身体に意識を向ける国際芸術祭「あいち2022」の作品群/桂 真菜
岸本清子 Sayako Kishimoto 絵画とパフォーマンスの記録 2022
愛知県生まれの岸本清子も、ジャンルを超えて表現を模索した。高校の先輩であった荒川修作、赤瀬川源平もメンバーだったネオ・ダダイズム・オルガナイザーズなど、60年代に勃興した前衛芸術運動に加わり、社会改革に取り組んだ。激しく生きた軌跡を追う展示には、フェミニズム思想も流れる。肉体を駆使するライブペインティング・パフォーマンスなど、自意識からの脱却を目指す活動は、癌に罹患した後も続いた。1983年に参議院議員選挙に雑民党から立候補した際の政見放送で、岸本は経済格差や同性愛に対する差別に抗議した。その主張の本意は、多様性の大切さが普及していなかった当時、テレビの視聴者には伝わりにくかっただろう。けれども、少数者に寄り添う真情は、後世の人々の心に届く。
路上パフォーマンスの装置としても使われた色彩豊かな絵画は、周囲の風景を一変させたようだ。「あいち22」の会場には、男性優位の社会や芸術界も批判し、孤立しがちだった岸本の化身ともいえるゴリラの絵も展示される。白いゴリラが、鎖を切って解放される巨大な画面(《ホワイトマウンテンゴリラ》1981、金沢21世紀美術館蔵)には、平等を目指すアクティヴィストの優しさとユーモアが息づく。絵画の下には岸本が書いた詩文が添えられ、権力を憎み自由を愛する作家の言葉が読める。
リリアナ・アングロ・コルテス Liliana Angulo Cortés《パシフィックタイム―民衆が諦めたりするものか!》
《Still Hair:アフリカ系住民のコミュニティでの髪型とケアの実践の伝統に関する共同プロジェクト》共に2022
痛みを抱えた人をケアするアーティストの作品は、海外からも届く。コロンビア出身のリリアナ・アングロ・コルテスは二つのパートから成るインスタレーションで、植民地時代から続くアフリカ系の人々に対する偏見を告発する。「ブラックパワー・ムーヴメント」の思想と、命がけの抵抗のエネルギーが、広い展示室に渦巻く。展示室を覆う黄色と緑の旗は、人権と環境保護のシンボルだ。一つ目のパート《パシフィックタイム/民衆が諦めたりするものか!》では、コルテスの出身国コロンビアの貧しい太平洋地域で、有色人種や先住民がストライキを起こす映像に胸を突かれた。住民の健康と教育より貿易や開発を優先する支配層の方針に、立場の弱い側が反対する運動が、幾つもの地域で起きる。その背景に人種差別があることをコルテスのリサーチは裏付ける。また、ペルーの漁業従事者が語る映像では、漁獲量を減少させる公害の問題が、海で働く人自身から語られる。字幕付きの映像だが、表情と声のトーンが環境汚染の深刻さを伝える。コルテスの作品は問題を分かち合う媒体として、広域の住民のネットワークを築く力をもつ。
もう一つのパート《Still Hair:アフリカ系住民のコミュニティでの髪型とケアの実践の伝統に関する共同プロジェクト》は、髪の編み込み文化がモティーフ。アメリカ大陸へ奴隷として連れてこられたアフリカ人たちが、虐待にも負けずに保ち続けた言葉を使わないコミュニケーションの伝統を知らせる。写真、図版、パフォーマンス映像、オブジェを組み合わせたインスタレーションは、毛髪を使い劣悪な境遇から脱走した人たちの足跡を教える。壁に貼られた写真に並ぶヘアスタイルは、黒人の共同体に伝わるサバイバルの鍵なのだ。髪の結び目や編み方は逃亡経路を教える地図となり、ふくらませた髪は黄金や作物の種の隠し場所になった。プランテーションや鉱山の経営陣は黒人を迫害し売買したが、祖先から継いだ知恵と勇気を奪うことはできなかった。だが、肌や体毛に優劣をつけて階級化する差別は、今も各地で悲劇を生み続けている。
