虚飾集団 廻天百眼『臘月記』作=岸田理生、演出・構成=石井飛鳥、2014年6月こまばアゴラ劇場 撮影=田中流
虚飾集団 廻天百眼『臘月記』作=岸田理生、演出・構成=石井飛鳥、2014年6月こまばアゴラ劇場 撮影=田中流

 今年もまた岸田理生フェスティバル(通称「リオ・フェス」)が開催された。2003年6月28日に亡くなってから11年。翌年から開始された「連続上演」も、今回で11回目を迎えた。

 当初、これだけ長く続くと誰が予想しえたろうか。2007年に「岸田理生アバンギャルド・フェスティバル」と命名されてから、この劇作家をめぐるフェスの方向性は一層明確になった。毎回この劇作家に思いを込めた表現者たちが集まり、作品を発表しては散っていく。10年を積み重ねるうちには思いもかけないメンバーが加わって、少しずつ継承の輪が広がっていく。その確実な歩みは充実した足跡を残してきた。

 今回参加した7集団の中でとくに目を惹いたのは、新たに加わった虚飾集団 廻天百眼の『臘月記』(演出/石井飛鳥)だった。血糊をまき散らす演出で、若い観客を熱狂させるこの劇団は、岸田作品の若い世代による継承を強く印象づけた。岸田事務所+楽天団時代の岸田作品は、力量ある女優たちが揃い、匂うが如きエロチシズムを湛えていた。廻天百眼の女優たちもまた初期天井桟敷を思わせる見世物性と際物性において、80年代後半の岸田作品の舞台を彷彿とさせたのである。久方ぶりに岸田の旧作を観て、わたしはかつての岸田作品の繚乱たる舞台を想い起した。これまでの参加団体は多かれ少なかれ、生前の岸田の近傍にいた者たちだった。だが吉野翼企画が絵空箱で上演した『眠る男』(これは未見)も含めて、後続世代が岸田戯曲にどうアプローチするか、その端緒についたことを今回改めて感じた。

 今回のもう一つの特徴は、テラ・アーツ・ファクトリーの『デズデモーナ』(林英樹演出)や柴崎正道プロジェクトの『ダナイード』(柴崎構成・演出)など、岸田が得意とする「和物」ではなく、シェイクスピアやギリシア神話を素材とする演劇作品がレパートリーに選ばれたことだ。いずれも90年代後半に創作された作品で、テクストから物語性や劇的要素を限りなくそぎ落とし、それを演出家がどう組み立て直すかが問われる舞台となった。

虚飾集団 廻天百眼『臘月記』作=岸田理生、演出・構成=石井飛鳥、2014年6月こまばアゴラ劇場 撮影=田中流
虚飾集団 廻天百眼『臘月記』作=岸田理生、演出・構成=石井飛鳥、2014年6月こまばアゴラ劇場 撮影=田中流

 2つの舞台上に共通しているのは、記号化され、原型化された人間や行為、例えば「死」や「再生」といった岸田年来の主題が取り出され、それらが最小限に切り詰められて表現されていることだ。それを担う俳優の肉体は今までにない演技を発明しなくてはならない。従来の演技が木っ端微塵となる地点へ否応なく駆り出されるのだ。これは相当難易度の高い試みだろう。だが今回の舞台でそれが達成されているとは言いがたかった。岸田の実験精神の所在を探り出す試行は、まだ始まったばかりである。

 ユニットRの『私たちのイヴたち 蝕』(諏訪部仁構成・演出)は大正時代の歴史物、すなわち「大逆事件」を扱い、大杉栄をめぐる女たちの葛藤を描き出した。千賀ゆう子企画の『桜の森の満開の下』は坂口安吾を原作とする「改作」ものだが、30年近くレパートリーとして大事に育ててきたことが分かる舞台で、見応えがあった。岸田とともに長い演劇史を歩んできた千賀だけに、彼女自身の演技人生も重ねられていて、丁寧な作業に好感が持てた。

 継続的なフェスの開催はより深化した作品の創造を可能にする。作品を熟成させることが難しい日本にあって、こうしたフェスは非常に貴重である。

 岸田戯曲は磨き込まれた文学的テクストという固定観念があるが、実は90年代以降は、フェスのタイトルに冠されているように、「アヴァンギャルド」精神に裏打ちされた作品群が並んでいる。それは岸田が90年代に入ってから、劇団を解散し、自ら演出家として舞台に関わるようになったからで、そこにはハイナー・ミュラーとの出会いが大きく影響している。後にポストドラマ演劇に通じる実験的な作業を、岸田はいち早く手がけていたのである。

 岸田理生という劇作家の本質は何か。初期の戯曲の文学性、中期の歴史批判劇、そして後期の実験的模索、その中で一貫して追求し続けたのは、舞台に映える「言葉」である。それは劇詩と呼ぶにふさわしい言葉たちだ。しかもその言葉はきわめて硬質な観念と結びついている。

 今後のリオ・フェスの「前衛性」はそれを探ることから始められるだろう。