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ダンスの現代史を立体化

さて、カリーソ、ゲッケ、エイアールに対し、他の二人、クリスタル・パイトとウィリアム・フォーサイスを並列に語ることは出来ないのではないか――これが本稿の主旨である。

 「今日のダンスのスペクトラムを示す」プログラムの中で、抽象に徹したウィリアム・フォーサイスの『One flat things, reproduced』(2000年初演)は、その最も左の端にある。否、むしろ2024年の今日もなお極北に位置する作品と言えるだろう。テーブルを並べたグリッド状の空間を高速に動く身体、至高の運動性を追求するダンサーらのパフォーマンスは圧巻だ。5×4に並んだテーブルは障害物であると同時に第二の床であり、ダンサーの動きを規定し、触発する。複層化された空間の座標軸で、テーブルの上や下に新たに空間を発見しながら、ダンサーは身体のあらゆる部位を起点に動きを起こす。触発されるムーブメントには一瞬の隙も無く、互いの動きをコネクトし、離れた位置でシンクロさせる対位法は、何らかのシステムの存在とその作動を感じさせる。振付・構成の精密な設計と、これを遂行するダンサーらの驚異的な集中力にも目を見張らされる。

 これを「テーブルを使った群舞による高密度の身体パフォーマンス」としてスペクトラムにフラットに位置付けてしまうと、作品の本意を掴み損ねてしまうだろう。もちろん既に我々は十分に魅了されているのだが、本作が差異や作風では語り切れないもう一つのレイヤーを持ち、身体を動かすシステムそのものの構築を試みていることは明らかで、振付の概念を根本から問うものとして構想されている。このことをダンスの現代史に照らして立体的に把握する必要がある。

 観客にとって本作の現実は、目まぐるしい展開に息を飲み、同時多発する動きに視点を定められず翻弄される鑑賞体験でもあって、自分はいったい何を見たのだ? と自問の中にとどめ置かれることになる。そして反芻してもそこに意味が見出されることはない。

 絶え間なく触発される動きの中で、ダンサーたちはかくも複雑な振付を完璧かつ精確に実行しているのか、そのようなことが本当に可能なのだろうか。それとも瞬間ごとに選択や生成を重ね、身体の赴くところに従い即興的な時間を生きていたのだろうか。振付・構成の厳密な設計・実行と、自発的、自然発生的、システマティックな全体の運動の間で、必然と偶然が同義となるような瞬間を、ダンサーたちは絶え間なく経験していたのではないか。そのパフォーマティビティは生まれた瞬間に消え去るダンスの運動の最中にあって「あなたは何を見ているのか」と観る側にも問うてくる。上演に散見されたカウントで動きを合わせる場面や、より「ダンス」であることを前面に出すような修辞的な身体の処理が本作の真意に適ったものであるかはここでは留保したいが、ダンスの成立そのものに関わるフォーサイスの革新性は今なお最北にあってダンスを見る者を挑発し続けているように思われる。

©Rahi Rezvani
©Rahi Rezvani
©Rahi Rezvani
©Rahi Rezvani
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