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アリスの母と脱兎は、アリスの待つ国境へ。
NODA・MAP『兎、波を走る』 
作・演出=野田秀樹 
2023年6月17日(土)~7月30日(日)/東京芸術劇場 プレイハウスほか
撮影=篠山紀信

 

チエーホフ、キャロル、ブレヒトの名作と実社会が交錯

高橋一生とアンサンブルの俳優たちは、ロープを海に見立てさせる。
撮影=篠山紀信

 兎と波の絵を組んだ文様は古来、豊穣を寿ぐしるしとして狂言装束の肩衣(かたぎぬ)や伊万里焼を彩る。しかし、双方の字を題に戴くNODA・MAP第26回公演『兎、波を走る』は、祝福の図像には遠い情勢を再認識させた。既存の戯曲や文学と、現在の社会を脅かす問題を編む演劇は、筆者の記憶を刺激して連想を羽ばたかせる。本作はアントン・チェーホフ作『桜の園』(1904年)を外枠に置く入れ子的な構造で、ルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』(1865年)、べルトルト・ブレヒト作『コーカサスの白墨の輪』(1944年)等がモティーフだ。野田秀樹が変奏した『不思議の国のアリス』では、原作に登場しないアリスの母(松たか子)による行方不明のアリス(多部未華子)探索が軸となり、白兎は脱兎(高橋一生)に代わる。

 時空を入れ替えて広がるアリス失踪の物語は、今も続く痛ましい事件に呼応する。舞台に息づく、人権侵害に対する抵抗を、本稿では考察していく。空間を充実させる、演技やデザインにも言及したい。俳優たちが手で動かすロープや紙のブレヒト幕と、先端テクノロジーが共存する舞台は、生身と仮想空間が融けあう趨勢を映す。

 

『桜の園』に対応する遊園地で、『アリスの話』を上演

アリスの母は寂れた遊園地の、迷子案内所を訪れる。
撮影=篠山紀信

 『兎、波を走る』の設定を記す。元女優ヤネフスマヤ(秋山菜津子)が、競売直前の遊園地の劇場で〈ママと見た『アリスの話』〉の再演を望み、チェーホフの子孫である智恵豊富(大倉孝二)と、ブレヒトの子孫であるベルトトルト・ブレルヒト(野田秀樹)に台本を頼む。創作をめぐる大倉孝二と野田秀樹の応酬は、皮肉とユーモアで観客を笑わせる。

 ロシア革命(1917年)が近づく騒乱期に書かれた『桜の園』では、ラネーフスカヤが属する貴族階級に、農奴を祖先にもつ商人ロパーヒンは、憧憬と報復心を抱く。没落地主ラネーフスカヤを彷彿させるヤネフスマヤに、統合型リゾートの開発を勧める不動産業者シャイロック・ホームズ(大鶴佐助)は、桜の園を競り落とすロパーヒンの立場だ。進取の気性を備えたシャイロック・ホームズに扮した大鶴佐助は、「♬シャイロック・ホームズ~」とコマーシャル風の抑揚で叫んで側転。天地がひっくり返った姿は、仮想世界に入る未来を暗示する。劇の中盤で台本執筆を担う第三の作家、初音アイが人工知能(AI)の影響を周囲に及ぼす。『アリスの話』の再演をめぐるヤネフスマヤの変化を演じた秋山菜津子は、浮世離れしたラネーフスカヤの過去への執着を、高飛車かつ妖艶に再生する。

 遊園地でリハーサルを行う『アリスの話』は劇中劇にあたる。十年以上前に姿を消した娘を探すアリスの母は、迷子相談所で脱兎に会う。脱兎は〈妄想の国〉の特殊機関を置く〈穴倉〉で、親に捨てられた〈迷子〉たちと共に、東急半ズボン教官(山崎一)に訓練を受ける。そして、〈兎〉と呼ばれる諜報員になったのだ。
脱兎役の高橋一生の演技、アンサンブルのロープ操作、照明(服部基)、音響(藤本純子)が相まって、幕開けは詩情に包まれた。

不条理の果てにある海峡を、兎が走って渡った。その夜(よ)は満月。大きな船の舳先(へさき)が、波を蹴散らしては、あまた白い兎に変わった。1)『兎、波を走る』のテクストは『新潮』(2023年8月号、新潮社)掲載の戯曲より引用。

 波頭が砕け兎に転じたとも、月が海面で割れたともとれる景色を、高橋一生がいきいきと描写。スローモーション映像のように制御された四肢は、張り詰めた神経を表す。寄せる波と縛る縄の両義をもつロープが、おおらかな自然と、夜陰に紛れた隠密の対比を印象づけた。

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1. 『兎、波を走る』のテクストは『新潮』(2023年8月号、新潮社)掲載の戯曲より引用。