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古い友人に会いなさい。時間をかけて、手間を惜しまず。

『デカメロン・デッラ・コロナ』

 

はじめに

  劇団山の手事情社が『デカメロン・デッラ・コロナ』(コロナ禍のデカメロン)と名付けられた久方ぶりの新作を大田区の池上会館 集会室で上演した。このタイトルに込められた意図の評者なりの解釈はおいおい明らかにしていきたいが、作・演出の安田雅弘が中世イタリアの寓話集から題材を選んできた動機の一つに、中世ヨーロッパをくりかえし襲うことで人口と産業と宗教の構造を変え、近代を準備した感染症の流行と、ここ数年の新型コロナウィルスの世界的流行による社会構造の変革への連想と、それに対する私たちの認識の変化があることはおそらく間違いないだろう。『十日物語』とも訳される『デカメロン』は、一三四八年に大流行したペストから逃れるためフィレンツェ郊外に引きこもった十人の男女が一晩に十話ずつ語るという趣向の百話からなる。つまり、都市社会におけるパンデミックによって強いられた「在宅」状況と、それに対抗する手段としての「表現」手段の模索、という七世紀近くの時差とイタリアと日本の地域差を隔てて共通する「世界観」の変貌が、今回の演劇の主題なのだ。  

 そのことについて安田は、演出ノートで次のように述べている――

 在宅時間が増え、ネットで本当だか嘘だかわからないさまざまな情報に触れる機会が増えた。うすうす感づいてはいたものの、テレビや新聞などマスコミの情報が随分いい加減だと、時にはひどいなと考えるようになった。こんなものを信じていたのか。[中略]

 何かわからない、不気味なものが自分たちに迫ってきているような不安感を抱くようになった。

 今回の芝居に本格的に取り組むようになった時、コロナ禍は――つまりコロナそのものではなく在宅時間に変貌した世界観は――私にとって「悪夢」なのだと確信するに至ったのである。

 「不気味なもの」について考察したフロイト心理学を持ち出すまでもなく、「悪夢」というのは、私たちが寝ている間の夢の内容そのものではなく、現実の不安や恐怖が目覚めた意識のなかで回流してくる後味の悪い感覚のことである。ここで安田が言っているように、災厄はコロナウィルスに起因するものというよりは、それをきっかけに(あるいはその原因となった)五世紀以上にわたる西ヨーロッパ中心の近代世界の末期的様相にあり、それが過剰に信仰されてきた功利主義的文明の危機として認識されているのだ。同時に、夢とはイメージの集積であるから、整合的な内容や意味よりも、現実の欲望や不安が視覚的に不均衡に強調されたものなので、形象や文字のような<かたち>に焦点が合わされる。その意味でも、「在宅」によって視覚的イメージによる情報の横溢に馴らされた私たちの現況を象徴するものとして、「悪夢」ほどふさわしいものはないだろう。

 実際に今回の劇には、安田自身が書いた「悪夢(吉夢)のつぶやき」という場面が含まれており、それが『デカメロン』から選ばれた三つの物語に挟まれている。百話あるボッカッチョによる『デカメロン』は、乱暴に一言でまとめてしまえば、人間関係、特に男女関係にまつわる欲望と諦念の物語の集成であるが、脚本を構成した安田は、そこから「悪夢」に関わる三編を選んで、劇中に挿入したという。さらにあとでも論じるが、それを通常の劇場ではない空間において演劇化するのに、山の手事情社のトレードマークである《四畳半》演劇という肉体の共演/饗宴ほどふさわしいものはないと言える。多くの若手団員たちの鍛えられた身体によるアンサンブルは一糸乱れず、しかし微妙なずれと不協和音を醸し出しながら、性と死が隣り合わせの日常が中世も近代も反復されてきたことを明らかにする。安田演劇の本質は<仮死性>にある、というのが評者なりの見立てであるが、今回の作品にも、死と生との境界を指し示すテーマやイメージやモチーフが横溢している。いわば『デカメロン・デッラ・コロナ』は、コロナ感染症によって長期間の自粛を迫られてきた安田と山の手事情社の劇団員たちの、社会への悪意に満ちた、そして観客としての倫理を問う、一種の復讐譚なのである。このような仮説を本稿では、場所と情報と記憶という三つのテーマから検証してみたい。

