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ブレヒト作『コーカサスの白墨の輪』の、実母と養母の争い

アリスの子供をめぐる裁判は、意外な展開に。
撮影=篠山紀信

 好奇心旺盛な少女が身体を伸縮させつつ冒険に赴く『不思議の国のアリス』は、さまざまな媒体に転生し、後日譚や翻案も多い。『兎、波を走る』においてはアリスの母が、失踪した娘の救出に挑む。ミステリアスな舞台の謎を深めるのは、登場人物の名前だ。〈妄想の国〉を去った脱兎は、姓名を漏らす。けれども、〈アリスの母〉の個人名は伏せられたままで、アリスは自分が産んだ娘の名もアリスだという。〈アリスの母〉と〈アリスの娘〉の出会いは、『コーカサスの白墨の輪』を引用した場面で起こる。同作はブレヒトがナチスを避けて亡命した、アメリカで書かれた。

 アリスの母という役名には、娘の探索を最優先する暮らしが滲む。つらい歳月に鍛えられた心身が、芝居の序盤で脱兎を組伏せる、しなやかな動きから察せられた。並はずれた力に驚く脱兎に「アリスの母ですから」と応える声には、不屈の意志が響く。松たか子の澄み切った声で発話された「母」は、〈アリスを出産した女性〉に限らず、〈人を慈しむ母的なるもの〉に開かれているように聞こえた。後続の『コーカサスの白墨の輪』が織り込まれた場面で、アリスの母は〈迷子の案内員〉から虐待された赤子を引き取る。血縁でなくても弱き者をいたわる人は、属性に関わらず〈母〉たりうるのではないか。

 上記のように筆者が考える背景には、『コーカサスの白墨の輪』で生母に遺棄された赤子を育てる貧しい娘グルシェと、彼女に加勢する裁判官アツダクがいる。ブレヒトが理想をこめた〈人を慈しむ母的なるもの〉であるグルシェは、自らを犠牲にして赤子を守る。戦後に東ドイツで結成したベルリナー・アンサンブルで、ブレヒトは『コーカサスの白墨の輪』を自ら演出(1954年)。同公演のプログラムで、グルシェのモデルは後期ルネッサンスのフランダースの巨匠ピーテル・ブリューゲル(父)による『狂女フリート』(1561年、アントワープのマイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館所蔵)、と明かした。1)『メイエルホリドとブレヒトの演劇』(キャサリン・ブリス・イートン、訳=谷川道子、伊藤愉、玉川大学出版部、2016年)より引用。ちなみに、絵画のモティーフであるフリートは、〈フェミニズム演劇〉として知られる、英国のキャリル・チャーチル作『トップ・ガールズ』(1982年)第一幕の女性セレブリティの宴会に登場し、戦場で子どもたちを失った体験を語る。サッチャー政権における、女性の階級と身体性による分断を問う同作は、日本でも復数回上演された。

 その油彩画で炎の中を怪物退治に急ぐフリートの雄々しい面影は、娘との再会を諦めないアリスの母役を担う、松たか子にも漂う。フリートに続いて怪物を懲らしめるのは、白い頭巾を被った普段着の女性たち。長槍を持つ兵隊たちは、立ちすくむ。兵隊たちが手をこまねく修羅場に、庶民が飛び出して戦うのだ。

 また、アツダクは男性だが、貧しい者をかばう判決を下し、歌手や楽師に「グルジアの母、アツダク。」と讃えられる。2)『コーカサスの白墨の輪』のテクストは『ブレヒト戯曲全集』第7巻(訳=岩淵達治、未来社、1999年)より引用。この場の〈母〉は、最後の審判において裁きを下すキリストに、迷える民を取りなす聖母マリアに因む。

 

助けを呼ぶ声を無視する者は、自身も痛手を負う

『不思議の国のアリス』のように、アリスの身長が伸縮。
撮影=篠山紀信

 アリスの母の台詞には、ブレヒトの戯曲に倣(なら)った箇所が見出せる。『コーカサスの白墨の輪』はロシアのコルホーズ(集団農場)の農民が演じる劇中劇入りの音楽劇。外枠は山羊飼育コルホーズと、果樹栽培コルホーズの係争と和解だ。劇中劇の山場は、ソロモン王(旧約聖書、列王記)や大岡越前守(大岡政談)の逸話に近い、ふたりの女性の子をめぐる裁判である。反乱軍から逃げる際に置き去りにした息子を、財産相続のために求める前領主夫人ナテラは、無償の愛で子を養うグルシェを訴える。白墨の輪に立つ子の手を、グルシェとナテラが両側から引く、という判定方法が採られた。その結果、子の痛みを案じて手を離すグルシェこそ、養育者にふさわしい、と裁判官アツダクは決めた。

