悪夢のシミュレーション—渡辺源四郎商店 『さらば!原子力ロボむつ 〜愛・戦士編〜』/藤原央登
再演によって、舞台が投げかける問いがより前景化した。2011年4月に初演された本作は、原子力発電を続ければどうなるかをシミュレーションする作品である。一度稼動させた原発の扱いにくさと恐ろしさ。それを数値による合理的かつ科学的な論証ではなく、演劇という想像力を働かせる物語装置で描く。それによって、芸術にしか出せない強烈なリアリティーを肌身で感じさせる。初演と〈変わらないもの〉〈補強されたもの〉という観点から、本作の再演に言及していきたい。
〈変わらないもの〉とは、初演から貫徹する作品の重要な骨子のことである。主人公の町長・エイスケが走る姿が強く印象に残る。現在から1000年先という設定だけでも途方もない未来だが、その先をエイスケは、2体のお世話ロボットの力を借りてタイムトラベルする。作品は、そこから1000年刻み、果ては1万年刻みにめまぐるしく時を経過させ、ついには5万年後の世界へと降り立つ。このめまぐるしい時の流れを表現するべく、エイスケは空間を駆け回る。初演の東京公演はザ・スズナリだったが、はるかに空間が広いにしすがも創造舎だからこそできた演出である。
時を進める内に最後の人類は死に、地球は氷期と間氷期を繰り返す時代に突入する。途中の時代には見たこともない新生物が誕生することもあったが、ついにはエイスケただ一人しかいない完全なる氷河期へと場面は至る。そこまで時間を経過させても、有害物質「アズマシウム」を完全に無害化する装置は完成せず、依然として「元気」に垂れ流されている。「アズマシウム」とは津軽方言で「心配のない、安心である」などを意味する「あずましい」に由来する皮肉のこもったネーミングだろう。なぜなら、本作における「アズマシウム」は、無害化するためになんと10万年を要する物騒な代物なのだ。エイスケの焦りとはやる気持ちが1万年先、1万年先と時を経過させるが、万単位の年月を要しても核のごみは最終処理されない。果てには人類は死滅し、世界はほぼ何もない状態になる。それは少なくとも、放射性廃棄物は人類が死滅するまでは多大なる影響を与えていたことを意味する。時間的スケールの大きさを最小の表現で示し、なおかつ途方のなさを観客に与えることこそ、この舞台の最大の肝なのである。時がテンポ良く移り変わることによって徒労感が増すのは初演と同じだが、そこに舞台を駆け回るエイスケの身体を見せることで、事態がより切実さを加えて表現されていた。
そもそも、なぜそのような事態に至るのか。それは、エイスケが町の生き残り戦略として「むつ」を誘致したからである。使用済み核燃料からエネルギーに再利用するウランとプルトニウムを回収する再処理の過程において、ガラス固化体にして地中に埋めなければならない高レベル放射性廃棄物が残る。「むつ」は使用済み核燃料である「ヤバッチモノ」を減滅処理し無害化する巨大ロボットである。後には、無害化の過程でさらに「アズマシウム」という、プルトニウムの10数倍のエネルギー効率を持つという燃料を生成することになる。「アズマシウム」は、ウランとプルトニウムを混合させた「MOX(モックス)燃料」のことであろう。「MOX(モックス)燃料」は、再度原発の軽水炉で使用されるのだから。青森県六ヶ所村には、ウランとプルトニウムを回収する再処理工場が建設中であり、「MOX(モックス)燃料」の加工工場の建設も予定されている。つまり「むつ」は、原発における使用済みのウラン燃料を再処理し、エネルギーへと加工する核燃料サイクルを一手に引き受ける施設なのだ。さらに言えば、「むつ」の名前は青森県むつ市と共に同市にちなんで名づけられた、原子力を動力に航行する原子力船むつ(1969年進水)を想起させる。町民から施設の安全性を問われたエイスケは、自身の目で「むつ」プロジェクトが完成した様を見届けると宣言し、「むつ」完成に要する50年〜100年先まで、自身をコールドスリープ=冷凍保存する。初演では「むつ」推進派のエイスケと反対する住民とのやりとりはあっさりと描かれていたが、再演では両者の対立がしっかりと書き込まれている。「むつ」を受け入れると、町が核廃棄物の最終処分場にされてしまうのではとの懸念を示す住民。それを受けてエイスケは、プラント誘致はあくまでも技術が確立するまでの実験のためだと主張する。そもそも「むつ」を受け入れざるを得ない状況になったのは、かつて核施設を誘致した住民の責任だとエイスケは反論する。エイスケと住民とのやりとりは、東通・大間原子力発電所と六ヶ所再処理工場に対応していることは明らかだ。
