Print Friendly, PDF & Email

  2.視覚とは何か――ピクセルの魔術

 あらためて整理すると、本作は、「人類への提言」という鼎談と、安田自身の執筆による「悪夢のつぶやき」①②と「吉夢のつぶやき」③と名づけられたダダイズム詩人の叫びのような場面と1)安田氏によれば、十篇ほど書いたものを自分で読んでみると「悪夢」を記述したもののように思えたので、俳優に読みたいものを選ばせたという。「支離滅裂でまったく何もない、というわけではなく、薄皮一枚何らかの感慨が残る、という感覚を自分の中では大切に」したという彼自身の言葉のように、ここには「言葉の意味」を超えた「身体の情感」が潜んでおり、それが俳優の演技によって、詩(という仮死状態における夢の発現)として表明されているのである。、『デカメロン』からの三つの挿話という、三種類の位相の異なる場面が組み合わされて構成されたコラージュ的な作品である。いわば、現実に目の前で行われているシンポジウムと、夢の詩的な表象と、中世の物語という時間的に異なる題材が組み合わされていると同時に、それを演じている俳優の身体的テンションで全く異なる空間を創り出す「構成演劇」なのだ。

 最初の「悪夢」は、「カセットテープ一つの約束なんて~」で始まる、いかにも夢の文字化らしい、文脈や意味の整合性を欠いた、ダダイズム風の言葉のごちゃまぜサラダを、大勢の俳優が舞台後方のパイプで出来た足場上で、ユニゾンで語る。しかしここで注目すべきは、このダダイズム風の詩句が語られるさいに、舞台上方にそれを文字化した字幕が、少し遅れて提示されることだ。そもそも文章としては意味不明な単語の連なりが、さらに遅延されて文字化されることで、私たちはなんとか意味を追おうと無益な試みを余儀なくされる。視覚情報である字幕は、肉声ではなく仮想現実なので、遅延して一方的にもたらされる。文章としては意味が理解しがたい、たとえば「恍惚を打ち破る金閣寺の垂直離陸」といった単語と音の連なりが、字幕によって提示されることで、生理的なショック作用を引き起こす。つまりこの詩は意味不明であるはずで、そのことにこそ詩的価値があるはずであるのに、文字化されることによって、私たちは詩と情報との間で引き裂かれる。字幕の文字が私たちの理解をさらに妨げ、単語の連なりを詩として享受する(ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」で論じたアウラの喪失に関わる)悦びや興奮を邪魔するのである。ここに視覚と情報優越の現代社会の病を見て取るのは容易だろう。

「悪夢のつぶやき」①。越谷真美 ほか
撮影=平松俊之

 さらにそのことを印象付けるのが、ときおり舞台前方を横切っていく台車だ。一人の俳優がゆっくりと静かにモニターが置かれた台車を押していき、舞台をただ横切る。この「モニター台車」の移動は、その間に挟まれる『デカメロン』の場面の「幕」を示唆している。『デカメロン』からは、どれも「悪夢」や「視覚」と関係の深そうな三話が選ばれているのだが、最初の「第七日第九話」(梨の樹の上から見える奇妙な風景)では、まず「黄色い梨」が上手から下手に移動することによって「梨の樹」の物語が開幕し、最後に妻の情交を目撃したニコーストラトスが「ああ、妄想であってくれ」と絶叫した後で、芝居中しだいに黄色に染まって舞台に広がっていた模様が、今度は下手から上手に移動するモニター台車に映し出される。二番目の「第四日第五話」(首を切り取るほど好き)では、まず上手から下手に移動するモニター台車に、娘が愛する恋人の首を埋めた植木鉢で育てた「バジリコの葉」の緑の映像が映し出され、先ほどと同様に、この話が上演されているあいだの舞台に徐々に広がっていた緑の模様が、この話が終わると下手から上手に移動するモニターに映される。そして三番目の「第五日第八話」(繰り返される地獄の罰)では、その内容を示唆するように、開幕を告げて上手から下手に移動する台車上のモニターには獰猛な犬と血の情景が映されており、今度は赤い模様が芝居中に広がっていき、終わると下手から上手に移動するモニターに、その模様が映っているという具合である。2)この「モニター台車」の意味については、安田氏のご教示に多くを負っている。

 これらの「幕」は、現代の世界と『デカメロン』の世界とを隔てながら、同時に繋ぐ役割を果たしている。今回の美術・映像を担当したのは青山健一であるが、このモニター映像と舞台照明との相関関係が、『デカメロン』の世界と今の私たちの世界との相克を、観客の視覚を刺激する形で示唆するのだ。つまり、モニターの映像は、私たちがインターネットによって日夜さらされているヴァーチャルな世界観を強調しており、いかに私たちが世界の終末的危機を知覚するのにも視覚の専制下にあるかを思わせるのだが、同時に『デカメロン』から選ばれた三つの場面も、「見る」ことへの欲望と恐怖という二律背反を示唆しているからである。この劇では、電子記号の集積である画像の鮮明さとともに、たとえば中心の背景には透明な梱包材(いわゆるプチプチ)が張られていたり、両脇には色とりどりの幕が配されていたり、俳優たちが身にまとう衣装にメッシュの布が使われていたりすることで、ピクセル的な形象が散りばめられている。しかし現実の出来事や人間の身体はピクセルには還元できないものであるがゆえに、「悪夢」が胚胎されるのではないだろうか。意味内容を逸脱したダダイズム詩とそれを再現した字幕の遅延を伴う共存、仮想現実であるがゆえに現実よりも鮮明なピクセル画像とそれを台車の上に乗せて往還する人物の仮死的たたずまいの相克――映画の発明から一世紀以上を経て、私たちの世界観がいかに視覚情報によって支配され、言葉の力が衰退しているかを、私たち観客は突きつけられるのである。

