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米倉斉加年氏 写真提供=ヨネクラマサカネ ドットコム
米倉斉加年氏 写真提供=ヨネクラマサカネ ドットコム

 米倉斉加年は、「まさかね」という難読な名前にふさわしく、一筋縄ではいかない知性と感性と戦略論と表現力を持ち合わせていた。

 舞台を中心に映画、テレビで活躍した「役者」であり、劇団民藝や海流座で「演出家」を務めた一方、「絵本作家・画家」としても『魔法おしえます』、『多毛留(たける)』で2年連続、ボローニャ国際児童図書展でグラフィック大賞を受賞するなど才能を発揮した。亡き井上ひさしが『多毛留』に次のような推薦文を寄せている。

 「私は役者としての米倉斉加年に脱帽する。知的にひねくれた人物像の創造については、彼は本邦第一の能力を持っていると信ずるからである。だが、演出家としての彼に私は二度脱帽する。彼の問題意識の鋭さは常風をはるかに超える。しかし、画家としての彼には三度脱帽しなければならない。細密巧緻な彼の絵が常に立ちのぼらせている、この怪しい雰囲気は私の魂を人界の外へ吹き飛ばしてしまう。そしていま新たに彼の文章に四度脱帽しなければならない。簡にして潔、読む者の胸をえぐる。それにしても米倉斉加年氏よ、いったい君は私たちに何回帽子を脱がせれば気がすむのだ」

 ひさし氏らしい気配りとユーモアを込めながら、的確に米倉評を行っているので長めの引用となった。
 私はやはり、演劇人としての米倉に絞ってその軌跡を追いながら追悼したい。

 1934年、福岡市生まれ。西南学院大文学部を中退して57年、劇団民藝の水品演劇研究所に入所。民藝の俳優教室の第3期生なのだが、米倉は同期生ら20人と59年、「劇団青年芸術劇場(青芸)」を結成した。

 この青芸が、戦後日本演劇の転換期を象徴するユニークな劇団である。新劇の民藝系の若手劇団なのだが、安保闘争に参加、社会党・総評・共産党など共闘下の「安保阻止新劇人会議」だけでなく、反代々木系の全学連主流派のデモにも加わった。新劇界で異端の劇団だった。

 スタッフが強力。劇作家の福田善之、演出家の観世榮夫、作曲家の林光、美術家の朝倉摂らがそろう。福田の『遠くまで行くんだ』、『長い墓標の列』,『袴垂れはどこだ』など、話題作を次々と上演したものの、青芸は66年に解散した。青芸の研究生には、唐十郎、佐藤信など後に小劇場運動で活躍する演劇人がいて、解散後、彼らの小劇場系「六〇年代演劇」が花開く。

 青芸の中心メンバーだった米倉は、師事していた宇野重吉のアドバイスもあり、65年に民藝へ戻った(劇団史は「入団」と記す)。この年に上演されたベケットの『ゴドーを待ちながら』の舞台が忘れられない。フランスに演劇留学した渡辺浩子の初演出作品で、エストラゴンに米倉、ウラジミールに宇野、ラッキーに大滝秀治、ポゾーに下條正巳。5年前に文学座で日本初演されているが、
米倉と宇野のコンビが絶妙で魅力ある舞台となった。不条理劇ながら人気を得て再演を重ね、米倉は本作などの演技で第1回の紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞している。

『ゴドーを待ちながら』(作=サミュエル・ベケット 訳・演出=渡辺浩子)より 左より宇野重吉(ウラジミール)と米倉斉加年(エストラゴン)。
『ゴドーを待ちながら』(作=サミュエル・ベケット 訳・演出=渡辺浩子)より
左より宇野重吉(ウラジミール)と米倉斉加年(エストラゴン)。 写真提供=劇団民藝

『ゴドーを待ちながら』(作=サミュエル・ベケット 訳・演出=渡辺浩子)より 左より米倉斉加年(エストラゴン)と宇野重吉(ウラジミール)
『ゴドーを待ちながら』(作=サミュエル・ベケット 訳・演出=渡辺浩子)より
左より米倉斉加年(エストラゴン)と宇野重吉(ウラジミール) 写真提供=劇団民藝

 米倉は同じ渡辺演出で67年、松本典子との二人芝居『フォー・シーズン』(A・ウエスカー作)など好演を重ね、幅広い表現力と存在感で民藝の看板俳優の一人になっていく。

 米倉の演出家デビューは、74年の『銅の李舜臣』で韓国の詩人・金芝河の作品が原作。翌年の2度目も同じ金芝河の詩を基とした『鎮悪鬼(ちのぎ)』で、当時の韓国の閉鎖的な現状への糾弾が込められていた。

 民藝の演出家として忘れらない功績は、創立者メンバーの大ベテラン女優、北林との創作活動だ。93年の『粉本楢山節考』は深沢七郎の原作を北林が脚色・主演、米倉が演出した。同じように北林脚色、米倉演出は、『黄落』(97年)、『蕨野行』(99年)と続く。高齢者問題を観客にしっかり考えさせる演出が見事だった。

 その米倉が2000年、民藝を退団すると初めて聞いた時は、演劇担当記者として驚いた。劇団創立50周年、直前には『オットーと呼ばれる日本人』(木下順二作)を、米倉の手で新たに演出し直したばかりである。70年代初め、民藝は幹事会のアンケートをめぐり、退団者があいついだ。その再現とならないのか。

 米倉はなぜ退団するのか、経済面を含め、率直に語ってくれた。「ひとつの劇団で芝居を続けるのは楽だが、演劇というものをものをもう一度考え直してみたくなった」と言う彼の言葉を紙面化した。
 米倉は07年、劇団海流座を立ち上げ、『父帰る』、『彦六大いに笑う』、『タルチェフ』などを上演している。

 ただ、素直な感想で言えば、芸術座を中心とする菊田一夫作『放浪記』で86年から演じ続けた林芙美子(森光子)の友人、白坂五郎役が鮮明に残る。ぎりぎりに生きている人々の中で、白坂の大らかさが観客の救いとなるのだ。