トーキョー(以下F/T)14のなかで、筆者にとって特に印象的だったもののひとつだ。「核廃棄物をめぐるさまざまな葛藤を人情劇に込めた」(当日パンフレット2頁)同作では、上の曲やAKB48の楽曲・ダンスから、あるいはヒーローもの、戦隊もののマンガ・アニメ・特撮番組からの要素が多く引用されていた。そしてこれらは、それまでのF/Tでは舞台上で示されることのおよそなかった現代日本のポップカルチャーの要素だった。
もちろん、F/T14になって初めて認められた事象はこれだけではない。以下、今回のF/Tに関して従来のそれと比べて変化した点を整理したい。
1.〈異業種〉の作り手たちによる協働作業
F/T14の「トピックス紹介ブック」(以下「紹介ブック」)の表紙裏に記された文には、「国、社会、環境、様式、立場など、さまざまな制約をしなやかに超えていく、多元的な演目が数多く設定された」とある。これに即して言えば、従来のF/Tの演目も十分「多元的」であり、方針が大きく変わったようには思われない。
とはいえ、「様式」や「立場」の多元性という点では、今回はいわゆる〈異業種〉の人々の協働作業がより目立ったように思われた。つまり、『羅生門|藪の中』(註1)や『春の祭典』(註2)の場合のような、普段は別個に活動している演出家、振付家、造形美術作家、音楽家による仕事、あるいは『動物紳士』の振付家(森川弘和)と舞台美術家(杉山至)の場合のように、舞台芸術を仕事の場とすることでは共通しても、これまで密な協働作業を行ってこなかった人々による仕事である。これらの成果には一定の目新しさはあった。だが、個々の作り手の仕事が十分有機的に連関しているようには思われず、かといって、連関させないことが意図だとも思われず、発展途上にある印象が残った。
ただ、従来と今回のF/Tを比べたとき、上記のような「様式」や「立場」に関する変化よりもむしろ「紹介ブック」が挙げる他の側面、すなわち「国」「社会」「環境」という側面で認められた変化が、より決定的だった。つまり、F/Tが顧慮する作り手と観衆の、その出自の変化、別の言葉で言えばF/Tのターゲットの地政学的変化である。
2.作り手の出自の変化──西洋からアジアへ
従来のF/Tでは、多かれ少なかれ、西洋に拠点を置く作り手たちの仕事が目立った。また彼らの一部は、繰り返しF/Tに招かれてもいた。さらに彼らは往々にして、西洋のさまざまなフェスティヴァルに繰り返し招かれる人々でもあった。たとえばドイツのリミニ・プロトコル、イタリアのロメオ・カステルッチがそうだった。
ひいては、F/Tと西洋の複数のフェスティヴァルによる共同製作というケースもあった。そうして制作された作品は、F/Tのほかに、その複数のフェスティヴァルでも上演された。日本と西洋の双方で一定の反響を望める作品が、そこでは制作されていた。
一方、今回のF/Tではそのような作品はほぼなかった。そして、より前景に歩み出たのは西洋ではなく、アジアだった。「今年から独自のリサーチとネットワークを駆使した「アジアシリーズ」のプロジェクトがはじまった」と「紹介ブック」は誇らしく宣言する。そして「初年度となる今回は、2000年代に入り韓国で話題となっている「多元(ダウォン)芸術」を特集」し、「中国、ミャンマーの気鋭のアーティストの新作と合わせて、現在のアジアの舞台芸術の潮流を考える」内容となった。
韓国の作り手による「多元芸術」の作品としては、ソ・ヒョンソクの『From the Sea』が特筆される。訪れた参加者は、視覚も聴覚もコントロールされたうえで、俳優と完全に一対一で町を歩く。対話を繰り返し促され、それに応じてこちらの口にする言葉が、そのまま作品のテキストの一部になる。参加者自身がテキストの発信者となるがゆえに、これ以上、受け手の心に響く言葉はない。
また中国およびミャンマーの作り手による作品も今回のF/Tの白眉だった。実験劇団の『ゴースト2.0 〜イプセン「幽霊」より』(ワン・チョン演出)は、京劇のそれを思わせる簡素な道具立てと巧みな映像(機器)を活用して、現代中国が抱える世代間の断絶や特権層の問題をあぶり出して見せた。モ・サの構成・出演による『彼は言った/彼女は言った』は、ユーモアあふれる手続きで観衆を巻き込みつつ、ミャンマーの日本を含めた外国による支配、また独立後の近過去と現代について、真摯な省察の態度を受け手に迫った。
意外性や時局性の極めて豊かなこうした作品群は、従来のF/Tで西洋からの作り手が発表した作品と比べても、まったく遜色ないものだった。それどころか、多くの新たな地平を切り開き、実に新鮮な印象を残した。
3.観衆の出自の変化──「西洋と日本」から「日本」へ
一方、作り手ではなく、受け手すなわち観客に関しても、今回は従来のF/Tと比べ、変化があった。
この関連でまず指摘したいのは、日本の作り手による、英語字幕の付いた公演がごくわずかだったということだ。従来のF/Tではこの種の公演へ、日本の作り手たちの最新の仕事を知ろうとする、主にヨーロッパからのジャーナリストやドラマトゥルク、フェスティヴァルのスタッフが来場する光景があった。そうした光景は、今回のF/Tでは見られなかった。もっと踏み込んで言えば、Non-Japaneseを観客として念頭に置いた公演がごく少なかった。
