世田谷パブリックシアター企画制作『炎 アンサンディ』(2014年シアタートラム)より 麻実れい 撮影:細野 晋司(Shinji Hoshono)
世田谷パブリックシアター企画制作『炎 アンサンディ』(2014年シアタートラム)より 麻実れい 撮影:細野 晋司(Shinji Hoshono)

 オペラ『蝶々夫人』第一幕冒頭で、蝶々さんが家から持ってきた小物を袂から次々と出してピンカートンに見せていく場面がある。仏像を取り出す蝶々さんにピンカートンが何かと問う、「ご先祖様の魂です(”Son l’anime degli avi”)」と答える蝶々さんにピンカートンは「ぼくも崇拝しなくちゃ(”il mio rispetto”)」と言う。「大変な価値のある人だ、美しくはないけれど(”Vale un Perú. Bello non è.”)」とコーラスに歌われるなど、すでに距離を置かれ皮肉に描写されるピンカートンの、異国の若い花嫁を迎えて興奮し、思慮に欠けた言動をとる有様が、微苦笑とともに観客の目に映るように計算された場だ。

 言うまでもなく、このプッチーニ作品の初演時(1904)の観客には、偶像を崇拝するのは野蛮人だというキリスト教世界の通念が共有されていた。だからピンカートンが仏像を拝む、と言い出すのは、文明の遅れた東洋の娘の歓心を買うための一時的な気の迷いとはいえ、とてつもない愚かなことだ、という文脈が生まれる。そのすぐ後で、蝶々さんがキリスト教会に赴いたことを告白し、ピンカートンの神に服従すると言い出すことで、この「危機」はうまく回避されるのだが、敬虔なキリスト教徒の観客は、ピンカートンのこの台詞に息を呑んでいたことだろう。

 偶像崇拝の禁止。旧約聖書の十戒に書かれたこの禁忌は、日本人にとって(あるいはキリスト教徒でもイスラム教徒でもない全ての人間にとって)理解しがたいものの一つだ。私たちは仏像に魂が——あるいは仏が——宿ると考える。だがヨーロッパ人にとって、神を象り、神の代理として何かを拝む、ということは冒涜に他ならない。なぜなら神は象れるものでも、代理されるものでもないからだ。

 人智を超えたものは他の何かによって代理/表象(represent)できない。ユダヤ=キリスト教の伝統とは別に、プラトンが『国家論』で「模倣」(mimesis)の劣位とそれに熱中することの危険性を説いて以来、芸術は、とりわけ舞台芸術は、胡散臭いものとして見られるようになった、と説いたのはジョナス・バリッシュ(Jonas A. Barish)の『反演劇的偏見』(The Antitheatrical Prejudice, 1985)だった。アドルノは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と書き、『ショア』の監督クロード・ランズマンが『シンドラーのリスト』を批判して「理解するという企てにはまさしく絶対に猥褻なところがある」と述べて、ホロコーストという残虐を表象し、「物語」として理解することの不道徳性を指摘したが、彼らの異議申し立てもまた、ヨーロッパ文化の根幹を形成する二つの重要な思想潮流が表象行為を「不純」でいかがわしいものとしてきたこと(そして表象行為の上位に「実体験」を置いたこと)と深いところでつながっている。

 だからこそ、私はこう考える。「筆舌に尽くしがたいこと」を敢えて語らない、という決断は、文化的制約を超えた普遍的な倫理上の要請であるかのようにしばしばみなされるが、私たちは東洋の野蛮人としてその前提を疑ってもよいのではないか。たしかに蝶々さんはピンカートンの神に服従し、偶像を崇拝することを拒否したかもしれないが、私たちはいまだに表象に託して何事か語っているではないか。それに、バリッシュの言う「反演劇的偏見」にさい悩まされてきたはずのヨーロッパの演劇も、滅びなかったではないか。人類は所詮、物真似という下品な愚行をやめられないのだし、「現実」を生きることの重みや苦しみに比してはるかにお手軽に語られる「物語」を「理解」して、現実を生きた気になっている。そんな現状を賢しらに批判したり、演劇表象の「限界」を語ったりすることは空しい。演劇研究者としては、「ぼくのかんがえたただしいえんげき」を頭の中でこねくり回すより、それこそ「現実」の演劇に向き合ったほうがよい。

