「黒い魔法と封印された記憶をたぐって」─『ブラックメリーポピンズ』評──小山内伸
筒井康隆に「鍵」という短編がある(『バブリング創世記』所収)。無意識のうちに封印していた記憶をたどる恐怖を描いた傑作であり、故・井上ひさしが絶賛していた。韓国発のミュージカル『ブラックメリーポピンズ』を観て、私は短編「鍵」を思い出した。魔法が使える優しいナニー「メリーポピンズ」をもじった心理スリラーミュージカルで、まさに失われた記憶をたぐってゆく恐ろしい物語だ。
(ソ・ユンミ脚本・作詞・音楽。鈴木裕美・演出。田村孝裕・上演台本。高橋亜子・訳詞。小野寺修二・振付。二村周作・美術。日本テレビ・東宝芸能・キューブ・シーエイティプロデュース企画・製作。7月5〜20日、世田谷パブリックシアター。初日観劇)
1922年、ドイツの著名な心理学者シュワルツ博士の屋敷で火事が起こり、博士が焼け死んだ。当時、屋敷には養子として引き取られた4人の孤児と家庭教師のメリー(一路真輝)も住んでいたが、メリーは大火傷を負いながら4人の養子を救出した。ところが警察は火事の原因を捜査する過程でメリーを容疑者として聴取。まもなく彼女は失踪してしまう。残された子供たちは事件当夜の出来事を何一つとして憶えておらず、真相は闇に葬られたまま……。ここまでが前日譚。
12年後、それぞれ別の家族に引き取られ、新たな人生を送っていた養子たちが久々に再会する。弁護士となったハンス(小西遼生)が、かつて何があったのか事実を究明しようと呼びかけたからだ。だが、今も神経症を患うヨナス(良知真次)、直情的なヘルマン(上山竜司)、唯一の女性であるアンナ(音月桂)はこぞって過去を暴くことに消極的だ。ところがハンスは、かつて事件を担当した刑事から送られてきたという、博士の遺した手帳を取り出す。その研究日誌には意外にもメリーの筆跡が残されていた。
メリーとは何者だったのか? 謎に導かれて4人は封印された記憶を呼び戻すことになる。(以下、ネタバレを含みます)繊細なヨナスは当時から気づいていた。水曜日の記憶がいつもないことに。博士は戦争のための実験として、痛みやトラウマを消去する研究を進めており、水曜ごとに養子たちの身体を傷つけては、薬物とメリーの催眠療法を併用することでその記憶をきれいに消し去っていた。メリーは単なる家庭教師ではなく、博士の共同研究者だったのだ。
火事があった夜、標的になったのはアンナだった。睡眠薬を飲むふりをして覚醒しながら一部始終を目撃した男3人は、怒りにまかせて……。
こうして4人は、知らない方がよかった真相にたどり着く。言い出しっぺのハンスは「忘れさせて!」と悲鳴を上げる――。以上のストーリーがまず、ミステリアスでおもしろい。
また、ミュージカルならではの優れた工夫も見い出せる。この作品には三拍子の歌が多く、次第に何かに引き込まれていきそうな感覚を醸し出す。舞台の四方には小さな盆があり、4人はそこに立ったり、椅子に座ったりしてクルクル回る。自らの意思で動くのではなく、何者かに動かされているさまを象徴するかのようだ。また、舞台の中央には瀟洒なシャンデリアが吊られ、回想シーンに入るとしばしば左右に大きく揺れるのが印象的だ。
出色なのは、メリーが子供たちに催眠術をかけるシーンを再現した楽曲。催眠術を歌にするという発想がまず新しい。そして「♪扉開け、記憶入れて。扉閉め、そっと逃げて」という歌を4人が合唱する時、座っている椅子がゆっくりと回転する。そしてシャンデリアが大きく反復運動を始めるのだが、それは催眠の導入に使う振り子の見立てだったのだ。4人が回転し、巨大な振り子が揺れ、「♪扉開け〜」の歌が執拗に反復される時、こちらも幻惑されそうになったくらいだ。
ここの演出は日本版特有のものだという。この一場だけとっても、鈴木演出は優れている。それ以前に、脚本から作曲まで一人で手がけたソ・ユンミも新しい才能の出現だ。
タイトルでうたわれた「ブラックメリー」とは善人の貌を被った悪魔なのか否か、両面を匂わせる一路の演技に説得力があり、スリリングなストーリーの骨格を支えた。音月は元・宝塚の男役トップなので女声の歌は初めて聴いたが、ファルセットの歌唱力も高く、男声と合唱する際も音程・声量とも安定している。子供時代の回想シーンでは、アンナを男勝りのキャラクターで演じて笑いを誘い、全体に暗い話の中で喜劇的な一場を形成した。宝塚ファンを当て込んだ演出と言えなくもないが。話の流れを牽引する小西がメリハリのある好演。
ラストシーンでは、「黒い森」でメリーと再会した4人が、辛い過去を消し去るのではなく、それと向き合って生きる決意を固める。この時にメリーの「1、2、3」の掛け声で部屋の壁が魔法のように消え、緑濃い樹木があらわになる演出・美術も鮮やかだった。