Print Friendly, PDF & Email

  3.歴史とは何か――レコードの痛み

 さてこれまで描写してきた鼎談や悪夢や挿話を支える俳優たちのアンサンブルや《ルパム》の中核には、静謐な佇まいで舞台を統率しているひとつの確固たる存在があった――山の手事情社のベテラン俳優である山本芳郎その人である。ほかの俳優たちは色彩感あふれる衣装を身に着けているが、彼だけは上下黒でスタッフ然としていて、椅子を移動したり、小道具を運んだりする。だがそれでけではなく、坂を滑り落ちたり、「在宅」《ルパム》の最中に、ほかの俳優たちがパソコンをたたく踊りをしている間に、静かに舞台を横切っていく。台詞があるわけではないが、その存在感は自然な佇まいであるにもかかわらず、固有で輪郭のはっきりした時空間を自身の周りに構築していく。劇の舞台係でもあり、無言の知的道化であり、観客と舞台とをつなぐ特権的な存在――そんな彼が終幕近くになって、古いLPレコードプレーヤーを手に持って客席前で語るのが、「古い友人に会いなさい」という独白である。独白の半ばで彼がレコードに針を落とすと、音は流れてこないが、彼は記憶のなかで沈黙の曲を聴いているかのように、また話し始める。すると私たちにもようやく、呟きのようなピアノの音が聞こえてくる。ショパンだろうか、その懐かしい情感とともに、彼はこんな言葉で独白を締めくくる――

古い友人に会いなさい、死ぬ前に。古い友人に会いなさい、死ぬ前に。

何としても会いなさい。

草の根を分けても探し出しなさい。

古い友人には、古いあなたが眠っている。

古いあなたに会いなさい、死ぬ前に。

今あなたがあなただと思っている者はあなたではない。

あなたはほかにもいた。[中略]

古い友人に会いなさい。時間をかけて、手間を惜しまず。

あなたに会いに行くのだ。

すっかり忘れ果てたあなたに。

当時のあなたの若気に、あなたの無分別に、血気に、しくじりに、

そしてあなたを取り巻いていたひりひりする人々や風景に。

あなたの栄光に、高潔さに、忘れていた偉大さに。

今なら会える。今ならのみこめる。そして抱擁するんだ。

ぬくもりのある痛みに。

たまっていた涙が思い出させてくれる。

あの時間の総量を。

「古い友人に会いなさい」。山本芳郎
撮影=平松俊之

 この「他者のなかに自己の痕跡を探しなさい」という勧めほど、生と死、欲動と諦念、現実と幻想の境界領域をめぐってきた『デカメロン』の物語の総括として、ふさわしいものはない。「会い」は<合>でもあれば<愛>でもある。つまり自分本位ではなく、他者本位の姿勢を教えてくれるのが、「古い友人」なのだ。かくして私たちは、劇場で自分たちが観客となることの本当の意味を知る――それは「古い友人」と出会うようにして、自らが見知らぬ他者であることを再発見することであったのだ、と。オンラインでは草の根を分けることはできず、ユーチューブは電波の届く場でしか発現しない。それに反して演劇は、劇場というドラマのトポスに、「草の根を分けても」、友人を探し出しに来る観客との遭遇が生み出すものなのである。

 この独白以降、劇は過去と現在、記憶と創造、自己と他者といった必須の関係を主題として展開していくことになる。この独白に続いて、「古い自分」との再会を受けて、最後の「人類の提言」③は、「懐かしいという感情」についての話題で始まる。この感情が起こるためには、人は「もと行った場所にもう一度行かなかればだめ」で、「そこへ行けば細大漏らさず、おやと思うことまで記憶がよみがえる」というのだ。そこから導入されるのが、「旅する俳人」松尾芭蕉の「不易流行」、すなわち「変化しないもののなかに変化するものを取り入れる」という「記憶の力」による創作の要諦であり、「自然に帰れ」という芸術の根本姿勢である。