 だが、2014年9月28日〜10月15日に世田谷パブリックシアターで上演された『炎 アンサンディ』を見終えたとき、私は複雑な思いに駆られた。いや、もっと率直に言おう。私は不愉快になった。この作品は1975年にはじまり長期化・泥沼化したレバノン内戦を背景にしている。登場人物や物語は劇作家が作り出したものだが、宗教と民族の違いが生み出した憎悪と復讐と殺戮の連鎖の末死んでいった人たちのことを思い起こさせるように書かれている。それはすでに「歴史」ではあるが、遠い時代や土地の「出来事」「物語」として語るにはあまりにも生々しい「現在」でもある。十代半ばのとき、宗教の異なる恋人との子供を出産後間もなく取り上げられ、その恋人も殺された主人公のナワル(麻実れい)は、劇が始まったときには六十代で、五年間誰とも口を利かぬままに死んだところである。双子の姉弟に宛てられた遺書のなかで、彼女は姉ジャンヌ(栗田桃子)に父親を探して封筒を渡すように命じ、弟シモン(小柳友)に二人の兄(出産後ナワルから取り上げられた赤ん坊)を探して封筒を渡すように命じる。カナダに生まれた(と信じ込んでいる)二人の子供たちは、母親の遺言に従ってレバノンに赴き、父と兄を探すなかで、彼女の人生が内戦によって文字通り蹂躙されたことを知る。絶望と苦痛に満ちたナワルの人生がフラッシュバックの手法で語られる。麻実は、ナワルという「悲劇のヒロイン」を演じ、よく響く朗々とした声と、完璧にコントロールされた身体所作と表情で、深く激しい感情を観客に示した。

世田谷パブリックシアター企画制作『炎 アンサンディ』(2014年シアタートラム) 左より:小柳友、麻実れい、栗田桃子 撮影:細野 晋司(Shinji Hoshono)
世田谷パブリックシアター企画制作『炎 アンサンディ』(2014年シアタートラム) 左より:小柳友、麻実れい、栗田桃子 撮影:細野 晋司(Shinji Hoshono)

 それはよくできた「作り物」だった。そして観客はその「作り物」を、真実の物語だと信じ込むように促されていた。私が見た回の観客の大半は、贋物を本物と信じ込ませる演劇の魔法にかかって、あるいはナワルの悲惨な境遇に衝撃を受け、あるいは歩んだ人生と引き換えにナワルが得た強靱な精神に感動していた。私はその全てが不愉快だった。麻実れいの技量の確かさも、他愛もなく騙されてしまう観客も、そして演劇なんてものは、その二者に共犯関係が成立すれば、それ以上のことを追求する必要はないのだ、と高をくくっているように思える演出家や制作者たちも。公演プログラムに演出家の上村聡史はこう書いている。

 この『炎 アンサンディ』は“戦争”と“愛”といった非常に大きなテーマを扱った作品ですが、この作品が観客の皆様にとって、もしかしたら凄まじい苦しみを共有してしまうような災いも【ママ】なりかねませんが、その災いから転じて福にもなるような愛を発見できるような、明日、明後日、十年後、百年後の生きていく上での財産にもなる作品に仕上げたいと思っています。

 作品の内容に衝撃を受けるかもしれないけれど、その「重い」体験はみなさんのためになるかもしれないから甘受してください。なるほど、配慮の行き届いた、「見物に深切」な言葉だ。おそらく上村は役者にも座本にも深切なのだろう。だがここに決定的に欠けている思考は、この作品の衝撃を——観客が「凄まじい苦しみ」と捉えかねないものを——保証しているのは、レバノンの地で多くの人々が虐殺された、という事実であり、作り手も受け手も、その事実を利用しているのだ、ということについての反省である。これが『タイタス・アンドロニカス』の上演であれば、私は素直に感動しただろう。憎悪と復讐と殺戮の連鎖の末、次々と無残な死を遂げていく登場人物のうち、ラヴィニアか誰かを麻実が演じていたら、その見事な造形と「作り物」を真実だと思わせる演劇の魔術に酔っていただろう。上村も、今回とほぼ同じ内容のことをプログラムに書けたはずだし、私も「凄まじい苦しみ」は大袈裟だな、と思いつつ、とくに反撥を感じることはなかったろう。だが『炎 アンサンディ』に描かれているのは、本当かどうかも定かではない古代ローマの伝説ではない。生々しいレバノン内戦という現実なのだ。