 

1.劇場とは何か――トポスを創る

 せっかくの満開の桜を冷たく叩くように雨が降るなか、東急池上線の池上駅を降りると、まだめざす池上会館は遠い(評者の観劇日は三月二四日金曜日)。人に聞いてようやく到着した会館は、劇場というよりは普通の公民館で、しかも最近よく見かけるモダンで無機質な建物ではなく、ややレトロな昭和の面影を残した古ぼけた感じの会館だ。会場である集会室がどこの階にあるのかもよくわからず、しばらく迷ってから、ようやく開始時間ぎりぎりに到着すると、確かにそれなりの広い空間のなかに、階段状の二百人は入ろうという座席が仮設されており、客席と舞台との間に明確な仕切りはないが、四脚の椅子と背景を幕で覆われた横長の演技スペースがある。

 客席に座るとアナウンスが流れる――「乳幼児のおむつ、ミルク、離乳食、着替えなどは、1階展示ホールで取り扱っています。ご入用の方は避難者カードをご持参の上おいでください。」ということは、この公民館は(何かの災厄からの)避難所という設定で、私たちも「避難者」に擬せられているのか、と思う間もなく、今度は「間もなく2階集会室において、『人類への提言』と題した鼎談が始まります。ご興味のある方は、早めにお集まりください」と告げられる。たしかにここは2階の集会室なのだから、これは一種のメタドラマ的仕掛けによる異化作用が意図されているだけでなく、どうも自分たちが居るこの場所は、外界と隔絶された、というか外の世界が危険すぎて住めないので人びとがやむを得ず共同生活をしている場所なのかもしれないと、少し不安になってくる。そんな不穏な雰囲気を増幅するのが、舞台の両脇に作られた坂の幕の奥から、人が静かに滑り落ちてきてから、しばらくして立ち上がり、舞台奥に去っていく情景だ。そのたびに、下手上の電光掲示板の数字が一つずつ増えていくので、これはどうやら死者の数を記録しているらしいと想像してしまう。1)最初の数字は73000ぐらいから始まっていたと記憶するが、これは演出の安田氏によれば、2023年3月現在の日本国内におけるコロナ感染による死者の概数であるという。

 そうこうするうちに、アナウンスどおり、「鼎談」がまっとうなシンポジウムの態で始まる。司会者のほかに、文芸評論家と数学者と宗教学者が「人類への提言」という大きなテーマで現代社会の問題を話し合うという趣向だ。劇中この鼎談は、『デカメロン』からの三話の場面と交互に挿入されて三回行われるが、半世紀以上前に行われた小林秀雄と岡潔との対談『人間の建設』からの引用を参考にして作られている。登壇者が述べる「世界の知的能力が低下している」「政治と軍事を重んじて、土木工事を求める」「核兵器が大量にある」といった状況は、半世紀前も現在も変わらず、むしろ悪化している現実があるという感想を私たちは抱かざるを得ない。つまり、そのタイトルにもかかわらず、「人類の時代」は遠のいており、どうやら未来への展望があまりない世界に私たちはいるのではないかという印象を私たちは抱かせられるのだ。そしてこの鼎談が行われている間も、時折、左右の坂から人が滑り落ちて掲示板のカウント数が増え、それだけでなく爆音が聞こえたり、明かりが点滅したりと、外界では大規模な戦争か災害が起きていることが暗示される。さらにこの印象は、登場人物たちの目の下に赤い線を入れたゾンビのようなメーキャップにより、仮死的な存在であることを示していることでも強められる。この近未来的な、あるいは前歴史的な場所では、死と生が混在しており、すべての形象が仮の姿をとっているのである。

 もうひとつ、この仮設性を強調しているのが、舞台上方に大きく映し出される映像と字幕だ。『人類への提言』では、発言者の顔がアップの映像として映し出され、話し合われている主題がテロップとして出されている。そうした映像や字幕は、聞いている私たちの注意を促したり理解を助けたりというよりは、わざわざ付け足した感じを与え、いま目の前の舞台で起きている「鼎談」も、やはり何か「仮の姿」というか、時間性や空間性がどこかズレているのではないかという印象を与えるのだ。

