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 元毎日新聞社専門編集委員で演劇評論家の高橋豊さんが亡くなって1年が経つ。2018年に倒れてから長い間、闘病生活が続いていたが、本復する事は叶わなかった。2020年10月5日に退院したものの、折悪しくコロナ禍と重なり、とうとう会えず終いだったのが悔やまれる。
 いつどこで会っても柔和な表情を崩さず、温厚で物静かな高橋さん。初めてお会いしたのは1990年代、月蝕歌劇団の高取英さん(1952年1月17日 – 2018年11月26日)の紹介だった。
高橋さんは山形、私は青森と同じ東北同士、なんとなく気が合った。
 よく一緒になったのは月蝕歌劇団の打ち上げの席。若い女優たちに囲まれながら大好きなお酒を飲み、高取さんや故・松田政男さんらと寺山修司のことを話題にした。また、前身である天井桟敷時代から継続していた演劇実験室◎万有引力恒例の年末餅つき会に欠かさず参加していた。場所は新宿にあった小さな劇場「シアターPOO」。参加者は2人1組で杵を振るうのだが、代表のJ・A・シーザーのはからいで何度も高橋さんとペアになった。私と違って都会育ち(?)で使い慣れない杵の扱いに難儀していた高橋さんの姿が目に浮かぶ。
 高橋さんが芝居を見始めたのは1960年代の後半、寺山修司、唐十郎らのアングラ演劇勃興期だったから、その系譜に連なる2つの劇団とは親和性が強かったのだろう。
 維新派の公演でもよく一緒になった。大阪、岡山、奈良…。維新派代表の松本雄吉さん(1946年10月10日 – 2016年6月18日)の追悼イベント・勝手に追悼フォーラム「さらば、松本雄吉よ」(2016年8月28日、Galerie Lã(ギャルリーラー))のトークを2人で行った(司会は西堂行人さん)のもそんな縁だったか。維新派の最終公演『アマハラ』でもご一緒し、屋台村で一杯やった後、飲み足りなかった高橋さんに誘われ、2人で駅近くの立ち飲み屋で小一時間盃を傾けた。
 縁が深かったのか、高橋さんが自宅で倒れた2018年12月11日、私は女優・源川瑠々子さんのインターネットラジオのゲストとして年末演劇回顧を収録していたのだが、当日、同じくゲストで前週分を収録する予定だった高橋さんが現れず、連絡も取れなかったために、急遽、私が高橋さんの代わりに2週分の番組を収録した。
 その後、高橋さんの自宅に電話すると、奥様が出て、高橋さんが自宅で倒れ、脳内出血のためそのまま入院したと知らされた。
 同じ年の11月26日に高取英さんが急逝した直後で、2人の大切な友人、先輩の受難に愕然とした。
 高橋さんの事故、闘病については奥様も公表したくない意向だったため、私もずっと胸に秘め、高橋さんの友人の演劇関係者など、限られた方に聞かれた時にだけ闘病の状態を伝えた。
 介護、リハビリ施設を転々とし、2020年の10月16日には、私のマンションの近所の施設に転院し、ようやく面会が可能になったので会いに行こうとした矢先のコロナ禍。奥様も面会もできない日が続いたが、その後、退院して自宅療養する事になり、奥様から「LINEの使い方を教えてほしい」と言われ、その後、LINEを通じて高橋さんの療養の様子をお知らせいただいたが、倒れてから5年、療養の甲斐なく高橋さんは旅立った。
 高橋さんとは演劇について突っ込んだ話をすることはなく、個々の舞台についても内輪で批判めいたことを言うことはなかった。いかにも高橋さんらしい優しさで、演劇を愛し続けたのだった。
 高橋さん、いつかまたどこかで会って、2人で静かにお酒を酌み交わし、好きな芝居の話をしましょう。