 しかも『炎 アンサンディ』の劇作家ワジディ・ムワワドは、悲惨な現実を普遍化し、神話化するべく、自らが紡ぎ出した物語をオイディプス王の物語と接続する。姉弟が最後に発見するのは、自分たちが探していた兄は父でもあった、という「衝撃的な」事実である。母親は獄中でレイプされて妊娠した結果、カナダではなくレバノンで双子を産み落とした。対立する派閥のリーダーを暗殺したことで捕らえられたナワルは、その人格を破壊するための拷問の一環として繰り返しレイプされるのだが、彼女の拷問係としてレイプにあたったのは、生まれて間もなく生き別れになった彼女の長男ニハッドだった。母と交わり呪われたオイディプスが、ニハッドと重ね合わされる。こうして表象不可能のはずの悲惨な現実が、理解しやすい「物語」へと変貌を遂げる。

 そう、ムワワドもまた、自らの過去の歴史を利用している。レバノンから亡命したアラブ系カナダ人の劇作家として世界の演劇シーンにうってでるにあたって彼がとった戦略は、世界の誰もが注目するような自民族の悲惨な運命を語りつつ、それを「理解しやすいように」西欧の古典悲劇と結びつけることだった。ムワワドがレバノン内戦にどの程度巻き込まれた「当事者」であったかは知らない。だが、ランズマンふうに言えば、理解することの猥褻さに舌なめずりしながら観客が寄ってくると彼がしたたかに計算していたことは明らかだ。ムワワドは当然、アドルノやランズマンらが残虐の表象不可能性を論じたことを知っていただろう。もしかすると彼にとってその禁忌はひどく「ヨーロッパ的」であり、アラブ系の自分とは無縁の伝統だとも感じていたかもしれない。いずれにせよ、彼は自らの当事者性が当然予想されうる批判への免罪符になるとわかっていたはずだ。「物語」として理解することの不道徳性をヨーロッパ系カナダ人が説いてみても、悲惨な運命を体験した自分が語らなければ、他に誰が語りますか、と反問すればひとたまりもない、とよく理解していたはずだ。

 だから私はムワワドの原作戯曲に不愉快さを感じることは殆どない。あざとく計算高いその手法に辟易はするものの、劇作家として生き延びるために、東洋の野蛮人ならぬアラブの野蛮人として振る舞ったその戦略には畏敬の念すら覚える。だがその日本語版上演に、ここまで不愉快さを感じるのは、ムワワドの計略に匹敵するような仕掛けが施されていなかったためだ。自分たちは詐欺師である、という自覚を持っておらずに詐欺を働いていたからだ。

 演劇は所詮表象に過ぎない。だが表象に過ぎないものを唯一絶対の真実と観客に思い込ませるところに演劇の醍醐味があり、演劇がこれまで(衰亡の危機に幾度となく晒されながらも)滅びなかった秘密がある。だが騙すほうには騙すなりの倫理がなければいけない。自分たちが提供するものは「本物」「真実」ではなく、その影にすぎないものを、まるで正真正銘の本物であるかのように、観客をペテンにかけているのだ、とよく自覚していなければならない。そして騙すことについての良心の呵責を感じる一方で、自分たちのペテンは手品と同様、種も仕掛けもあり、その種や仕掛けは絶えざる努力によって得られた上演の諸々の技術に支えられているのだ、という誇りを持っていなければならない。両者が共存する緊張感において、演劇とはその潜在的可能性をもっと発揮するものだからだ。

 今回の上村聡史演出は、ただ「上手く書かれた戯曲」を舞台に立体化してみせただけだった。何かを表象することが、その何かを冒涜する行為だと捉えられる可能性がある、と危機を抱いているようなそぶりは微塵も感じられなかった。今回の上村は思慮に欠けたピンカートンだった。アラブの野蛮人であるムワワドが偶像を拝んでみせたのを見て、ムワワドに惚れ込んでいる上村は、自分も拝んだ。それがとてつもない愚かな行為だと思われることを知らずに、丁寧に、上手に拝んでみせた。私は、それが不愉快だったのだ。ムワワドは純粋な蝶々さんとは違って、海千山千の遣り手であり、野蛮人である偶像を崇拝するのを見せつければ文明人は動揺するだろうと計算していたから拝んだのに、上村は見事に騙されたのだ。

 私たちは偶像を崇拝すべきではないのか。タイトルに掲げたこの問いについて、もう答えは出ている。私たちは、偶像を崇拝する必要がある。だが、偶像を崇拝することの愚かさを知って崇拝しなければならない。演劇はそのような二重の意識をもってのみ成立するものだからだ。演劇には種も仕掛けもある、だが作り手も、受け手も、そのことに知らぬ顔を決め込むことで、はじめて演劇は魔法となるのだ。