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ジョエル・ポムラ『うちの子は』 ©Ramon Senera
ジョエル・ポムラ『うちの子は』 ©Ramon Senera

 2000 年代以降のフランスを代表する劇作家のひとりであるジョエル・ポムラ(1963年生まれ)は、主として60分から100分程度の比較的短い劇作品の書き手でありながら余分な小道具を一切使わず、シンプルや照明や音楽の使用、そしてマイクロフォンを使用した俳優の静謐な演技を通じて、現代の人間関係が抱える微妙さを問うことに長けている。

 2011年6月に『時の商人』で初の来日公演を予定していたポムラだが、震災の影響で公演は中止を余儀なくされ、急遽、同作品の舞台映像にナレーションをつけるという上演パフォーマンスが代わりに行われた(「ふじのくに⇔せかい演劇祭」)。すでに2本の戯曲の翻訳も公刊されていることから(ジョエル・ポムラ『時の商人/うちの子は』横山義志・石井惠訳、れんが書房新社)、改めての来日公演が期待される。

 このうち、2006年に初演された『うちの子は』は、「家族手当基金」という団体の委嘱を受け、ノルマンディー地方(フランス北部)の福祉施設での取材を元にして書かれた作品だ。ポムラは取材で見聞きしたことをフランスのみならず国際的に起こっている「現象」として捉え、グローバル化時代における家族関係を象徴する会話を10のオムニバスとして構成している。

 そのため、ポムラの戯曲は、描かれている場面や情景があまりに「普遍的」すぎて、これが自分の国の話なのではないかと思ってしまうという点に特徴がある。言いかえてみるなら、ポムラは1990年代以降の「グローバル時代の劇作家」であり、「フランスを代表する」とはいってもそれは彼がたまたまフランス人だったということにすぎない。

 本作で主に描き出されているのは、親から子への歪んだ愛情やそれに抵抗する子どもの不安や葛藤である。自動車のテレビ・コマーシャルによって表象されるような「幸せな家族」のイメージとは大きくかけ離れた、解決困難な問題を抱えつづけている家族。彼らは地方都市の郊外に住むブルーカラーの家庭ではあるが、けだしこのような「機能不全」は程度の差こそあれどこの家族においても見られるものあろう。

 ある若い女性は、親を見返すために出産・子育ての成功を自分に言い聞かせるのだが、その語りは憎悪に満ちている。ある小さな女の子は、離婚した父親に疎遠なまでの敬語を使い、別に会わなくてもいいと言い放ち、父親を落胆させる。ある少年は、劣悪な労働環境で身体を壊した父親を軽蔑し、罵詈雑言を浴びせかける。ある妊娠している女性は、破水しているにもかかわらず、赤ちゃんを生みたくないと膣口を閉めて引き止めている。

 こうした家族の状況のいったいどこに「出口」があるのか? ポムラが観客に問うているのはこのような問いにほかならない。

 子育てに疲れたある若い母親は、マンションですれ違った子供のいない老夫婦に抱えていた赤ちゃんをあげてしまおうとする。ある少年は、学校に出発する前になると母親に必ず呼び止められ、愛していることの証に「何か」を要求されている。ある母親は、ドラッグ中毒の若者の溜り場から出た遺体が息子にそっくりだということで遺体安置所に呼び出されるが、キャンプに行くという息子の言葉を信じ込みつづけ現実を認めることができずにいる。

 こうした家族の状況のいったいどこに「出口」があるのか。おそらくこれらは「家族」の内部に還元しきれる問題ではない。

 このように書くと本作が暗澹たるリアリズムの作品であるように思われるかもしれないが、実はそうではない。

 第一に、一切の小道具が排除された舞台の奥には半透明の幕で壁がつくられており、その向こう側でベース、ドラム、トランペットなどによる生演奏のインストゥルメンタルが場面と場面のあいだに挟まれている。わかりやすくいえば、短調をベースとしたグループ・サウンズのような音楽であると言えようか。舞台の最後にはアンリ・サルヴァドール(1917-2008)の有名な子守唄である「やさしい唄」が歌われる。

 第二に、ポムラの戯曲はシンプルな対話によって構成されているがゆえに、「話の噛み合わなさ」が独特のテンポと笑いをもたらす。『うちの子は』は福祉施設に取材した作品でありながら、対話のところどころに劇的な誇張やユーモアが散りばめられている。このあたりが、劇作家としてのジョエル・ポムラの本領だろう。

 そして第三に、ポムラの上演作品では俳優たちが全員マイクロフォンを装着しているため、演劇でしばしば観察されるような(そして疲労を覚えさせられるような)誇張された大袈裟な演技は再検討されている。何といってもマイクを使えば、俳優による「つぶやき」が25メートル先まではっきりと伝わるのである。逆に言えば「マイクの使用」という演出上の選択は、劇作家に舞台上における役者の動作や発話に新たな「幅」をもたらすことになっている。ポムラの作品が基本的に「つぶやく」ような静謐な作品になっているのはそのような事情による。