 さて『デカメロン』の三つの物語についても、より詳しい言及を行うことによって、「視覚」の問題を探求していこう。すでに述べたように、『デカメロン』からは、「第七日第九話」(梨の樹)、「第四日第五話」(首)、「第五日第八話」(地獄)の三話が選ばれており、それぞれ演技空間が下手、上手、中央と別々に演じられる。夫の前で若い愛人と睦あいながら、夫が目撃するその情景をすべて妄想と思い込ませる話。兄たちによって殺された恋人の頭を植木鉢に入れて愛する娘の話。男をもてあそんだ罰としてくりかえし殺される亡者となった女を見て回心する未亡人の話。そのどれもが現実と夢、視覚と対象物、生と死といった彼我の境界を巡る物語であると言え、私たちはようやく劇の本体が始まったという安堵感を覚える。しかし私たち観客はすでに演出の周到な仕掛けによって、世界の危機的状況という現実に対処するにも、視覚情報の専制というピクセルの魔術から逃れられない存在であるという意識を抱かされているので、これらの一見、時間的にも空間的にも自分たちとは距離のある寓話を、絵空事として見物することはできなくなっている。しかも最初の話、主人が梨の樹の上から妻と小姓の情交を目撃/妄想するという卑猥で感情的なエピソードを演じる俳優と、「人類への提言」という知的で高尚な対話をする俳優とが重なっているために、「知識や意志によって感情は強制できない」という知識人の提言が更なる重みをもってくるのだ。

「デカメロン第七日第九話」。左から リューディア(ニコーストラトスの妻)=山口笑美、ニコーストラトス(裕福な貴族)=谷 洋介、客人1=長谷川尚美、客人2=有村友花、ナレーション、ルスカ(侍女)=安部みはる、鷹=渡辺可奈子
撮影=平松俊之

 『デカメロン』の挿話が演じられる部分は、山の手事情社の俳優たちの身体技法である《四畳半》演劇がもっとも生かされるところだろう。台詞の往還だけでなく、他者との交感による感情の起伏が波打つ身体のアンサンブルとして舞台上のグルーブ感を醸し出す。つまり『デカメロン』というイタリア郊外の田園風景を思わせる挿話が、《四畳半》演劇によって、公民館のフラットな空間に移し替えられると同時に、その時空間を一気に凝縮させ、濃密な演劇空間へと変えてしまうのである。

 今回の上演には、総勢二〇人余りの俳優たちが出演しているが、多くの若手演技陣も含めて、三つの位相の異なる「構成演劇」の部分それぞれにふさわしい演技を展開していることに注目した。今回の作品では、これら三つの部分のほかに、山の手事情社の舞台には欠かせない、音楽に合わせて俳優たちがユニゾンで身体表現を行う《ルパム》も挿入されている。在宅時間に触発されたという集団《ルパム》で発揮されるアンサンブルの質の高さは言うまでもないことながら、個人の演技としても、身体と情動の弛緩と痙攣の連続を表現する名越未央のソロ《ルパム》や、「悪夢のつぶやき」(チャッピー)②の場面での喜多京香のゆるいユーチューバーの自己紹介風の語りからダダイズム風の独白への瞬時の転換にも目を瞠った。

「在宅」《ルパム》
撮影=平松俊之

 このような鍛えられた身体性に裏打ちされた個人と集団との緊密な関係性の構築が、山の手事情社独特の伸縮と拡張、静止と衝動、反復と安息が混在した時空間を導き出し、それこそが「構成演劇」を単なるアイデアではなく、観客にとってその場にいながら、過去、現在、未来の時空の往還を可能にする劇的体験とするのだ。「提言」と「悪夢」と『デカメロン』は、題材もトポスも異なるものでありながら、ある種の地続き感をもたらす――そこにこそ「構成演劇」の妙がある。そのなかで私たちは、近代的リアリズム演劇のもたらす日常的で家庭的な安心感を揺さぶられ、生理的で身体的なショック電流を浴びていくのである。

   [ + ]

1. 安田氏によれば、十篇ほど書いたものを自分で読んでみると「悪夢」を記述したもののように思えたので、俳優に読みたいものを選ばせたという。「支離滅裂でまったく何もない、というわけではなく、薄皮一枚何らかの感慨が残る、という感覚を自分の中では大切に」したという彼自身の言葉のように、ここには「言葉の意味」を超えた「身体の情感」が潜んでおり、それが俳優の演技によって、詩(という仮死状態における夢の発現)として表明されているのである。
2. この「モニター台車」の意味については、安田氏のご教示に多くを負っている。