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孫暁星『群衆』 天津初演 天津群衆芸術館 © 劉毅軒
孫暁星『群衆』 天津初演 天津群衆芸術館 © 劉毅軒

 ドキュメンタリー・フィルムとドキュメンタリー・シアター。ドキュメントという言葉をめぐるジャンルの違いは、よく議論の俎上にのぼる。しかし、映画と演劇といっても、本質的には同じ要素であるといっていいのではないか。

 たとえば、演劇の空間でリアルさを謳って実際の人物を舞台にあげようとも、それはフィクションの空間である以上、すべては虚構であるとはよく言われる。たしかに、実際の人物であるかどうかを確かめるすべは観るものにはない。ただし、それはフィルムであっても同じだ。実際にその人物が本当の人かどうかはわからない。

 また、出来事の一回性というものが、ドキュメンタリー・フィルムにはある、とも言われる。しかし、何度もテストをして反復された上に撮られた、出来事の一回性かもしれない。それは、あくまで切りとられた反復の一環であり、演劇で舞台にあげられたものも同じだ。

 なぜか、フィルムの方がドキュメントの信憑性は高いと思われがちであるが、実際の人物であるとされる人が出てきて、本人として舞台で話をしたならば、演劇の方が信憑性は高くなるのではないか。フィルムの黎明期ならば、演劇よりもフィクションの空間が強く表れる場として、疑いのまなざしは映画やテレビの方が強かったはずである。だから、フィルムやテレビを見慣れただけ、と言えてしまう。

 少なくとも、フィルムも、本当に事実を映しているかは、観るものにとって知るすべはない。それは、偽なるものの力能として、観るものに与えるイメージを構築するための方法の一つに過ぎない。そもそも古典的であっても、自然を模倣するのが芸術であれば、つねにそれは表象のなかにある。フィルムとシアターにおけるドキュメントというものは、どちらも現実を違った側面から見るための装置として、「事実」なるものを映すことを基盤においている。

 だから、ドキュメント、ファクト、アクチュアル、リアル。どのような言葉を使ってもいいが、フレームによって切りとられたフィルムや舞台の空間は、フィクションであるがゆえに、事実であるかのような要素を必ずどこかに必要とする。

 これを前提として、昨今のドキュメンタリー・シアターなるものも考えてみるべきだろう。いわば、装置としてのフィクションのなかにドキュメント性がいかに作られているのか。

 二つの事例から考えてみたい。

 まず中国、天津在住の若手の演出家、孫暁星が北京の蓬蒿(ポンハオ)劇場の南鑼鼓巷国際演劇祭で演出した『群衆』という作品について。

 これは、「紙老虎(Paper Tiger Studio)」という北京を代表する実験劇団と、ミュンヘン・カンマシュピーレの共同製作となっている。ハンス・ティース=レーマンの『ポストドラマ演劇』、もしくはリミニ・プロトコロルなどの作品についても演出家は知っているし、学んでもいるだろう。

 作品は、天津に暮らす一般の人々が、それぞれ人生の特異な経験を語る、というものだ。登場する10人弱の人たちは、実際の人々であり、プロフェッショナルな俳優は一人もいない。老若男女の実在する人たちが、自身の経験した人生のエピソードを観客に語っていく。そこには子供もいれば、老人もいて、それぞれの記憶に残る出来事が、述べられる。

 むろん、たんに舞台で自分たちの経験を、たとえ特異な経験であっても、話すだけでは、舞台として成り立たない。演出としての工夫はある。同時に撮られたスクリーンに映し出される映像や舞台で話をするものたちも特徴に富んだキャラクターをもっており、あくまで市井の人々である、と思わせる。全体的には、シンプルな作品の作りであって、それゆえに「本人」たちであるという、事実性がストレートに現れるようになっている。

 しかし、だからこそ、事実というもののフィクション性が逆説的に浮かんでくる。登場するものたちは、かなり感情的になって話し、それが演技であるのか、実際のキャラクターであるか、その境界線は徐々に曖昧にされていく。いわば、あまりにも、できすぎた本当に見えるのだ。事実とフィクションのゆらぎはそこで表れ、その揺れが異化するための装置として現れる。基本的には、いわゆるオーソドックスな昨今のドキュメンタリー・シアターとして、位置づけられたとしても、そこにはフィクションの要素が、当然だがある。