 アリスと母が邂逅すると、野田秀樹がアツダクの名をもじった裁判官アセダクを演じ、道化の風情で喧騒の場を仕切った。前傾した床には、白い輪が輝く。ただし、血縁より育成環境を重んじたブレヒトの哲学が光る裁判は、何重にもねじれていた。アリスの母は〈迷子の案内員〉に押し付けられた赤子を、その子を産んで〈迷子の母〉となったアリスと引っ張り合う……。この母子再会は夢で、アリスは適切な養育者のもとに帰れず、娘との絆も危うい。再会の夢は、反復される。母娘が抱擁したとたんに舞台を紙のブレヒト幕が横切り、アリスが消える終盤は哀切きわまりない。

 しかしながら、ブレヒト劇から派生したシーンには、人間の良心に対する作者の信頼が透ける。下に抜いた台詞の通り、アリスの母は見知らぬ赤子を託された当初は反発した。

私は自分の子供を探すので手一杯、なんで、他の迷子の面倒を見なくちゃいけないの?

 だが、まもなく彼女は〈善への誘惑〉(ブレヒトの異化的造語3)「善への誘惑(ブレヒトの異化的造語)」は『ブレヒト』〈人と思想〉64(岩淵達治、清水書院、1980年)より引用。同じ言葉を千田是也は〈慈悲への誘惑〉と翻訳(ブレヒト『コーカサスの白墨の輪 資料』、ブレヒトの会・研究資料4、1968年初版を1980年に復刊)。)に負ける。娘を取り戻す旅に赤子を伴えば、負担が増す。その疲弊を恐れながらも、アリスの母は〈迷子〉を連れていく覚悟を定める。〈赤子からグルシェへの呼びかけ〉を謡う歌詞を応用した、アリスの母の台詞に注目しよう。

助けを呼ぶ声を聞こうとはせずに、耳をふさいで通り過ぎるものは、二度と再び、わが娘(こ)の呼び声を聞かないだろう。

 誰かの惨状を放置すれば、再会を切望する相手との縁が切れ、自らも悲嘆に沈む。この言葉は、気づいた問題を看過しないよう、観客に働きかける。苦境にあっても〈迷子〉を引き受けたアリスの母の献身は、〈助けを求める人に耳目を凝らそう〉という言外のメッセージを読み取らせる。また、諜報員であった脱兎も、前非を悔いてアリス救出に赴く。『コーカサスの白墨の輪』で危険を冒して他人を助けるグルシェとアツダクの魂を継ぐ、アリスの母と脱兎の無我は、鑑賞者に利己性を省みさせる。

 次いで、アリスが娘に自分と同じ名を与えた理由を考えたい。〈穴倉〉では自己証明に役立つ書類や写真を焼かれて、〈この世に存在しない人間〉となった〈迷子〉や〈兎〉が、「親などいるものか!」と宣誓させられる。脱兎に促されても宣誓を拒むアリスは、娘との別離を想定し、〈アリスの母のアリス〉と名乗って、親子の絆を確かめたのかもしれない。あるいは、母と自身を脳内で一体化し、脅かされるアイデンティティを補強したのか。戯曲のト書きには、次のように記される。

脱兎が、アリスの子供を、アリスに渡そうとして、穴に落っことす。

 この情景にはアリス自身も子を探す〈アリスの母〉となって、家族離散が次世代に受け継がれる予兆が匂う。悲劇の連鎖を想えば、〈アリスの母〉という役名に潜む、引き裂かれた共同体の回復を願う祈りに気づく。親族や仲間を恋しがる、古今東西の人々の象徴になりうる存在だから、〈アリスの母〉には個人名が無い。そんな解釈も成り立つだろう。

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1. 『メイエルホリドとブレヒトの演劇』(キャサリン・ブリス・イートン、訳=谷川道子、伊藤愉、玉川大学出版部、2016年)より引用。ちなみに、絵画のモティーフであるフリートは、〈フェミニズム演劇〉として知られる、英国のキャリル・チャーチル作『トップ・ガールズ』(1982年)第一幕の女性セレブリティの宴会に登場し、戦場で子どもたちを失った体験を語る。サッチャー政権における、女性の階級と身体性による分断を問う同作は、日本でも復数回上演された。
2. 『コーカサスの白墨の輪』のテクストは『ブレヒト戯曲全集』第7巻(訳=岩淵達治、未来社、1999年)より引用。
3. 「善への誘惑(ブレヒトの異化的造語)」は『ブレヒト』〈人と思想〉64(岩淵達治、清水書院、1980年)より引用。同じ言葉を千田是也は〈慈悲への誘惑〉と翻訳(ブレヒト『コーカサスの白墨の輪 資料』、ブレヒトの会・研究資料4、1968年初版を1980年に復刊)。