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2.俳優の語りの共有

 7度の公演では、俳優の山口真由の集中力が公演を支えていた。同時に、小道具の椅子や照明、音響、映像を使って、原作をわかりやすく見せる演出の工夫も印象的だった。

開演前、彼女は劇場内に現れ、準備運動を行うとともに、観客にもウォームアップを呼びかけ、一緒に体を動かす。客席はなごむ。そして、いったん彼女が退場して、再び静かに入ってくると、公演が始まった:

 そのおとこは屋外に向かって開いた扉のほうに向いて廊下の闇に腰をおろしていたのだろうか。

(『廊下で座っているおとこ』小沼純一(訳)、書肆山田、1994年、9頁)

 邦訳の冒頭の一文がゆっくりと語り出される。一言一言をかみしめるように、客席で聞いている観客が理解できる長さで短く文章を区切りながら、言葉が声に出されていく。ほぼ1時間半の間、特別な演技の技巧を感じさせることなく、落ち着いて、確実に発話が続く。

 地下の狭い劇場である。客席にいる観客も、山口とともに、集中力の持続を担う。観客にとって、耳で言葉を聞く体験は、目で活字を追う行為よりも遥かに多くの精神の集中を必要とする。活字で読むときのように、後に戻ったり、立ち止まったりして、自分のペースで語りを相対化しながら、テクスト全体の俯瞰を行うことができない。語られるリズムや発話のタイミングに拘束される。ある言葉を聞いて連想に誘われている間に場面が進んでしまい、置いてきぼりを食らうことも稀ではない。目の前にいる俳優の所作や照明、音響などの空間造形に心を奪われることも多い。こうしたすべてを感受しながら、俳優が言葉を語る時間と重なり合うように自分の体験を持続させるには、観客にも大変な集中力が必要だ。

 7度の公演が私の心に手ごたえを残したのは、俳優の語りを観客が共有する瞬間が成立し、かつ持続したことを実感したからである。最初から最後まで、俳優と観客の集中力は持続し、途切れることがなかった。

 空間の使い方、照明、音響の効果も大きい。場内の半分を占める演技空間には、上から電球が吊り下がり、白色と青色の蛍光灯が光る。床には黒い椅子と赤い椅子が置いてある(赤い椅子は横倒しになっている)。この二脚の椅子は、原作の男と女に見立てられている。山口はテクストを語りながら、演技空間内を歩き回ったり、佇んだり、椅子に座ったりする。テクストに応じて俳優の場所、所作、照明の濃淡、音響が細かく変化する。総じて観客が知覚する情報は簡素だが、それが逆に時空間を緊密にし、集中を促す効果があった。

 たとえば、場面に応じて切り替わっていた照明がすべて消え、場内が暗闇に包まれ、山口の発する言葉だけが聞こえる時間帯がある。これは、上映時間のほとんどが暗闇で、デュラス自身の語る声だけが聞こえるという、デュラス自身が監督した映画『大西洋のおとこ』を連想させるとともに、2020年3月の7度の公演『大西洋のおとこ』を思い出させた。再び空間が少し明るくなると、俳優の背後の(客席から見て正面の)暗い壁一面が、右側から窓を開けるかのように、ゆっくりと明るい面に置き換わる。そして、しばらくすると、今度は窓を閉めるかのように、再び右側からゆっくりと暗闇に置き換わる。この間、山口は静かにテクストの発話を続けている。舞台上のわずかな変化に知覚が集中することで、言葉に耳を傾ける体験がいっそう純化し、まるで時間の流れ自体に触れるような効果を感じた。

 後半、山口はいったん退場し、ガムテープを手に再び場内に戻ってきて、二脚の椅子をガムテープで縛りながらテクストを語る。これはちょうど、原作の男が女を激しく打擲する場面であったと思う。山口の行為は原作のパラフレーズ(置き換え)になっているが、安易な感じはなかった。

撮影=伊藤全記

 

3.M.デュラスとともに/の向こうに

 終わりも印象的だった。山口がガムテープで縛り上げた二脚の椅子が中央に置かれている。そして、その背後の正面の壁一面に、赤紫に染まった雲と空の映像が投影される。最初、壁には何も投影されていない。しかし、しばらくすると、右側から、窓を静かに開けるかのように、ゆっくりと、赤紫の雲と空の映像に置き換わっていく。よく見ると、雲の群れは、本物の雲が空をゆっくりと動くように、右から左へ動いている。そして今度は、窓を静かに閉めるかのように、右側からゆっくりと、映し出される像のなにもない画面に置き換わる。このように目の前の像が超スローな速度で移行する間、山口は邦訳の以下の言葉を語る:

 わたしはみる、紫の色がやってくるのを、それが河口に達するのを、空が隠されるのを、巨大なものにゆっくりと向かっていくのを、止まるのを。わたしはみる、他のひとびとがじっとみているのを、ほかのおんなたちが、いまは死んでしまったほかのおんなたちが、広大で深い河口に向かうやはり暗い稲田にふちどられた河のまえでモンスーンがつよくなりよわくなるのをじっとみていたのを。わたしはみる、紫の色から夏の嵐がやってくるのを。

(『廊下で座っているおとこ』小沼純一(訳)、書肆山田、1994年、42-43頁)

 こうした場面に立ち会う観客が知覚し、体験する事柄は、一人ひとりに応じて異なるだろう。たとえば私は、「紫」「河口」「空」「巨大なもの」「死んでしまったおんなたち」「モンスーン」といった言葉をきっかけに、東京都板橋区のマンションの狭い地下室の壁が開き、仏領インドシナで少女期を過ごしたマルグリット・デュラスの小説の幾つかの場面へ誘われるような感覚を覚えた。

 場内にいる一人ひとりの心の中はさまざまだ。M.デュラスの映画や小説を読んだことのある観客もいれば、先入観なしに山口の語る言葉を聞く観客もいる。デュラスが脚本を手掛けた『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』や彼女が監督も務めた『インディア・ソング』などの映画を連想した観客もいただろう。語り手の「わたし」にカメラ・アイを重ねて、映像と演劇の違いに思いを馳せた観客もいただろう。しかし、デュラスの映画や小説を知らなくとも、充実したソロ・パフォーマンスは、観客の心にさまざまな体験を可能にしたと思う。

 照明の濃淡や色彩の変化、音響の変化に合わせて、佇んだり、歩いたり、壁に身を投げかけたり、椅子に座ったり、ガムテープで椅子を縛ったりする山口の姿を目の前にしながら、彼女の体の奥深くからゆっくりと力強く発語される言葉を聞いていると、大胆な性行為を描いているはずの言葉から性的イメージが喚起されることは稀で、むしろ言葉の意味が像を結ぶ瞬間が宙づりになるような感覚を覚えた。

撮影=伊藤全記