青森県外の動きとしては今年1月、福島県の双葉町が県内の汚染土を保管する中間貯蔵施設の建設計画を受け入れた。すでに計画を了承している大熊町と併せて施設の建設が始まり、今月から汚染土の搬入が始まっている。今後30年以内に県外で最終処分場を建設するとのことだが、予定地はまだ決まっていない。3月には5基の原発の廃炉も決まった。中間貯蔵施設が最終処分場を兼ねるのではないかという懸念は、原発を一旦受け入れた町の問題として現実に起こっていることである。
初演から〈補強されたもの〉とは、地元に処理施設を押し付けられた住民の怒りである。今回の再演では、町長と町民との対立が強調されただけでなく、重要なシーンが一つ追加されている。コールドスリープから目覚めた1000年後のリンゴ王国。王国は完成した「むつ」を使って、世界中の核廃棄物を無害化することで繁栄し、日本から独立するまでの強国となっている。しかし、そこには宰相と科学者による策略があった。彼らは「むつ」を利用し、プロジェクト計画時には想定されていなかった有害物質「アズマシウム」を、新たなエネルギーと偽って生成した。実は有害物質である「アズマシウム」で動く「むつ」に東京を攻撃させ、都民を奴隷にしていたのである。再演の舞台は、都民を奴隷として使役して恨みを晴らそうとする宰相という、初演になかったシーンから始まる。東京への電力供給のために犠牲になったことへの復讐——計画の目的はそこにあると、宰相は語る。宰相を演じたのは、初演で町長を演じた山田百次。東北なまりの発語で東京への強い憎悪を吐露する山田の演技は、繁栄のために首都に騙された弱者の代弁として強い印象を残した。
アズマシウムを燃料にして動く「むつ」は、懸案だった核廃棄物の無害化を実現するどころか、原爆を連想させる死の灰を降らせる兵器に改造されていたわけである。ロボット「むつ」は、自分の夢を「鉄腕アトム」になぞらえて語る。原子力エネルギーが正義と進歩の象徴だった1950年代のアトムは、空を飛んで敵をやっつける。それはまさに人類の夢と希望であった。だが、その正義は悪と裏腹であり、本作のようにある時には自国の富のために悪用して新たな有害物質を生み出ことにもつながる。またある時にはその処理施設の完成に楽観的になって、どんどん問題を先送りにすることにもつながる。事実、原子力船むつは航行試験中の1974年、放射能漏れを起こしていたではないか。当時、完成時の歓迎から手のひらを返したように、住民はむつ市にある母港・大湊港へのむつの帰港を拒否した。そのため、船からの原子炉を撤去する改修作業は、各地の港を転々としながら行われたのである。
原子力船むつと同様、希望と絶望の両面を持つ「むつ」のあり方が、再演で〈補強されたもの〉の2つ目である。再演版「むつ」では、高校生達がアンサンブルとして「むつ」を演じる。彼らは各自が手や足を担い、合体ロボよろしく寄せ集まって、言葉を発しながら舞台奥から一歩ずつ前進する。この巨大ロボットを将来を担うべき高校生に演じさせるという配役により、事態の非情さはさらに強調されることとなった。先行世代がためてきたツケが、将来世代である彼らに背負わされているのだから。人類の役に立つべく、「アズマシウム」を含んだロボット「むつ」は、宇宙を飛んで太陽にぶつかろうとする。しかしエネルギーがなくて、「むつ」はくずおれてしまう。それを演じる高校生たちの姿は痛ましい。作品が「翔べ!」から「さらば!」へと改題されたことのアイロニーは、高校生たちによって演じられた「むつ」が翻弄されるストーリーに集約されている。その上さらに、彼らを「翔べ!」と叱咤・激励するのはあまりにも勝手すぎて酷である。
東京への憎悪と未来の人類への絶望的な悲哀。付け加えられたこれらの因子は、現に原発を所有する立地地域で起こっていることの反映である。同じ悲劇がやがて特定地域のことではなく地球規模にまで拡がるさまを、この作品は描いている。本作は、我々が陥るかもしれない遠い未来への悪夢のシミュレーションなのだ。
今回の再演は、初演のザ・スズナリにあったような舞台美術を廃し、何もない空間を使ってできるだけ俳優の身体と声だけで多くの表現を試みていた。「むつ」を演じるほかにも、効果音など様々な場面で舞台を支えた高校生たちは、まさにその試みの中心的存在だった。また、『鉄腕アトム』の主題歌を合唱したり、エイスケが「むつ」を操縦しようとする場面では、ロボットアニメを再現するべくショーアップされた演出があったりと、観客を楽しませる面が大いにあったことも記しておきたい。
(作・演出=畑澤聖悟、2014年11月28日マチネ、にしすがも創造舎)