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トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed
トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed

 ロンドン中心部にあるナショナル・ポートレート・ギャラリーの3階、チューダー朝の王侯貴族の豪華な肖像画がずらりと並ぶ中に、目当ての画はあった。その画の男性は、薄い唇を真一文字に結び、やや不安げな目つきでも穏やかな印象がある。だが実は彼こそが、かの悪名高いリチャード三世である。彼の容姿は「お粗末な姿かたち」であるとされながら、長い歴史の中で多くの文学者、歴史家、そして演劇人と観客たちがその魅力の虜になった。今年7月にロンドンで開幕したトラファルガー・トランスフォームド(Trafalgar Transformed)の『リチャード三世』もかなり前から話題となり、多くのファンの興奮と観客の期待をかき立てた。

 トラファルガー・トランスフォームドは、ジェイミー・ロイド(Jamie Lloyd)演出のもとに話題の俳優を起用し、新たな観客層を開拓しようとするトラファルガー・スタジオの試みである。ショッキングピンクや眩しい黄色をテーマカラーとしたサイトやチラシのデザインからも分かるように、パンクで過激な演出が施されているために、しばしば「In-yer-face的」(暴力的・性的に過激な表現を行うイギリスの演劇がこう呼ばれる)であるとされ、賛否両論となることもある。シェイクスピア作品はジェームズ・マカヴォイ(James McAvoy)主演の『マクベス』に続き、2作目である。今回プロダクションは、映画『ホビット』やテレビドラマ『シャーロック』で人気急上昇中のマーティン・フリーマン(Martin Freeman)を主演に抜擢した。彼がプロの俳優としてシェイクスピア作品を上演するのは初めてだと言う。
 『リチャード三世』とスター俳優の組み合わせは比較的相性が良いと言えるだろう。いわゆる「薔薇戦争」を描いた『ヘンリー六世』3部作と比較すると顕著だが、他の歴史劇が大きな歴史の中で翻弄される人々を群像的に描いているのに対して、『リチャード三世』はリチャードのキャラクターそのものに重きが置かれており、台詞と見せ場も多い。そのため、これまで名だたる名優たちがその上演史を飾ってきた。このような役を、今をときめく俳優に演じさせようというプロダクション側の目論見はあながち的外れでもない。
 しかし、新聞劇評の多くは俳優が魅力的であることを認めながらも、あまりぱっとしない評価を下した。『リチャード三世』という作品が本来持つ内容の重みと演出の意向との結びつきが弱く、結果として見た目ばかりがきらきらしくリアリティに欠ける作品とみなされてしまったようである。また、フリーマンをはじめ俳優たちの演技に対する評価は、チャーミングであると言われながらも、作品の評価および解釈と分離してしまっているものが多い。確かに実際見てみると、多くの要素を取り入れようとしてそれらが上手く接続できておらず、粗が目立つ印象はあった。だが、演出と俳優の演技をつぶさに見ていくと、これまでにはあまりなかったリチャード像がおぼろげに浮かび上がってくる。その試みは評価すべきではないだろうか。

トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed
トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed

 劇場に入ると幕は既に開いており、現代のオフィスのようにしつらえられた舞台の奥から、グレーのスーツを着て髪を後ろになでつけた男性が、片足をやや引きずりながら現れる。彼は舞台の前方まで出てくると、観客の方を睨みつけながら「悪党になり、この世のあだな楽しみの一切を憎んでやる」*1と、堂々と悪党宣言を行う。主人公のグロスター公リチャードである。彼はこの後、その宣言通りに悪逆非道な嘘と殺人を舞台上で披露し、血みどろの王座に上りつめ、最後には自らの横暴さゆえに転落する。
 本作品は、作品冒頭のリチャードの台詞にある「不満の冬」にインスパイアされ、ハロルド・ウィルソン政権時の不穏な空気とリンクさせるべく、舞台美術や衣装は1970年代の形式がとられた。アンやエリザベスなどの女性たちを含めた登場人物たちはスーツを着こなし、黒電話のような形をした電話機で報告を聞き、大きなテレビのブラウン管を見る。それらはレトロなスタイリッシュさを醸し、1970年代の社会背景と作品を視覚的にリンクさせていたが、テクスト作品における政治性と今を結びつけるものとして有効だったかは疑わしい*2。むしろ、それらの美術ではなく、俳優の演技に着目することによってこの『リチャード三世』はより刺激的な作品となっていたのではないだろうか。
 その代表はもちろんグロスター公リチャードである。フリーマンはどちらかと言えば穏やかでお茶目な(ように見える)タイプである。ローレンス・オリヴィエによる妖しい魅力溢れる二枚目な、あるいはイアン・マッケランやケネス・ブラナーによる狂気的演技力によって恐ろしげなリチャード三世と対峙するとなった時に、そんな温厚な彼がとった策は、リチャードの道化性を前景化することだった。
 彼は台詞の端々に皮肉を滲ませ、ことあるごとに間を上手くとり、観客の笑いを誘発する。リチャードによって夫と義父を殺されたアンを口説き落とすシーンは『リチャード三世』の中でも不可解で俳優の技量が問われる箇所となっているが、軽快な台詞と動きでアンを追いつめる。見事口説き落とした後のリチャードは、自らもそれが信じられず「え、ホントに?」とでも言いたげにアンが去った方と観客の方を交互に振り返る。そのシニカルな愛嬌に、観客は引き込まれていく。

トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed
トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed

 リチャードの道化性は、リチャード自身のパフォーマンスとまたフリーマンによる演技、そして演出が重なって強調されていく。顕著なのはリチャードが王になるシーンと最後に兵士たちの士気を高めるシーンである。ついに王権を継ぐ者が他にいなくなり、リチャードに王になるよう頼むしかないと他の者たちが相談している時、リチャードは打ち合わせ通り、大きな音で賛美歌を流すラジオと聖書を恭しく持ちながらそこへ登場する。フリーマンのリチャードはそこでさらに、一層大げさに足をひきずって現れた。そのわざとらしさが笑いを誘う。加えて、このシーンでは客席にも照明が当てられた。そもそもこの上演では舞台上にも少数のひな壇状の客席が置かれ、通常の客席と対面式になるように設えられている。俳優たちが舞台上の客席と同じように座り、いかにもと言った感じで王座を遠慮するリチャードを賞賛すると、それはテレビのバラエティ番組のヤラセを見ているのと似た形となった。つまりこの時観客は、リチャードをエンターテイナーとするタレント番組のオーディエンスとなったのである。客席はリチャードのお決まりのわざとらしさに沸き、彼を祭り上げようとするバッキンガム公のマイク回しに酔い、リチャードが王となった時にはむしろ拍手喝采すらしかねない空気になっていた。
 王となったその瞬間にリチャードのパフォーマンスは頂点を迎え、後はもう滑稽な道化としての道を転がり落ちるだけである。時の王の肖像画を掛けるにしても、リチャードのものは前二王より大きく、観客の失笑を買った。王となってけばけばしい赤い軍服に身を包み、独裁者然としている様も滑稽である。いよいよリッチモンド勢との戦いが目前に迫った時、リチャードとリッチモンドはそれぞれ、部下たちに対して鼓舞の言葉をかける。その仕方がまったく対照的であったことは、明らかに意図的だろう。リッチモンドの方は重々しく尊厳ある風に味方に声をかけ、彼らもまたそれに対して重々しい雰囲気で頷き返す。しかしリチャードは味方たちに囲まれ、軽いステップを踏みながら軽口を叩くように相手を嘲るばかりであり、味方たちはそれにニヤニヤ笑いを返す…まるで道化のおどけっぷりを楽しむかのようである。
 極めつけは最後の名台詞「馬をよこせ!」である。そもそも1970年代のオフィスにどう馬が登場し得るのか観客は期待していた。ロイドは、リチャードが殺した二人の幼い王子の亡霊に馬のかぶり物をかぶせて彼の悪夢に登場させ、次いでリッチモンドの影武者を殺された者たちの亡霊にすることで、リチャードが馬(すなわち過去の亡霊)に取り憑かれていることにしたのである。最後、彼はリッチモンドを目の前に「…馬?」と首を傾げる(観客はここでも笑った)。そして投げやりに「代わりに俺の王国をくれてやる、馬!」と叫び、銃の一発であっさりと散る。断崖絶壁の滑稽さであった。

トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed
トラファルガー・トランスフォームド『リチャード三世』 撮影:Marc Brenner、写真提供:Trafalgar Transformed

 このように、その演技に着目すると、ユビュ的なリチャード三世が描かれていたと考えられる。これが必ずしも成功していたと断言はできない。滑稽さを全面的に押し出すためには今ひとつ勢いが足りず、また演出もメリハリがなく、どっちつかずになってしまった感がある。だが、もしこれが70年代ではなく現代と結びつけることができればどれだけ大きな刺激を与えただろうか。道化が王になろうとした時、その滑稽さはより過激になり、やがて暴力へ、さらに独裁へと変わり、笑えなくなる。その恐ろしさを、今はまだ笑って済ませられている観客に伝えることができていたら、衝撃的な作品となり、リアリティも生じ得るだろう。滑稽なトップを笑っていられる内はまだ良いのである。だが、もしも笑える次元を超えてしまったら。リチャードの邁進を小気味よく思っている内に、彼が幼い王子2人を残虐に殺す決断をしてしまったように、笑っている内にとんでもない決断がなされてしまったら。その時観客の心は急速に冷えていく。奇しくも、本作品の初日は2014年7月1日。この日、安倍政権は集団的自衛権の行使を認めるべく、憲法解釈の変更を閣議決定した。日本人である私にとって、空恐ろしい一致であった。

(2014年8月1日観劇)

*1 以下、『リチャード三世』の台詞は、松岡和子訳(1999年、筑摩書房)から引用。
*2  なお、辻佐保子氏による劇評ではこの1970年代的な小道具について上演分析がなされている。詳しくはそちらを参照されたい。