「人類への提言」。左から 大野菫[すみれ](宗教学者)=安部みはる、小室しずく(旧すめだ山荘の管理者)=中川佐織、田川千隼[ちはや](文芸評論家)=谷 洋介、飛鳥絃羽[いとは](数学者)=佐々木 啓

劇団山の手事情社『デカメロン・デッラ・コロナ』
構成・演出=安田雅弘
2023年3月24日(金)~26日(日)/池上会館 集会室
撮影=平松俊之

 こうした「ズレ」は、他の場面でも強調される。後で論じるように、「悪夢のつぶやき」の場面では、俳優たちの発言を文字化した字幕が少し遅れて出されるし、『デカメロン』の物語が演じられる場面では、今度は文字ではなく、モニターに映し出される写像においても、舞台を彩るイメージにおいても、色と模様が強調される。つまり、この上演は、一貫して観客である私たちの五感のなかでも徹底して視覚を刺激しながら、しかもそれが確実に対象を捉えきれていないという疑いを起こさせるような仕掛けに満ちているのである。

 しかしこのようなディストピア的なイメージと、やや居心地の悪いズレを伴った形象が横溢する舞台上においても、鼎談の発言者たちは、首肯すべき意見を開陳する。たとえば、数学者の「感情」に関する次のような発言――

 つまり、いくら知的に証明されても、数学者の感情の満足なしには、数学は存在しないことがわかったんです。

これを受けて文芸評論家が、「その「感情」は心と言い換えてもいいですかね。[中略]言葉もそうです。心から言葉が出てくる。知性からではないんです」と言う。たしかにこうした言葉は、アジア太平洋戦争の惨禍を経験してきた二人の卓越した知識人が戦後世界の復興を期待して述べているものだろうが、その世界さえもが終焉しようとしている危機の時代を背景とすれば、私たち観客はそれを重く受け止めねばならなくなる。そもそも知識人の対談を舞台化するのは、かなり困難な試みではないだろうか? 『人間の建設』は、戦前から戦後を生き延びてきた日本の代表的な文芸評論家と数学者との対談であって、半世紀以上を経た今、私たちは本の頁に書かれた文字として読むほかない。ところが、わざわざその形式を壊して、一人の司会者と三人の登壇者(文芸批評家と数学者と宗教学者)の鼎談とする、というか、それを演劇化するのは、いったいどんな意図があって、何のために行われているのだろうか? 

 この問いに対する評者の仮説は、山の手事情社がこの作品に賭けた、もっとも重要な試みの一つである「観客の創造」に関わるのではないか、というものである。つまり、「公民館」→「避難所」→「人類への提言」というこの芝居の構造は、単に私たちの興味を戦争や環境破壊といった現代世界の危機へと差し向ける仕掛けであるだけでなく、演劇の観客として私たちがどのような主体化をなしうるのかという問いを提起しているのだ。そのために、先ほど触れた映像や字幕といった仕掛けがあるのであって、それらは私たちの感覚を刺激しながら、一種の異化作用として知的な覚醒をもたらしていく。私たちは、演劇を見に行く時に通常、たとえそれがどんな場所であっても「劇場」であることを疑うことをしない。しかし良く考えてみれば、劇場は建物や場所としては存在しているが、それを演劇の場として実在させるのは、俳優の身体と観客の感性との出会いによる創造的プロセスではないのか――避難場所における鼎談という人工的で作為に満ちた構造が私たちに意識させるのは、そのような観客としての主体化の契機である。

 しかしながら、人びとを観客たらしめているのは「知性」ではなく「感情=心」ではないかと問いかけられた私たちの納得や満足を、逆撫でするかのように、舞台には次に見慣れぬ光景が展開されていく――「悪夢のつぶやき」①である。

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1. 最初の数字は73000ぐらいから始まっていたと記憶するが、これは演出の安田氏によれば、2023年3月現在の日本国内におけるコロナ感染による死者の概数であるという。