 他の一例として、逆側からドキュメントなるものの枠を広げている作品を挙げてみる。いわゆるドキュメンタリー・シアターと呼ばれなくとも、ドキュメント的な要素をもつもの。同じく蓬蒿(ポンハオ)劇場の南鑼鼓巷国際演劇祭で上演された、佐藤信が演出した『中国の一日 2014』という作品である。

『中国の一日2014』 北京公演 北京蓬蒿(ポンハオ)劇場 © 孫志誠
『中国の一日2014』 北京公演 北京蓬蒿(ポンハオ)劇場 © 孫志誠

 この作品は、ドキュメントの始祖ともいえる、記録文学の一つに着想を得ている。それは、中国近代リアリズム作家の茅盾(マオ・ドゥン)が、1936年に出版した『中国の一日』という本だ。これは、そもそもマキシム・ゴーリキーが、当時ソヴィエト連邦で進めていた企画をもとに作られている。ゴーリキーは、世界各地で起こった一日の出来事を記録して、『世界の一日』という本を作ろうとした。その内容を伝え聞いた茅盾は、中国版の出版を試みた。しかも、ゴーリキーが唱えた収録方法を忠実に再現することも含めて。

 それは、ありのままの民衆の姿を、ある一日の光景によって切りとるために、中国各地のさまざまな地域や階層の人々に、実際にその日に起こった出来事を書いてもらうというものだ。だから、選ばれた1936年5月21日は、とくになにごともない、ありふれた日だった。もとのゴーリキーの企画の方は、結局日の目を見ることなく、途中で頓挫してしまったが、『中国の一日』版の方だけが出版された。

 佐藤信が演出した『中国の一日 2014』という作品は、それを2014年の5月21日に移している。2週間のワークショップで、一般の観客にも見せるのだが、参加者は20人ほどで、プロとして活動する若い演出家、俳優、ダンサーもいるが、学生や一般人など、はじめてワークショップに参加した人もいる。参加者は、北京が主だが、天津や重慶など地方都市から来ている人もいる。

 作品は、大まかにはエチュードで作られている。ある一日のどこかの街角の出来事や風景を映すように、行き交う人たちをそれぞれが演じる。ときに朗読が行われるシーンもあれば、歌を歌うシーンもある。マイムやダンス、といったようなシーンもある。その意味で、一見するとドキュメンタリー・シアターの作品とは呼ぶことはできない。演劇としての抽象化はされているからだ。

 しかし、これは逆に事実という要素を手放さない。舞台に立つものたちの身体性は歪だ。プロフェッショナルな動きをするものもあれば、まったく素人の動きもある。雑多な身体性が舞台には現れている。それは、舞台の表れとしてはドキュメンタリー・シアターでなくとも、ドキュメントの要素を入れ込んでいるのだ。

 だからこそ、作品の基本線がより鮮明に浮かぶ。たとえば、背景に映像で流れている日付が、2014年5月21日から1936年へともどったり、もしくは進んだりするが、これなどは、いつの時代も、政治に翻弄されながらも民衆というものは、したたかに生き続けていることを提示しているといっていい。佐藤信とアジア演劇という問題、もしくはアウグスト・ボアールを引き合いに出すまでもないが、現代における民衆の姿とはなにか、という視点が核として、この作品のなかには残っているのだ。

 本当の意味でのドキュメンタリー・シアターの本質としてあるのは、このような今までとは違った視点で、現実なるものを映し、作品を構築しようとすることである。この作品の場合ならば、アナール学派、もしくは民衆史的な視点といったことだ。覆われた表象を批評するための「事実」。その本質は60年代に隆盛を誇ったドキュメンタリー・フィルムも同様であって、ドキュメントが映すものは抵抗のための性質の一つである。だからこそ、フィルムとシアターというジャンルの違いにおける差はない。そして、ドキュメントという要素は、あくまでなにをあばくのか、というための方法としてある。