黒人たちが使役された時代に、支配階級の者は黒い縮れ毛を醜形と決めつけ、直毛化や染色によるホワイトニングを求めた。髪にまつわる事象を引用したパフォーマンスは、野外で撮影された。女性の髪が別の女性の指で編まれ、他の髪を足して数メートルにわたって伸びていく。映像の髪が「あいち2022」の会場につながったように見えるのは、展示室の壁や天井から大量の髪の束が下がるからだ。色とりどりの髪は、強者が従属させた奴隷を縛るロープにも、逃げる弱者たちの連帯の絆にも見える。一方的にモラルや美意識を押し付ける非道を、鑑賞者に肌で感じさせるコルテスの作品は、背景の異なる人同士が互いに尊厳を認め合うよう呼びかける。
笹本晃 Aki Sasamoto《リスの手法:境界線の幅》2022
ニューヨーク在住の笹本晃による《リスの手法:境界線の幅》(2022)は、建具と木材を組み合わせたインスタレーションだ。建設中の住宅にも似た、ドアや窓を備えたスペースを変容させながら、笹本はパフォーマンスを行う。筆者が実際に立ち合ったのは一部分で、全体は「あいち2022」公式サイトの記録映像を視聴した。笹本が持ち上げるペンダントライトの光線は、視点を変えてみたら、という提案にも、隠れているものを探す、という決意にもとれた。障子パネルをはずして移す折の逡巡には、「他者」を受け入れる寛容と、感染や犯罪を防ぐための排斥の葛藤が読める。また、壁状に並んでいた障子パネルの一部が中空に吊られた光景は、災害の爪痕を想わせた。家や土地が変われば地図も書き換えられ、共同体を外部から区切る線も引き直され、テリトリーは流動していくのだ。
笹本がキャスターの軋む音をたててインスタレーションの一部を引っぱり、空間をデフォルメする行為からは、閉塞打開への渇望と、移動せざるを得ない苦境が迫る。無機質な美術館内のインスタレーションに取り付けたドアや窓は、開閉しても内部と外側を生まない。アーティストは入っても出ても何処にも着かない装置で上演される、不条理劇の登場人物にも見える。シャープな動きで仰向けに寝たり、スポンジを投げたりする笹本は、天地人の境界にまつわる問いを、明瞭な肉声で送る。大海から体内に至る広範囲な質問から、コロナ禍で受けた制限で、認識と行動の範囲が曖昧になった混迷が透けた。
パフォーマンス後に筆者が近づいた建具には、「人以外の生きもの」とのコミュニケーションがほのめかされていた。題に掲げたリスの痕跡を探すと、数多いドアスコープが気になる。ドアの高所から床近くまで穿たれた覗き穴は、パフォーマンス中にシャッターのスラットを横にずらし笹本が観客を見返した「窓」を思い出させる。ドアスコープと「窓」は、狭いすき間をすり抜ける敏捷な小動物への配慮かもしれない。リスの仲間には地域によって、近い将来に生息できなくなる絶滅危惧種もいる(環境省レッドリスト2020より)。本作には窮地に陥る人類が、やはり追い詰められた動植物を思いやり、現状をわずかでも改めていく、楽観的な未来図も透ける。
人以外の生きものへのまなざしは、2022年7月に麻布のTake Ninagawaギャラリーの個展で観た笹本のインスタレーション『浮き沈み浮き』(2022)に通じる。同作ではステンレス製シンクの上で、たくさんのカタツムリの貝殻とスポンジが浮いたまま動きまわった。台所で使われる素材は水や電気などの資源や食料の不足といった、人類が直面している問題を連想させた。日常に溶け込む建具と流し場を用いた2作品は、齧(げっ)歯類(しるい)や魚介類と共生するエコロジー思想を宿す。