 鼎談では、さらに内容や意味に対して、文字や音を暗記して、古典の「すがた」に親しませる素読教育の価値が語られる。そしてこの文学者にとっての「常識の内容は愛情」だという――「愛情には理性が持てますが、理性には愛情を働かせることはできません」。

 つまり、人間の記憶は愛情であること、歴史とは感情そのものであって、感情なくして人類は歴史を持ちえないという結論に至るのではないか。そのときまさに、その人類の終焉を告げる緊急警報が鳴る。舞台上の人々はいつかは来るであろう終末の時を予期していたごとくに落ち着いており、とくに山本芳郎の「男」はきわめて冷静に「皆さん、西側階段から行った方がいい」と告げる。これまでこの避難所で起きていることに黒子としてしか関わってこなかった彼が、突然、他者の目に可視化される瞬間――教祖か看護人か、はたまた神か悪魔か、まさに「不気味な存在」である彼の勧めは、結局、過去の痛みを教えてくれる「古い友人」を探し出すことではなく、避難することでしかないのか…。この緊急事態にあっても、いや危機の時代であるからこそ、そのことへの痛みと悔恨と哀惜が、特定の時と場と人との遭遇である演劇への愛をかきたてるのだ。

 死者の数を告げるカウントが急激に増えていくなか、『デカメロン』のエピソードの三人の主人公たち、妄想を見たと信じたニコーストラトスと、恋人の首を愛したリザベッタと、地獄の情景を見たフィロメーナ、いずれも物語のなかで地獄や幻想や死を見てしまった人物たちが舞台に飛び込んできて、絶望した叫びをあげる――過去が現在に、劇中劇が劇に侵入して、時間が収縮し、人類の未来が陥没する。核爆弾の破裂のようにキーンという衝撃音が鳴って照明がオレンジ色に代わり、ソロ《ルパム》だけが動いて、暗転し、劇が終わったという印象を与える。

 しかしふたたび明るくなると、背景のプチプチの後ろで、三人の全裸の少女たちが海辺で燥(はしゃ)いでいる朧げな姿が見える――まるで人類の最後の記憶か、新たな人類生誕の幻想のように。『二〇〇一年宇宙の旅』と『猿の惑星』のエンディングを思わせるデジャブ残像が観客の記憶に残るなか、最後の「吉夢のつぶやき」③を一人の男がマイクに向かって語り、字幕が猛スピードで流れていく――

若きウェルテルの十円禿げに埋め込まれたスーパーカミオカンデがヒッグス粒子に反応する。

インスピレーションは昼休みの中学生のタブレットに予告なく表示されたが、

スワイプの彼方に脱出した。

啓示は訪れたのだ。

 この夢の言葉を聴く者はもはや誰もおらず、文字の専制がAI技術の過剰とともに破滅する、植民地支配と戦争と資本による労働搾取と差別に彩られた西洋的近代の終焉を告げながら。最後のつぶやきは、人類が最早おらずビルの壁面に巨大な字幕だけが流れる都市の廃墟と、水しぶきの散る海辺のユートピアの記憶と、孤独な男のとりとめのない希薄な語りのなかで消尽してゆく。たしかに「啓示は訪れた」のかもしれないが、それを聞く者はいない――私たち<観客>を別とすれば。

 かくして『デカメロン・デッラ・コロナ』は、コロナ禍で在宅を余儀なくされた演劇する身体集団の復讐として、人類の終焉と欲望の破滅を描き出すのだが、それははからずも、私たちが「古い友人」に出会うことによって、自分自身を発見するプロセスともなるのだ。もしもコロナ禍の悪夢から覚めるための手立てがあるとすれば、それはこのような営みの集積を措いてほかにない。


*劇評中の台詞の引用は、『デカメロン・デッラ・コロナ』の台本(3月20日版)によります。ご提供いただいた山の手事情社制作の福冨はつみ氏に感謝申し上げます。また安田雅弘氏には、拙稿への「所感」として、多くのご示唆をいただきましたことを記して感謝申し上げます。