ジョエル・ポムラ『うちの子は』 ©Elizabeth Carecchio
ジョエル・ポムラ『うちの子は』 ©Elizabeth Carecchio

 このように、ジョエル・ポムラの書く戯曲は自身による「演出」と一体となっている。しかし、ここでいう「演出」という概念は古典作品の再解釈あるいは現代化を志向する「演出」系の演劇におけるそれとは一線を画しているという点に注意されたい。ポムラにおける「演出」は、舞台空間やセノグラフィーを通じて作品の「世界観」を打ち出すタイプのそれではないのである。

 「演出」という職能は19世紀末に生まれ、20世紀を通じて制度化したが、大雑把にいえば、そこには3つのポイントがある。一つ目は作品イメージの大枠を決定する《舞台空間・セノグラフィー》。二つ目はそれらを決定するための《作品解釈》。そして三つ目はそれらを実現・具体化する《俳優の演技》。わたしたちは、「演出」という言葉を用いるとき、これらのうちのいずれか(あるいは2つ以上)を指し示している。

 しかしながら、戯曲を書き、そして演出も行うポムラは、自らが行動をともにするカンパニー・ルイ・ブルイヤール(1990年に旗揚げ)の役者たちの仕事から出発するのである。『時の商人/うちの子は』の「あとがき」にも書かれているように、彼はまず劇場に舞台装置と照明を組み、そこに俳優が入った状態から台詞を書きはじめるという(154頁)。俳優は演出家の仕事を請け負う存在ではない。ポムラの演劇活動にあっては逆なのだ。

 私見では、日本でもフランスでも「演出」という華やかな20世紀的概念にばかり目を奪われて、肝心の《俳優の演技》についてはあまり深く考察されてこなかったように思われる。「優れた俳優」とはいったい誰なのか。ある程度は「技術」に還元することができる伝統演劇の分野ならまだしも、ただ大きな声を張り上げて、あたかも自分が「いい仕事」をしているかのように振舞っている役者が「優れている」とは考えない。少なくとも私は。

 ジョエル・ポムラの「演出」は「シンプルな舞台装置」や「照明装置による光と闇のコントラスト」ではなく、最終的に舞台上で発話をしている《俳優の演技》へと収斂される。しかしそれは俳優の「身体の現前性」などというものではなく、どちらかといえば、「そこにいるのに、そこにいない」という亡霊的な存在感である。

 蛇足になるが、「声」の演技の問題はポムラの作品のなかでさまざまな仕方で回帰する。2011年に静岡での上演が予定されていた『時の商人』は、舞台上の俳優による「動作」と、スピーカーから流される語り手の「声」によって構成されていて、ここでのポムラの戦略は事態を把握する「絶対的な正しさ」をそのどちらにも与えていないという点に求められる。最終的に、観客は完全に事態を把握できない立場に宙づりにされるのであって、その謎を解くのは「観客の仕事」というわけだ。

 言うまでもなく、『うちの子は』という作品は「幸せな家族」を実現できなかった者たちの「不幸な話」ではない。しかし、往々にして私たちはそのような物語を立ち上げてしまいがちである。たとえば、2014年7月に佐世保で起きた女子高生殺害事件。もちろん容疑者の父親にも非はあったろうが、メディアが書きたてるような責任追及の言説は殺害を犯してしまった高校生やその親を「救う」という社会的・倫理的な観点をまったくもっていない。

 もちろん、テレビは視聴率がとれればいいのだし新聞や週刊誌は部数が伸びればいいのだからそれでよいのかもしれないが、このタイプの演劇においてはそうした表層的な報道からは漏れてしまう視点を掬いとることが求められる。そもそも現実はそれほど単純ではない。とあるラジオのインタビューで、自分にとっての「美」とは「複雑であること」だと述べるポムラは、『うちの子は』でも「シンプルな舞台装置」と「シンプルな戯曲」から「複雑な現実」を描き出すことに成功している。

(追記)本稿の送信から掲載までの期間に、文中でも触れた佐世保における事件の容疑者の父親が自殺したという報道がなされた(2014年10月7日付)。筆者が本文で提示した容疑者やその父親の「救済」という観点が、このようなかたちで「否定」されてしまったことには悲しみを禁じ得ない。ご冥福を祈るとともに、わたしたちは父親がなぜ自殺という道を選ばざるをえなかったか、きちんと考えなければならないだろう。

※ カンパニー・ルイ・ブルイヤール『うちの子は(Cet enfant)』(再演)、ブッフ・デュ・ノール劇場(パリ、フランス)、2014年9月10日〜27日。演出=ジョエル・ポムラ、舞台美術・照明=エリック・ソワイエ、出演=サディア・バンタイーブ、アニエス・ベルトン、リオネル・コディノ、ルース・オライゾラ、ジャン=クロード・ペラン、マリー・ピモンテス、初演=2006年4月17日、パリ・ヴィレット劇場。2003年に国立カーン演劇センターで初演された『何をしたというのか?(Qu’est-ce qu’on a fait ?)』の改作版。

 
(2014年9月11日観劇)