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タニノクロウ氏が主宰する庭劇団ペニノの作品を、初めて観劇した。『誰も知らない貴方の部屋』、英題は”The Rooms, Nobody Knows ”、この夏にフィンランドとスイスでも上演される作品だ。演劇というよりむしろシュルレアリスムの美術作品のような趣で、思い出せばクスクスと笑いが込み上げてくるような、ノスタルジックで甘美な時間であった。
 この特別な時間は、「七月十日の夜七時四十五分に、青山劇場の裏手遊歩道に集合せよ」という制作の指示から始まった。遊歩道を探して青山劇場の左手脇を進むと、夕闇の路上にひっそりと集まっている老若男女十数人の姿が見えた。その前に通り過ぎた、楽屋口前でアイドルの出待ちをしている若者達とは対照的に、決して世の中のメインストリームではない異端の匂いが、すでに漂っていた。
 会場の「はこぶね」はタニノ氏の自宅を改造した小さなアトリエとのことで、そこから四、五人ずつが近くの瀟洒なマンションに案内された。気が付けば建物のエントランス近くにタニノ氏と思しき男性が立っていたのだが、作品のアヴァンギャルドなイメージとは裏腹に気取らず人懐こい印象で、そのギャップに舞台への期待が膨らんだ。
 階段を上がると、共有の中廊下を挟んで居室のドアが並んでいる。一番近いドアが開け放たれており、そこが「はこぶね」の入り口だった。玄関で靴を脱ぎ、壁に掛けられた巨大な丸時計に目を奪われつつ最初のドアを入ると、一面黒壁の四角い空間が現れた。前方に舞台、その向かいに二、三十人分の段差のある客席が設えられており、想像していた以上に小劇場らしい。都会のマンションの一室にこんな秘密めいた空間があることに驚くと同時に、自ら拠点を構えることで演出家としてのアイデンティティを強く求めたタニノ氏に、エールを送りたくなった。
 舞台は暗転から始まる。「ホー、ホー」というフクロウの鳴き声とともに明かりが入ると、上下に分断された天井の低い部屋が現れる。天井近くの中央壁に電光掲示板があり、幕と場のタイトルが静かに表示される。
 上階の部屋は森の奥の屋敷のような雰囲気で、調度品はすべて男性器をモチーフにしている。上奥と下奥に置かれたその形の巨大な白い安楽椅子が異様な存在感を放ち、舞台奥の二つの窓からは鬱蒼とした木立が見えている。そこに黒装束に身を包んだ羊の妖精と豚の妖精が、上手と下手のドアから代わる代わる登場。他愛もない会話を交わしたり、いそいそ働いたりする。この役を演じた二人の役者(羊の妖精:瀬口タエコ、豚の妖精:島田桃依)が、一見不気味ながら可愛らしくイノセントな佇いで、温かみのある幻想の世界を巧みに表現していた。
 下階は白いタイル貼りの実験室のような部屋で、学生服姿に黒縁めがねの男が上手に置かれた文机に向かって何か無心に作業している。そこに白いタンクトップに黒いタイツ姿の、肩までの長髪にでっぷりと太った「兄さん」が入ってくる。弟は受験勉強の代わりに、中年になった兄さんの誕生日プレゼントを作っていたと言い、下手側の水場には兄さんに精巧に似せた頭部の(男性器のようにも見える)物体が四つ並んでいる。「革命的な兄さん、前衛的な兄さん、女性的な兄さん、ポップな兄さん」。弟が一つ一つ紹介する。
 やがて兄弟はプロレスごっこを始めるのだが、肉体のぶつかり合いは原始的な愛情表現でもあるようだ。寝技の痛みに悶絶する弟の表情に、客席の男性から屈託のない笑い声が飛んだ。戯れの後、男子学生は天井の窓から上階へと上がっていく。登場人物四人が男性器の形をしたリコーダーでパッフェルベルのカノンを合奏して、幕となる。
 一人の男子学生が、受験勉強と性的抑圧の果てに生み出した妄想の世界、とでも言えばよいだろうか。変態的でありながら、温かく、どこか耽美なのは、タニノ氏が人間存在の根源である性を肯定しているからだろう。人には言えない自分だけの秘密の世界、本当は誰もが隠し持っている頭の中のファンタジーを、偏見なく、ユーモラスに描いた。
 画家を志したこともあるタニノ氏にとって舞台は「イメージ」の場であるという。台本の代わりに絵コンテを描き、ワンシーンごとに絵画のような美しさを追求した作品は、動くインスタレーションとも呼べる完成度の高さ。観客の観劇体験をいかに特別なものにするかにこだわるプロ意識に貫かれており、エンターテイメントとしても一級品だ。
 ほっこりとした気分ではこぶねを出た時、はす向かいの家の前でタニノ氏が、制服姿の女子高生と母親らしき人物と言葉を交わしていた。どうやら娘さんが芝居を観に来ていたようだ。無表情に見えたが、何を想っているのか。彼女の頭の中を覗いてみたいと思った。