結論から言えば、今回のF/Tは作り手だけでなく観客についても、そのターゲットをより近い範囲へとシフトさせていたように思われる。
象徴的な例が『ロボむつ』だ。冒頭にも記したが、見聞きされる要素の多くが日本で生まれ育った観客を前提としたもので、そうではない観客についてはほぼ想定外のようだった。またこのことは、あわせて上演された『もしイタ 〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』についても同様だった(テーマである高校野球がそもそも、日本では万人が理解するが、その外では相当の説明を必要とする文化だ)。ふたつの公演とも、英語字幕があったところで、コンテクストを補うことは、また日本で生まれ育ったのではない観客から大きな反響を得ることは、困難だったに違いない。
また、日本で生まれ育った観衆に対する顧慮はオープニング・イヴェントについても言えた。中心的な役割を果たしたミュージシャン、大友良英は、全国区のテレビドラマ『あまちゃん』の作曲家として知られる人物だった。行われたダンスについては、従来のF/Tでたびたび前景化されたフラッシュ・モブと入れ替わるようにして、盆踊りが基調となった。
気をつけたいのは、上記の例のいずれも、福島ないし東北というテーマに関わるものであり、その意味では過去数回のF/T──イェリネク作品を繰り返し上演した──と同じく、同時代日本の過酷な現実から目をそらすものではない、ということだ。ただ、今回のF/Tが視線を向けた先の観衆が、「西洋と日本の」というよりは、より「日本の」それだった。彼らの反響をより得られるような形で、福島・東北というテーマは今回のF/Tで扱われた。
以上のような、観衆に関するF/Tの方針変更は、ちょうどフィッシャー=リヒテが『演劇学へのいざない』で言う、「ローカルな観衆にとって次第に疎遠なものになっていくフェスティヴァル美学」(230頁)から離れようとする試みととれるものだった。また、かつて筆者は当時ヴィーン祝祭週間(Wiener Festwochen)の演劇部門芸術監督だったシュテファニー・カープから、国際的に評価されうる作品と国内で大きな反響の得られる作品、それぞれの演目数のバランスをとることが実に難しいという話を聞いたことがあるが、こうしたバランスに関しての軌道修正を、F/Tは図っていたように見える。
4.今後の展望と課題
再び、『ロボむつ』のなかで繰り返し歌われていた曲『Can you celebrate?』に戻ろう。曲の表題はおそらく、日本の多くの人々のもとで「祝ってくれる?」の意だと解されている。だがこの文は実際のところ、「あなたはどんちゃん騒ぎができますか?」といった意味だ。「原発をめぐるこの状況を知って、それでもあなたはどんちゃん騒ぎができますか?」──『ロボむつ』の作り手が意図していたかどうかはわからないが、筆者はこの曲が歌われるたび、曲の表題も含めて、これを他の箇所にも頻出する、東北から東京へ向けられた批判的メッセージのひとつとして受け取った。
ただ、そのメッセージは東京へ向けられてはいても、決してF/Tへ向けられてはいない。F/Tは、日本と世界で進行中の課題から目をそらすまいとする人々による、どんちゃん騒ぎではまったくないフェスティヴァルだ。このことは、従来も今回もまったく変わらない。今後もきっと変わることはない。
とはいうものの、西洋を主な交流相手とした舞台芸術ネットワークから(一時的に?)離れたことは確かな変化だ。F/Tはこれまで回を重ねるたび、西洋を主とした舞台芸術界に日本の作り手が飛び込むためのスプリングボードとしての機能を備えていき、チェルフィッチュや庭劇団ペニノ、Port Bといった作り手たちが、F/Tを多かれ少なかれ経由して、西洋へ発表の場を広げた。そうした流れは当座失われたように見える。F/Tはおそらく、今後しばらくは、西洋よりも、主として東アジア・東南アジアを視野に入れたものになる。次回2015年のF/Tではミャンマーが特集される予定だといい(「紹介ブック」7頁)、また「Japan Times」(2014年12月10日付)によれば、そのあとにマレーシアが続く。
この流れを受けてシンプルに考えれば、今後のF/Tで発表される、日本に拠点を置く作り手の作品が国外でも公演を果たすとして、その主な行先はおそらく、西洋よりもアジアの国々になる。その際には行先の国と日本、双方で一定の反響を得ることを前提に作品が制作されるかもしれない。ともすれば、現在は日本の「ローカルな観衆」を念頭に置いている作り手の制作方針が、変容を迫られるかもしれない。一方で、この「ローカルな観衆」がなおざりにされないよう、顧慮されなければならない。
こうしてみると、F/Tは今回、地政学的な方針変更を行ったが、今後も引き続き、これまでと同様の課題にやはり向き合い、繰り返し解決策を探ることになるだろう。何より、F/Tが単なるどんちゃん騒ぎにならないように、またそうみなされないようにするために。